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築地散策 その1 (H23.2.1〜2.13)

築地市場界隈


築地市場(水産物仲卸業者)



築地市場(水産物仲卸業者)

東京で一番の早起きで、活気と威勢の良さが身上の築地界隈は、幕末から明治にかけて西洋文化が一斉に花開いた町です。

この築地界隈を散策しました。


今回の散策コースは次のとおりです。

都営地下鉄大江戸線築地市場駅→築地市場→水神社→築地場外市場→小田原橋橋柱→海幸橋親柱→波除稲荷神社→海軍操練所跡→勝鬨橋→かちどき橋の記念館→かちときのわたしの碑、勝鬨橋之碑、海軍経理学校の碑→月島の渡し跡→電信創業の地→運上所跡・東京税関発祥の地→アメリカ公使館跡→聖路加ガーデン→ヘンリ−フォールズ住居跡→佃島渡船の碑→築地居留地跡→シーボルト胸像→蘭学事始の地、慶應義塾発祥の地→立教女学院記念碑→立教学院発祥の地→トイスラー記念館→芥川龍之介生誕の地→浅野内匠頭邸跡→築地本願寺→門跡橋→東京メトロ日比谷線築地駅(都営地下鉄大江戸線築地市場駅)


築地市場(水産物仲卸業者)



築地市場(水産物仲卸業者)



築地市場正門

都営地下鉄大江戸線築地市場駅のA1出口を出た左手が、築地市場の正門です。

築地は名前のごとく埋立地で、明暦3年(1657年)の明暦の大火によって焼失した浅草の本願寺の移転のために埋め立てて誕生しました。

本願寺が移転後、浄土真宗の寺院や墓地が次々建立され、周辺は寺町のようになりました。

築地場外市場あたりも門前町になったようです。


そのほかの地域は武家屋敷が多く立ち並び、築地市場のある場所は老中松平定信の下屋敷でした。当時は江戸湾に臨み風光明媚で浴恩園と呼ばれていました。

江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設け、後に海軍部門の軍艦操練所を設置し、勝海舟らが教授として赴任しました。

明治維新の後、大名屋敷や講武所跡は明治政府に接収され、その後は主に海軍用地として使用されました。


築地市場正門左側の浴恩園跡の案内板



築地市場(水産物仲卸業者)



築地市場(水産物仲卸業者)

東京都民の台所を支えている魚河岸は、江戸時代初期(1603年)、徳川家康が江戸城内の台所をまかなうため大阪の佃村から漁師たちを呼び寄せ、江戸湾内での漁業の特権を与えました。

漁師達は魚を幕府に納め、残りを日本橋で売るようになりました。

これが魚河岸の始まりといわれており、その記念碑が日本橋の袂に立てられています。


大正12年9月の関東大震災により、全てを焼き尽くされて長い歴史を持った日本橋魚河岸はその幕を閉じました。

関東大震災直後、芝浦に仮設市場が設けられましたが、同年12月には、交通の便が悪い、狭いなどの理由から、東京市は海軍省から築地の用地の一部を借りて、市設の魚市場を築地へ、青物市場を江東へ移転することにしました。


築地市場(水産物仲卸業者)



築地市場(水産物仲卸業者)

これは中央卸売市場開設までの臨時の暫定市場として建設したものですが、これが後の築地市場の始まりとなりました。

昭和10年2月に海軍省の土地が払い下げになり、現在の築地中央卸売市場が開設されました。

築地市場は、築地市場の別称である場内市場と、築地市場に隣接した商店街である場外市場とに分かれています。

築地市場(場内市場)は面積約23ヘクタールです。


築地市場(水産物仲卸業者)



築地市場(水産物)



築地市場(水産物)

「場内」と呼ばれるセリ場や仲卸がある主な建物は、弧を描いた形をしています。

これはかつて国鉄東京市場駅が存在したことが大きな要因となっています。

線路がこれらの建物に平行して存在しており、これを利用した鮮魚貨物列車などが入線していました。

しかし生鮮食品でも貨物運送が貨物列車からトラックに徐々に移行し、その影響で冷凍車や活魚車などの貨車や鮮魚貨物列車なども廃止され、駅も廃止されました。


築地市場では、7つの卸売業者と約1000(うち水産約820)の仲卸業者によってセリが行われます。

2005年の取扱量は、全品目合計で年間約916,866トン(1日当たり水産物2167トン、青果1170トン)、金額にして年間約5657億円(1日当たり水産物17億7千万円、青果3億2千万円)になります。


