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築地散策 その3 (H23.2.1〜2.13)

築地居留地跡界隈&築地本願寺


築地居留地跡は聖路加タワー付近です



「月島の渡し跡」の案内板

「かちどき橋の資料館」の傍にある「勝どき西」の信号を渡って真っ直ぐ進み、3つ目の信号を右に曲がる角に「月島の渡し跡」の案内板があります。

「月島の渡し」は、月島一号地の埋立てが完成して間もない明治25年(1892年)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、現在の明石町から月島3丁目へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船をはじめたことに始まるといわれています。


明治34年(1901年)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が市営化を決め、翌35年から汽船曳船2隻で交互運転を開始し、渡賃も無料になりました。

月島は臨海工業地帯として発展し、明治44年(1911年)には乗客の増加に対応するため徹夜渡船が開始されました。

昭和15年(1940年)に勝鬨橋が架橋され、渡船の利用者は減少の一途をたどり、月島の渡しは廃止されることになりました。


電信創業の地の石碑



電信創業の地の石碑

「月島の渡し」の道路の反対側の公営住宅の手前に「電信創業の地」の石碑があります。

明治2年(1869年)に横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた傳信機役所を結ぶ、約32kmの電信線架設工事が開始され、同年12月25日には業務を開始しました。

これが日本で最初の公衆電話通信といわれています。

この記念碑は先駆者の業務を後世に伝えるために昭和15年に建立されたものです。



水たきの治作と運上所跡の石碑


「電信創業の地」の石碑の右前方に「水たきの治作」と書かれている看板があります。

この看板のある大きな料亭に沿って進むと、料亭「治作」の入口の左側に「運上所跡 東京税関発祥の地」の石碑があります。


運上所は、鎖国政策廃止の後に開港した港に設けられた機関で、外交事務や海運上の事務を取り扱いました。


大きな看板



運上所跡の石碑

安政6年(1859年)に長崎、横浜、函館の3個所に「運上所」が開設され、慶応3年(1868年)に江戸の運上所として、ここ築地鉄砲洲に設けられました。

「税関」という役所名が使われたのは、明治5年(1872年)からで、 関東地方では横浜に置かれま、江戸の運上所は「横浜税関東京税関支署」となりました。

戦後の昭和28年(1953年)に「横浜税関東京税関支署」が廃止され, 新たに「東京税関」に生まれ変わりました。これが、東京税関の始まりです。

料亭「治作」の前方に高いビルが聳え立っています。

聖路加ガーデンです。

聖路加ガーデンは聖路加レジデンスと聖路加タワーの2棟の高層ビルからなる複合施設です。

佃にある大川端リバーシティ21とともに隅田川に沿ってスカイラインを形成しています。

聖路加国際病院の聖路加ライフサイエンスセンター構想を基に1990年に着工、1994年に開業しました。

手前の聖路加レジデンスは高さ141.6mで、1階〜31階は高齢者向けの賃貸マンションです。

32階〜38階が「東京新阪急ホテル築地」です。



アメリカ公使館跡の案内板

聖路加レジデンスの手前を右に進むと隅田川河畔にある「明石町河岸公園」です。

聖路加レジデンスの手前を左に曲がり、聖路加レジデンスに沿って進むと右手に「アメリカ公使館跡」の案内板があります。

開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリスは、安政6年(1859年)に港区元麻布の善福寺にアメリカ公使館を開設しました。

その後、明治8年(1875年)12月に築地の外国人居留地内のこの地に公使館を新築し、はじめて形容を整えました。


のちにここが手狭となり、明治23年(1890年)3月、赤坂の現在のアメリカ大使館の場所に移転しました。


聖路加レジデンスと聖路加タワー



聖路加ガーデン親水公園

最後の移転により、この地に8個の小松石の石標が残されました。

石標には白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されていました。

白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13個の星は、アメリカ初期の13週を示しています。


8個のうち3個は昭和59年(1984年)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に設置されています。

