「芥川龍之介の生誕後に」の10mほど先に、「浅野内匠頭邸跡」の石碑が建っています。
常陸笠間藩主浅野長直は、正保2年(1645年)、播磨赤穂に領地替えとなり、五万三千五百石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して五万石となります。
ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。
忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩は、長友の子で、元禄14年(1701年)に勅使の接待役に推されましたが、3月14日、殿中・松の廊下で指南役であった吉良上野介に刃傷に及び、自身は切腹、お家は断絶の悲劇を招きました。
これが翌年、大石内蔵助良雄を盟主とした四十七士のあだ討ち事件となるわけです。
|