濃紺色:水産物卸売業者 青色:水産物仲卸売業者
緑:青果卸売業者 黄緑:青果仲卸売業者
橙色:関連業者営業所



築地市場(水産物)

現在築地市場で取り扱う品目は水産物(取扱量日本最大)のほか、青果(野菜、果物、東京では大田市場に次いで2位)、鳥卵(鶏肉及び鶏卵)、漬物、各種加工品(豆腐、もやし、冷凍品等)があります。



築地市場(青果卸売業者)


築地の「場内市場」というのは、認可されている仲卸業者のみが販売をすることが許されている築地市場の市場内のことをいいます。

場内市場には一般の人でも自由に出入りができ、生鮮食料品を買うことができますが、通常は業者やお店などを運営されている方が仲卸問屋から直接商品を買いつける場所です。

場内市場は、運搬車(ターレット)が頻繁に往来し、水しぶきが飛ぶ慌しい雰囲気が漂っています。


築地市場(青果卸売業者)



築地市場(青果仲卸売業者)

仲卸業者は各店舗毎に早朝からセリに参加し、商品を入荷します。

蓄積したノウハウで品質を見分ける能力、情報収集、的確な需要と判断力に基づくセリ取引によって商品の価格を決定しており、その評価機能は仲卸業者の最も大事な機能の一つといえます。

その市場の規模の大きさから、多くの商品がまず築地へ入荷されその評価機能を通り、各地に出荷されていますが、築地に美味いモノが集まるのは、その市場規模と評価機能によるところが大きいといっても過言ではありません。


築地市場の正門を入ると右手にあるのが青果物仲卸市場です。

青果物仲卸市場にはいるとダンボールの山で、青果物を並べているお店はあまり見当たりません。

青果物は大部分がダンボール単位で取り扱われているのかもしれません。


築地市場(青果仲卸売業者)



関連業者営業所と走り回るターレット



関連業者営業所と走り回るターレット

正門から入って青果物市場を過ぎた右奧に広がっているのが水産物仲卸市場で、扇形の建物の中に約820の水産物仲卸業者が軒を並べています。

こちらは店頭に数多くの魚が所狭しと並べられています。

水産物仲卸市場のメインの通路も建物同様に弧を描いています。


正面入口から入って左手にあるのが、関連業者営業所です。

市場の主幹業務を補完する関連事業者物品販売業と飲食業が軒を並べる場所です。

このエリアは、海苔屋、お茶屋、本屋、乾物屋、包丁屋という具合に取り扱い品目が規定されており市場ならではの妻物屋などが存在しています。


関連業者営業所には朝早くから行列が



行列の先にはお寿司屋さんが

飲食業については「飲食店」としか規定されておらず、近年、喫茶店が商売替えをしたり、IT関連企業が定食屋を買収するなどにより、観光客を標的とした寿司屋が増えているとのことです。

築地市場は朝が早いこともあり、9時過ぎに訪ねるとすでに人気のお寿司屋さんには長い行列ができていました。


築地の一日の様子です。

午後5時:市場に魚が集まります
夕方の5時頃から夜中にかけて、魚を積んだトラックが市場に続々と集まってきます。到着した魚は「卸売業者(築地では7社)が受け取り、自分の売り場に並べます。

午前3時:取引の準備が始まります
卸売業者の売り場に徐々に人々が集まってきます。この人達は「仲卸業者」や「売買参加者」と呼ばれ、魚をセリで買う人達です。魚の下見をして、値段を検討してセリに備えます。

午前5時:取引が始まります
セリの始まりです。売り手であるセリの呼び掛けに対して仲卸業者、売買参加者が指で値段を示します。一番高い値段を付けた人がその魚を買うことができます。