残る5個の石標は、築地の居留地時代を伝えるものとして中央区民文化財に登録されており、そのうちの2個は聖路加ガーデン2階の前の親水公園に、3個は聖路加病院の前に保管されています。


小松石の石標



小松石の石標:星


小松石の石標:星条旗



聖路加タワー

聖路加レジデンスの隣にある聖路加タワーは高さ220.63mで47階建てです。

47階の展望室は無料で公開されていましたが、昨年(2010年)7月15日に閉鎖されました。

夜景の名所として知られていましたが、「利用者のマナーが悪いこと」が閉鎖の理由の一つだそうです。
マナーはしっかり守ってもらいたいものです。

聖路加タワー2階の前にある親水公園に出ると目の前に隅田川河畔の素晴らしい光景が広がっています。

階段を下りて隅田川のほとりに出ると目の前を水上バスが行き交い、都心とは思えない感じがします。

佃大橋や佃の大川端リバーシティ21の光景も見ることができます。



聖路加タワー前からの大川端リバーシティ21を望む


親水公園から聖路加タワーを通り抜けて「アメリカ公使館跡」に戻り、右方向に進んだ最初の交差点に「ヘンリー・フォールズ住居跡」の石碑があります。

聖路加タワー前の歩道と車道の間にあります。


ヘンリー・フォールズ住居跡



佃大橋

ヘンリー・フォールズはイギリス人で医師及び宣教師でした。

明治7年(1874年)に宣教師として来日しました。

築地居留地に住居を構え布教活動を始めました。

彼の日本での活動の目的には布教のほかに医療がありましたが、日本人が自由に出入りのできない外国人居留地ではそれができないため、築地川を隔てた南小田原町に民家借り、診療所を開きました。


これがミッション系病院のはしりともいえる築地病院です。

彼の名前を世界中に広めたのは指紋の研究です。

世界最高の検挙率を誇る警視庁でも、明治44年(1911年)から、このフォールズの指紋法を採用し、犯罪防止に活用しているとのことです。


佃島渡船跡の石碑



佃大橋上から佃島を望む

ヘンリー・フォールズ住居跡のある信号を右折し、聖路加タワーに沿って隅田川方向に進み、道なりに左折して200m程進んみ佃大橋を潜った先に「佃島渡船」の石碑です。

佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。

徳川家康の時代に、摂津国佃村の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。

この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保2年(1645年)に通ったのが佃の渡しです。


明治9年(1867年)7月には、渡し銭1人5厘の掲示板の下付けを願い出ています。

大正15年(1926年)東京市の運営に移り、翌昭和2年3月に無賃の曳船渡船となりました。

手漕ぎ渡船を廃止した記念として、この石碑はその時期に建てられたようです。

昭和30年には1日70往復にもなりましたが、昭和39年8月の佃大橋完成によって300年の歴史を持つ佃渡船は廃止になりました。


築地居留地跡の案内板



空中廊下 平和の橋

「佃島渡船の石碑」から聖路加タワーにまで戻り、「ヘンリー・フォールズ住居跡」のある信号を渡って、道路の反対側の歩道を左に100m程進んだ左手に「築地居留地跡」の案内板があります。

「聖路加国際病院」と「聖路加レジデンス」を結んでいる空中廊下「平和の橋」の下になります。


安政5年(1858年)日米修好通商条約により開国の条約を結んだ幕府は、江戸にも神戸、長崎などのように貿易のために来日する外国人のための居留地を設けることを義務づけられました。

そこで幕府は、隅田川の河口の武家地であった明石町を選び、明治元年に「築地居留地」が完成しました。


明治学院発祥の地



青山学院記念の地

居留地には学校や病院、教会、住居としての西洋館が建てられました。このようにして東京の町に、異国の文化が次々と広まっていったのです。

この築地居留地は明治32年(1899年)年に条約改正にともない、他の居留地と共に廃止されました。


「佃島渡船の石碑」から聖路加タワーにまで戻り、「ヘンリー・フォールズ住居跡」のある信号を渡らずに、右折して進むと「明治学院発祥の地」「青山学院記念の地(青山学院の礎となった海岸女学校のあった場所)」「女子聖学院発祥の地」の石碑がつぎつぎと建っています。


