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日光山内散策 その1 (H23.11.7)

日光東照宮


神橋



日光橋から下流の展望

日光山内は、日光東照宮、二荒山神社、日光山輪王寺(大猷院を含む)の二社一寺がある一帯の総称です。

二社一寺の計103棟の建造物と周辺の自然環境が、平成11年に「日光の社寺」として世界遺産に登録されています。



日光金谷ホテル入口の紅葉


日光東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社です。

一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっています。

二社一寺がこのように明確に分離するのは、明治始めの神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていました。


日光山内の紅葉



日光山内の紅葉

現在、輪王寺に属する建物が1個所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在しているのは、このような事情によるものです。

「経蔵」「薬師堂(本地堂)」など、一部の建物については21世紀の現在も東照宮と輪王寺のいずれに帰属する建物であるか決着を見ていません。



東照宮への参道


日光東照宮

日光東照宮は、徳川家康を神格化した東照大権現をお祀りした神社です。

日本全国の東照宮の総本山的存在です。

正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」ですが、他の東照宮と区別するために「日光東照宮」と呼ばれることが多いようです。


東照宮への参道



石鳥居

戦国乱世を平定し、幕藩体制を確立して、江戸時代260年間にわたる平和と文化の礎を築いた徳川家康は、元和2年(1616年)4月17日に駿府城で75歳の生涯を終え、久能山に神葬されました。

家康の遺言により、1年後の元和3年(1617年)4月15日に、2代将軍秀忠が建立した、現在の地の「東照社」に鎮座しました。

「東照社」は、正保2年(1645年)に宮号を賜り、「東照宮」と呼ばれるようになりました。


現在の社殿郡は、その殆どが鎮座された20年後の、寛永13年(1636年)に3代将軍家光による「寛永の大造替」で立て替えられたものです。現在の金額で約400億円が投入され、陽明門など55棟が約1年5ヶ月という驚くべき短期間で完成しました。

本殿、石の間、拝殿、陽明門など8棟が国宝に、34棟が重要文化財に指定されています。

境内の特徴は、自然の地形を生かした参道や階段を用い、バランス良く配置された社殿群が荘厳な宗教的空間をつくりだしていることにあります。

さらに建物には、漆や極彩色がほどこされ、柱などには数多くの彫刻が飾られていますが、これらは単なるデザインではなく、信仰形態や学問、思想があらわされています。


五重塔



表門

石鳥居

石鳥居は、元和4年(1618年)に造営されたもので、後世の形式変更はありません。

高さ9.2m、幅13.2mで、15個の石材で造られています。

上部に掲げられた扁額は畳一畳分の大きさがあり、江戸時代の石造りの鳥居の仲では最大級です。

東照宮の表玄関です。


五重塔

五重塔は、慶安3年(1650年)に小浜藩主酒井忠勝が寄進したものが、文化12年(1815年)に焼失し、文政元年(1818年)に再建されたものです。

吹き抜けの内部には建物が揺れても倒壊しないように、直径60cmの心柱が吊り下げられています。

初層軒下には十二支の彫刻があり、東西南北を示しています。


下紳庫



中紳庫

表門

左右に睨みをきかせた仁王像が置かれているため、仁王門とも呼ばれています。

門に施された猿、麒麟、象、虎など82の木彫りの彫刻は見応えがあります。



上神庫


三神庫

上神庫、中神庫、下神庫を総称して三神庫といい、この中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められています。

上神庫の屋根の下には、狩野探幽下絵の「想像の象」の大きな彫刻が施されています。


上神庫の「想像の象」



想像の象


想像の象



神厩



見ざる、言わざる、聞かざる

神厩

神厩は、ご神馬をつなぐ厩で、寛永13年(1636年)に造営されたもので、間仕切り、欄間の変更がありましたが、他には全く後世の形式変更はありません。

神厩は、東照宮建築のなかで唯一の素木づくりで、当時の武家の殿舎に用いられた書院造の馬屋の形式にのっとっています。

現存する大型の神厩建築の唯一の遺構となっています。


神厩舎には猿の彫刻を施した8枚の浮彫画面があり、猿が馬を守護する動物であるという伝承から用いられています。この8枚で猿の一生が描かれており、ひいては人間の平和な一生の過ごし方を説いたものとなっています。

日光の木彫像の中で眠り猫に続いてよく知られている、「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名な三猿は、この神厩舎に造られた猿の彫刻の1枚です。

なお、「見ざる、言わざる、聞かざる」は「幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かない方がいい」という教えとのことです。


神厩舎



日光東照宮



日光東照宮



御水舎

御水舎

御水舎は、神様に参拝する前に、手を洗い、口をすすぎ、心を清めるための建物です。

御水舎は、寛永13年(1636年)に造営されたものです。

柱に石材を使用するとともに、水盤の水を滝尾神社付近から水道管を敷設し、逆サイフォン方式で引くなど、当時の新しい建築技術が取り入れられています。

水盤は元和4年(1618年)佐賀藩主鍋島勝茂によって奉納されたものです。


輪蔵(経蔵)