午前7時:仲卸業者の人達が店の準備を始めます
仲卸業者達は、セリが買った品物を市場の中にある自分たちの店に運び、お客さんである町の魚屋さんや料理屋さんが買いやすい大きさ、量に小分けして店に並べます。

午前8時:街の魚屋さんや料理屋さんが魚を買いに来ます
街の魚屋さんや料理屋さんなどの小売店の人達が仲買業者のお店に魚を買いに来ます。この時間、市場に一日中の中で一番人が集まります。魚屋さんや料理屋さんは、仲卸業者から買った品物をトラックに積み込み、街の自分たちの店に運びます。このようにして、街に新鮮な魚が届くのです。

午前11時:そろそろ閉店です
市場では午前11時になると、仲卸業者の人達は店の片付けを始めます。閉店の時間が近付いているのです。

午後1時:もう明日の準備が始まっています
この時間になると、仲卸業者の店も閉まり、場内はとても静かになります。一方、卸売業者の人達は、出荷者と連絡を取るなど、すでに翌日の準備を始めています。場内では清掃が始まり、広い売り場ではタンクローリーで水を撒いたりします。
すっかり綺麗になった市場は、翌日の魚が運び込まれるのを待ちます。


水神社

関連業者営業所の東側に「水神社(魚河岸水神社遙拝所)」があります。

水神社は、天正18年(1590年)徳川家康の江戸入府とともに移住してきた日本橋魚河岸の開祖・森孫右衛門ら摂津国の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈念して「弥都波能売命(みずはのめのみこと)」を祀ったのが始まりといわれています。


水神社と旗山



水神社

明治34年(1901年)には神田明神の境内に「水神社」本殿が建立され、日本橋魚市場は関東大震災後に築地に移転し、現在地に遙拝所が建立されました。

以来、築地魚市場の守護神として「水神さま」と呼ばれ、魚河岸会の人々の篤い崇拝によって大切に守られています。


海軍発祥の地

明治維新後、幕府の軍艦操練所がこの地に設置されました。

この地は松平定信の下屋敷「浴恩園」でしたが、明治5年(1872年)海軍本省が旧尾張藩邸に置かれと、浴恩園内の築山の上に「海軍卿旗」が掲揚されました。

この旗を見て人々はこの山を旗山と呼び、現在も海軍発祥の地として「旗山」と刻まれた碑が水神社前に建っています。


旗山



築地場外市場 みゆき通り



築地場外市場 左は休憩所

築地市場(場内市場)から大江戸線築地市場駅のある「新大橋通り」に出て、右方向に進んだ最初の信号「市場橋」と次の信号「築地4丁目」の間の右手に広がっているのが「築地場外市場」です。


本願寺はもともと西南の方角を向いていて、参道に門前町を形成していました。

このため現在、場外市場となっているエリアは門前町の一部でした。

しかし関東大震災による被害で境内の多数の墓地が和田堀へと移転しました。


築地場外市場



築地場外市場



築地場外市場

そこに中央市場の盛況に合わせるように水産物商などが入ってきて、自然発生的に発展したのが場外市場です。

150m×300m程度の比較的狭いエリアですが、墓地の跡地で商売をすると繁盛するという巷説どおり、全国から集ってくる食品・調理用品を扱う店舗は500を数えるとのことです。