女子聖学院発祥の地



あかつき公園

「築地居留地跡」の案内板から信号を渡って「区立福祉センター」を右に見て50m程進むと右手が「あかつき公園」です。

この公園に入った左側に「シーボルト胸像碑」が建っています。

シーボルトは文政6年(1823年)7月、オランダ商館医員として長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍しました。


文政7年(1824年)3月4日から4月12日の間、日本橋本石町の長崎屋に滞在し、江戸の蘭学者に出会って多大な影響を与えました。

当時は、蘭学に触れようと思えば遠く長崎まで出向くしかなかったですが、それが困難な当時の人々にとって、4年に一度のオランダ商館長の江戸参府は、蘭学に触れることのできる極めて数少ない機会で、多くの蘭学に興味を示す医師・学者らが、ひっきりなしに訪れ交流したとのことです。


シーボルトの胸像碑



聖路加国際病院前の遊歩道

しかし文政11年(1828年)シーボルト事件が発生し、12月に日本から追放されました。

シーボルトと築地とは直接的には関係ありませんが、この地が江戸蘭学発祥の地であり、かつ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこと、また毎時初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、この地に胸像が建てられています。


明石公園から信号に戻り、左折して「区立福祉センター」(道路の反対側は聖路加国際病院・本館)に沿って進むと、最初の「聖路加病院前」信号の先が三叉路のなっており、交差点の中の三角州のような場所に「蘭学事始の地」「慶應義塾発祥の地」の石碑が建っています。

手前にあるのが「慶應義塾発祥の地」の石碑です。


日本近代文化事始の地



慶應義塾発祥の地

幕末、聖路加病院敷地一帯には中津藩奥平家の中屋敷がありました。

慶應義塾の起源は、中津藩藩士であった福沢諭吉が、安政5年(1858年)藩の中屋敷に開いた蘭学塾に由来しています。

その場所は、石碑の北東方向の聖路加国際病院の構内になります。

この石碑は昭和33年(1958年)、義塾創立百年記念事業の一つとして建てられたものです。


右奥にあるのが「蘭学の泉はここに」の石碑です。

藩医で蘭学者だった中津藩中屋敷の前野良沢の家に、杉田玄白、中川淳庵などが集まり、オランダ語の医書「ターヘル・アナトミア」を初めて翻訳しました。

苦心の末、安政3年(1774年)8月に「解体新書」五巻を完成しました。

当時の苦心の様子は、杉田玄白の「蘭学事始」に詳しく書かれています。赤い石板には解体新書の図譜が刻まれています。


蘭学事始の地



聖路加病院・旧館 左は聖路加看護大学



立教女学院築地居留地校舎跡記念碑

石碑の場所から信号を渡って真っ直ぐ50m程進むと左側の歩道に「立教女学院築地居留地校舎跡記念碑」があります。

立教女学院は1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会より派遣されたウィリアムズ主教によって湯島に創立されました。

1882年立教女学院は築地居留地に移転して新校舎を建設して関東大震災までこの地で教育事業を継続しました。現在は久我山にキャンパスがあります。


「立教女学院築地居留地校舎跡記念碑」から信号に戻り右折し、聖路加国際病院沿いの遊歩道に入るとすぐに、「立教学院発祥の地」の記念碑があります。

明治7年(1874年)にウィリアムズ主教が開いた私塾「立教学校」が、現在の立教小、中、高、大学の各学校の前身となっています。


立教学院発祥の地



聖路加国際病院トイスラー記念館



聖路加国際病院・旧館

聖路加国際病院は、築地居留地跡に明治35年(1902年)アメリカ聖公会のトライスラー創立した病院です。

聖路加国際病院は、地上11階・地下2階の本館と、地上7階・地下1階の旧館から構成されています。

「立教学院発祥の地」から聖路加病院旧館の構内に入った右手にあるのが「聖路加国際病院トイスラー記念館」です。


トイスラー記念館は、昭和8年(1933年)に隅田川河畔に聖路加病院の宣教師館として建設されました。

鉄筋コンクリート2階建て一部木造の西洋風住宅で、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でした。