輪蔵は寛永12年(1635年)に造営され、桁行3間、梁間3間、宝形造り、銅瓦葺き、裳階付きです。

朱色と金が基調で組物と彫刻が極彩色で彩られ、内部には八角形の回転式の書架があり、一切経1456部、6325巻が納められていました。


輪蔵



鐘楼

鐘楼、鼓楼

鐘楼・鼓楼は寛永12年(1635年)に造営され、桁行3間、梁間3間、入母屋、銅瓦葺き、袴腰付きで陽明門に向って右側が鐘楼、左側が鼓楼です。


一見同じ様に見えますが鐘楼の方が78体の彫刻に対し、鼓楼には38体しかなく鐘楼の方が格式が高いといえます。

全体的に黒と金を基調にして高欄を朱色、組物、彫刻を極彩色で彩った華麗な造りで配置的には古い寺院形式にならって建てられたとされ神仏混合時代の名残が見られます。


鼓楼



本地堂

本地堂(薬師堂)の鳴龍

本地堂は寛永12年(1635年)に造営されたもので、東照宮最大の建物で、本尊が薬師瑠璃光如来像であることから薬師堂とも言われています。

天井には狩野派が描いた8mの龍の絵があり、その下で拍子木を打つと、まるで龍が鳴いているように聞こえます。

昭和36年に火災により焼失し、その後再建されています。



東西廻廊


東西回廊

東西廻廊は、陽明門の左右に伸びる建物で、寛永13年(1636年)に造営されたもので、正保4年(1647年)に、地震の被害により、廻廊の北側部分が取り除かれましたが、そのほかは形式の変更はありません。


東西廻廊



廻燈籠

陽明門の左右2間ずつの袖塀から東西に延び、本殿などを南、東、西側から囲み、その延長は220mです。南側の外壁には、計25枚のわが国最大級の花鳥の彫刻で飾られています。

いずれも一枚板の透かし彫りには極彩色が施されています。

内側は円柱を建てた吹き抜けとなっています。



陽明門



陽明門



陽明門の彫刻


陽明門

日光で最も有名な建築である陽明門は、寛永13年(1636年)に造営されたもので、屋根の葺き替え、塗装の塗替がありましたが、彫刻や主要化粧部材は創建のままです。

東照宮建築群の中でも最も彫刻などの建築装飾に優れた建物です。

彫刻においては、建築構造部材であるべきものの一部を彫刻化したり、構造部材の表面に大規模な彫刻を取り付けたり、羽目板の表面に多数の彫刻を取り付けたりしています。


陽明門の彫刻 龍馬



陽明門の彫刻 琴棋書画の遊

また、漆塗、彩色、飾金具による建築装飾技法が、その表現の特性、耐久性に応じて使い分けられています。

いつまで見ていても飽きないことから「日暮れの門」とも呼ばれ、故事逸話や子供の遊び、」聖人賢人など500以上の彫刻が施されています。



陽明門と神輿社



陽明門


神輿舎

春秋渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる、3基の神輿が納められています。

中央に徳川家康、右に豊臣秀吉、左に源頼朝の神輿が納められています。

天井に描かれた美しい天女の絵も必見とのことですが、神輿舎は工事中でした。


神輿社



徳川家康の神輿

唐門

国賓に相当する参拝者しか使用することができない本社の入口です。

寛永13年(1636年)に造営されました。

屋根の四方の軒を唐破風形とし、地紋彫、象嵌や屋根の銅製彫刻など、構造、技巧に優れた技術が見られます。

間口3m、奥行き2mと小さいですが、彫刻の数は陽明門よりも多いとのことですが、工事中でした。



源頼朝の神輿


豊臣秀吉の神輿



唐門(平成20年撮影)


本社

神霊を祀る本殿、拝殿、その2つを結ぶ石の間からなり、東照宮の最も重要なところです。

例祭をはじめ、年中の祭典が行われます。

本殿、石の間及び拝殿は、寛永13年(1636年)に造営されました。

本殿に拝殿を石の間で連結した工字形の神社建築様式「権現造」の完成形で、その後の霊廟建築や神社建築の規範となりました。


神楽殿



祈祷殿

また、これらは、当時の第一級の技術者により造営され、当初から、彫刻、漆塗、彩色、飾金具などの建築装飾に優れた技法が用いられています。

改修工事中でした。



眠り猫の前は大混雑


眠り猫

眠り猫は陽明門から左右に伸びる回廊の東側、奥宮へと続く坂下門手前にあります。

眠り猫は左甚五郎の作と伝えられています。

牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたた寝をしているところから「日光」に因んで彫られたとも言われています。

眠り猫の裏では雀が舞っています。


奥宮への入口



眠り猫(国宝)



眠り猫の裏の雀の彫刻

眠り猫は踏ん張っていることから、実は家康を護るために寝ていると見せかけ、いつでも飛びかかれる姿勢をしているとも言われていますが、もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても「猫が眠るほど平和」を表しているとも言われています。



207段の石段


奥宮

奥宮は拝殿、鋳抜門(いぬきもん)、宝塔からなる徳川家康の墓所です。

207段の石段の上にあり、静けさに満ちています。


やっと到着



奥宮拝殿

奥社宝塔は、元和8年(1622年)に木造で創建されたが、寛永18年(1641年)に石造に改められ、さらに地震により倒壊した後、天和3年(1683年)に現在の鋳銅製に改められたものである。

この塔の下に徳川家康の遺骸が葬られているため、雨水の流入を防ぐために石敷に勾配を付し、さらに宝塔の基壇石、周囲の石棚の継手には鉄の太柄や楔を入れて、鉛を鋳込んで密着させるなど、当時の最高の技術によって造営されています。



奥社宝塔



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 日光東照宮


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        風来坊


鋳抜門


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