小さな魚屋、小料理屋をはじめとして、一般客相手の小さな店が所狭しと並んでいます。


場外市場は、築地という立地を活かし、一般の小売店が毎日築地場内の仲卸業者から仕入れを行うことでいち早く新鮮な商品をお客様のお手元へお届けする役割を担っています。

場内、場外共夜明け前から店を開いており、ほとんどの店はお昼には店を閉めます。


したがって買い物に行く場合は午前中に行く必要があります。


築地場外市場



築地場外市場



築地場外市場

築地市場から進んできた最初の「市場橋」の信号で、新大橋通りと交差しているのが「みゆき通り」です。場外市場の最も築地市場寄りの通りです。

築地市場は、明治時代は海軍の本拠地でした。



狭い路地にもこんなお店が


狭い路地にもこんなお店が


海軍の式典には、皇居から続くこの通りを、明治天皇が行幸されたとのことです。

このため「行幸通り」、すなわち「みゆき通り」の名が付いており、場外市場の店が軒を連ねるメインストリートです。


みゆき通りの休憩所



小田原橋の橋柱

「市場橋」の信号を右折してみゆき通りを200m程進むと、街の軒並みが途切れ左右が細長い駐車場になっています。

築地一帯は、かつて縦横に水路が流れていました。

現在は埋め立てられて駐車場になっていますが、橋柱だけはあちこちに残っています。

その一つがみゆき通りに残っている「小田原橋の橋柱」です。


みゆき通りをそのまま進んだ正面にあるのが「波除稲荷神社」で、その手前を右に曲がったところが海幸橋で、その先が築地市場です。

海幸橋は、昭和2年に旧築地川東支川の隅田川河口部に創架された鋼鉄橋です。

日本橋にあった魚河岸が築地に移転しましたが、その時に魚河岸の入口に新しく架橋された橋です。

魚河岸の繁栄と豊漁を願って海幸橋と名付けられたといわれています

築地川東支川は平成7年に埋立てられ、橋本体は平成14年に撤去されました。


海幸橋の石造親柱


海幸橋の鋼鉄製親柱 傍は駐車場


優美な形をした海幸橋は、ランガー式補剛ダイドアーチ橋という構造形式に分類され、わが国初のランガー橋としてこの場所に架けられました。


また、点対称に配置された照明付きの親柱は、アムステルダム派デザインといわれ、橋梁デザイン史上貴重なものです。

鋼鉄製の親柱2基と石造親柱2基はそのまま記念物として現地に保存されています。

このタイプで現存する橋は、江東区の平久運河に架かる白妙橋があります。



波除稲荷神社


波除(なみよけ)稲荷神社の創建は万治年間(1658年〜1661年)と伝えられています。

築地一帯の埋立てが進められた万治年間、波浪により工事が難航を極めた際、海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が治まり、埋立て工事が無事完了したといわれています。


波除稲荷神社



波除稲荷神社獅子殿

「波除」という尊称はこの故事に由来するもので、江戸時代以来、航海安全や災難除け・厄除けなどの神として人々に篤く信仰されてきました。

波除稲荷神社の祭りは、江戸時代から獅子祭りとして知られ、祭りの際には数多くの獅子舞が街を練り歩きました。


現在でも毎年6月の「つきじ獅子祭」では、「厄除け天井大獅子」や「弁才天お歯黒獅子が巡行することがあり、獅子祭りの伝統を伝えています。


弁才天お歯黒獅子



天水桶

獅子殿の前に大きな鉄製の天水桶があります。

築地市場に一角にはかつて尾張藩の蔵屋敷がありました。

尾張といえば瀬戸物。船積みされた瀬戸物は、この蔵屋敷に運ばれ、御用商人の手で江戸市中へと売りさばかれました。

船から蔵へと瀬戸物を入れた重い俵を運んだ、小揚げと呼ばれる運搬人が、力仕事で得た報酬で、波除稲荷神社奉納した天水桶です。

側面に「天保8年奉納 尾州 御蔵・小揚」と書かれています。


波除稲荷神社の境内には数多くの塚があります。

さすがは築地です。

玉子塚、海老塚、鮟鱇塚(あんこう)、活魚塚、すし塚が並んでいました。


すし塚



玉子塚


海老塚



鮟鱇塚、活魚塚

波除稲荷神社から築地市場と反対方向に150m程進んだところが「築地6丁目」の交差点で左右に走っているのが晴海通りです。

この「築地6丁目」の交差点の傍に「軍艦操練所跡」の案内板が立っています。

ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政4年(1857年)4月、航海術、海上砲術、軍艦の運転講習を行う目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地に創設しました。


向井将監や勝海舟などが学長にあたる教授方頭取をつとめています。

元治5年(1864年)に焼失して南隣りに仮移転、慶応2年(1866年)7月に海軍所と改称、同年11月に再び類焼して、現在の浜離宮後に移りました。

跡地には日本最初の洋式ホテルである築地ホテルが建てられましたが、経営難のため僅か5年で閉鎖されました。現在は中央卸売市場立体駐車場になっています。


軍艦操練所跡の案内板



築地市場駐車場

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       風来坊


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