聖路加国際病院トイスラー記念館



トイスラーの碑

平成元年に解体工事が行われ、平成10年2月に現在地に移築復元されました。

創建当時の施工技術や構造上の特徴を綿密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いた建造物になっているとのことです。

この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。


トイスラー記念館の前に、アメリカ公使館が移転する際に残された8個の小松石のうちの3個が置かれています。

白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されて石が揃って並べられています。

聖路加国際病院旧館の左側にあるのが聖路加看護大学です。


旧アメリカ公使館の小松石の石標



芥川龍之介生誕の地の案内板

聖路加国際病院の敷地を過ぎた信号のある交差点を右折すると、すぐの場所に「芥川龍之介生誕の地」の案内板が建てられています。

明治16年(1883年)頃、この付近に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。

芥川龍之介は牧場の経営者・新原敏三の長男として明治25年3月1日に生まれました。

龍之介は誕生後7ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、現在の両国3丁目に移り、12歳の時に芥川家の養子になりました。


「芥川龍之介の生誕後に」の10mほど先に、「浅野内匠頭邸跡」の石碑が建っています。

常陸笠間藩主浅野長直は、正保2年(1645年)、播磨赤穂に領地替えとなり、五万三千五百石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して五万石となります。

ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。

忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩は、長友の子で、元禄14年(1701年)に勅使の接待役に推されましたが、3月14日、殿中・松の廊下で指南役であった吉良上野介に刃傷に及び、自身は切腹、お家は断絶の悲劇を招きました。

これが翌年、大石内蔵助良雄を盟主とした四十七士のあだ討ち事件となるわけです。


浅野内匠頭邸跡



暁橋の欄干 橋の左右は築地川公園

「浅野内匠頭邸跡」の石碑のすぐ隣は築地川ですが、この付近も埋め立てられています。

この付近は駐車場ではなくて「築地川公園」となっていました。

暁橋の欄干の大部分が残されています。



築地本願寺


築地川を渡って左折し、公園に沿って200m程進んだ右手前方が「築地本願寺」です。

築地本願寺の正式名称は「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」です。

元和3年(1617年)、西本願寺の別院として、第12代宗主・准如上人によって建立されました。

当時、浅草近くの横山町にあったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていましたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼失しました。


築地本願寺



築地本願寺

大火後の幕府の区画整理のため、旧地への再建が許されず、埋立地の築地へと移ってきて、延宝7年(1697年)に再建し「築地御坊」と呼ばれるようになりました。

この時の本堂は、正面が西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていました。



築地本願寺


築地本願寺


現在の建物は関東大震災を経て、昭和9年に再建されたものです。

設計は日本最初の建築史家、京都の西本願寺も設計した伊東忠太です。

伊東忠太は建築に奇妙な動物を施す事で有名ですが、築地本願寺では本堂入口の翼を持った獅子を始め、建物の中にも不思議な動物達がデザインされています。

この建物は、インド様式の石造りとなっていますが、本堂内には伝統的な真宗寺院の造りになっています。


翼を持った獅子



本堂の動物たち


本堂の動物たち



門跡橋の親柱

築地本願寺の西南門を出て左折し、晴海通りに沿って100m程進んだ左側にあるのが「門跡橋」です。

現在は橋の親柱のみが残っていますが、そこには「門跡橋」「昭和3年復興局建」と記されています。


門跡橋の隣には築地川から分かれた小田原河岸がありましたが、昭和39年に埋め立てられ駐車場となっています。

晴海通りの反対側が築地場外市場で、その中に小田原橋の親柱が残されています。

「門跡橋」から本願寺方向に戻ると200m程で「築地4丁目」の交差点で、左折すると都営地下鉄大江戸線築地市場駅、右折すると東京メトロ日比谷線築地駅です。


門跡橋の親柱



門跡橋傍の駐車場 前方が築地川公園

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 聖路加ガーデン

 築地本願寺



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       風来坊


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