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築地散策 その2 (H23.2.1〜2.13)

勝鬨橋界隈


勝鬨橋



勝鬨橋

「軍艦操練所跡」から晴海通りに沿って300m程進んだところが勝鬨橋です。

勝鬨橋は隅田川の一番下流に架かる橋です。

明治期より架橋の計画は何度架かりましたが実現せず、明治38年(1905年)には日露戦争の旅順陥落祝勝記念として有志により「勝鬨の渡し」が設置されました。


埋立ての完了した月島には石川島造船所の工場などが多く完成して交通需要は多かったことで、昭和4年(1929年)の「東京港修築計画」に伴い、4度目の計画によりようやく架橋が実現することとなりました。


勝鬨橋



勝鬨橋



勝鬨橋

建設当時は隅田川を航行する船舶が多かったため、陸運よりも水運を優先させるべく、3千トン級の船舶が航行することを視野に入れた可動橋として設計され、跳開により大型船舶の通航を可能としました。

高架橋とする案もありましたが、建設費が安い可動橋案が選定されました。


勝鬨橋の工事は昭和7年(1933年)に着工し、昭和15年(1940年)に完成しました。

「皇紀2600年」を記念して、1940年に月島で開催予定であった日本万国博覧会へのアクセス路とする計画でもありました。

日中戦争の激化により博覧会は中止となりましたが勝鬨橋は完成し、「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評価を得ました。


勝鬨橋



勝鬨橋



勝鬨橋

当初から路面電車用のレールが敷設されており、1947年から1968年まで橋上を都電が通行していました。

設置当初は1日に5回、1回につき約20分程度跳開していました。



勝鬨橋の中央部・開閉する部分


この頻度はほぼ1953年頃まで続きましたが、船舶運航量の減少と高度経済成長の進展で道路交通量が増大したことで次第に跳開回数は減少し、上流に開閉機構を待たない佃大橋が建設された1964年以降は、船舶運航の需要は佃大橋下流の乾倉庫に限定され、開閉回数は年間100回を下回るようになりました。


小屋には信号機が



勝鬨橋の中央部・開閉する部分

1967年には運航のための最後の跳開が行われ、その後は年に1回ほどの試験のための跳開が行われていましたが、航行する大型船舶が少なくなったことや陸上交通量の著しい増加などの理由から、1970年11月29日を最後に開閉停止となり、1980年には電力供給も停止されました。


勝鬨橋は橋の両端部はアーチ橋となっており、中央部が上方に開く構造となっています。

開く角度は最大70度で、約70秒で全開になります。

片側だけを開く操作も可能です。


小屋の中の電燈



勝鬨橋から下流の展望 右が築地市場



勝鬨橋の開閉部

モーターは出力が125馬力で2台あり、通常は1台で、強風や降雪など天候や環境の悪化した時は2台で行いました。

開閉機構の機械は中央部の橋梁内部に収められており、交流電動機と直流発電機は専用の変電設備に設置されていました。

開閉機構を駆動する電動機は速度制御が容易な直流方式を採用しましたが、当時は大電力の整流手段が未発達であったため、電力網から供給される3300ボルトの交流で電動機を回転させて直流電動機を駆動し、任意の電圧の直流を得るワード・レオナード方式が用いられました。


勝鬨橋の開閉部



勝鬨橋の開閉部 川の水が見えます


この変電所が現在のかちどき橋の資料館であり、交流電動機や直流発電機もそのまま残されています。

勝鬨橋の開閉部はヒンジ構造となっているため比較的揺れや振動が生じやすく、その機構のため勝鬨橋はこの規模の交通量の橋としては強度が弱く、特殊車両の通行許可は40トンまでに限定されています。

開閉部に立つとトラックなどが通行するたびに相当振動します。

開閉部の合わせ目は、運用当時から電動式のロックピン機構が備わっており、現在もこのロックピンによって固定されているため、合わせ目に立っても振動によるズレは感じられません。


橋梁の歩道の上部には、4つの小屋が設けられており、それぞれ運転室、見張室、宿直室などとなっており、橋の操作は運転室で行います。

橋の可動部は、軸上に載せられた橋本体(片側だけで重量900トン)と軸を挟んで乗せられているカウンターウェイト(重量1100トン)で構成されています。


勝鬨橋の開閉部



勝鬨橋から上流の展望 聖路加タワーと大川端リバーシティ



勝鬨橋欄干にある図

橋を開閉する時に必要な力を少しでも抑えるために、開閉する場合の支柱となるトラニオン軸を中心に、開く部分とその反対側の部分を釣り合わせる必要がありました。

そこで、橋脚内に収められている橋脚部に、重りの役目としてカウンターウェイトを設置しました。

このカウンターウェイトには、コンクリート・鉄塊・鉛塊などが用いられています。



勝鬨橋欄干にある図


勝鬨橋欄干にある図


これを橋梁内部にある直流モーターとギアで動かすようになっています。

橋が動く際は、警報サイレンの後、跳開部分と両岸アーチ部の中間にある灯火信号器が赤になり、橋上の往来を停止させていました。


勝鬨橋欄干にある図



かちどき橋の資料館の変電設備



かちどき橋の資料館

勝鬨橋の築地側に「かちどき橋の資料館」があり、その前に「勝鬨の渡し碑」「海軍経理学校の碑」「勝鬨橋之碑」があります。

「かちどき橋の資料館」は、勝鬨橋の変電所を改修して2005年4月に開館し、勝鬨橋をはじめ隅田川の橋について、貴重な資料や関連情報等を展示、公開しています。

交流電動機や直流発電機もそのまま残されています。


開館日は火・木・土・金で入場料は無料です。

また、橋を開くための巨大な機械についても、予約制の橋脚内見学ツアーにより公開されています。


「かちどき橋の資料館」の前に「かちときのわたしの碑」があります。


勝鬨橋の模型



かちときのわたしの碑

明治25年(1892年)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。

明治38年(1905年)、日露戦争の旅順要塞陥落を祝勝して、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。ここにある石碑は、この時に建てられた記念碑です。

設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社の傍の海幸橋のたもとにありました。

対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通9丁目(現在の勝どき1・3丁目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。

勝鬨の渡しは、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。


勝鬨の渡しは、勝鬨橋の架橋まで運航され、昭和15年(1940年)6月の勝鬨橋の開通とともに廃止されました。

町名の「勝どき」は渡しの名前に由来しており、渡しの名前が地名になった珍しい事例です。

「かちときのわたしの碑」の晴海通り寄りに「勝鬨橋之碑」があります。

これは勝ち鬨橋の完成を記念して昭和15年(1940年)12月に建てられたものです。


勝鬨橋之碑



海軍経理学校の碑

「勝鬨橋之碑」の後方、「かちどき橋の資料館」の前に「海軍経理学校の碑」があります。

海軍経理学校は明治7年(1874年)芝に海軍会計学舎が設けられたのが始まりで、明治11年(1878年)浴恩園跡地に移り、明治40年(1907年)に経理学校となりました。

旧海軍主計科要員の学校で、卒業生は1万人を超えるといわれています。



勝鬨橋からの東京スカイツリー



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 かちどき橋の資料館


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       風来坊


勝鬨橋からの築地市場


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