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江戸東京たてもの園その3 (H22.8.8)

センターゾーン


旧光華殿(ビジターセンター)


センターゾーン

センターゾーンには、江戸東京たてもの園の出入口になる「ビジターセンター(旧光華殿)」や旧武蔵野郷土資料館資料の展示室があるほか、「高橋是清邸」などの歴史を伝える建物が復元・展示されています。



旧光華殿(ビジターセンター)

旧光華殿(ビジターセンター)

旧光華殿は昭和15年(1940年)11月10日から14日まで宮城(現皇居)前で行われた紀元二千六百年記念式典の会場として造立された光華殿が前身となっています。

記念式典終了後の昭和16年8月に現在の場所に移設され、国民練成所、武蔵野郷土館の入口及び展示室、そして江戸東京たてもの園の開園に伴いビジターセンターとして改修されて現在に至っています。



旧自証院霊屋



旧自証院霊屋

旧自証院霊屋は徳川幕府3代将軍徳川家光の側室であったお振の方の霊廟で、慶安5年(1652年)に市谷富久町の自証院の中に建てられました。

随所に極彩色の木彫りや飾り金具の装飾が施され、江戸時代初期の建築技術の粋を伝えるとともに、徳川家の権勢の一端を窺わせる建造物です。


旧自証院霊屋



旧自証院霊屋


霊廟建築とは、有力者の霊を祀るため建てられた建築物のことをいいます。


霊廟のほか、神廟、霊碑所、霊屋などともいいます。

豊臣秀吉の正室・北政所を祀った高台寺の霊屋、徳川家康の日照東照宮などが代表的な例です。

寛永寺や増上寺には徳川将軍家の霊廟建築が多く存在したが、戦災などで焼失し、旧自証院霊屋は、数少ない貴重な建造物となっています。



高橋是清邸



高橋是清邸

高橋是清邸は、明治から昭和のはじめにかけて日本の政治を担った高橋是清邸の主屋部分を移築したものです。

高橋是清は本所押上から赤坂へと移り住み、明治35年(1902年)にこの家が完成してからは、昭和11年(1936年)の2.26事件で暗殺されるまでの約30年余りをこの家で過ごしました。


高橋是清邸玄関



高橋是清邸主屋


主屋は仏間とその前室を除くすべての部屋に床の間を配しています。

これらの床の間は、それぞれの部屋の性格に応じて形式も少しずつ異なっており、この建物の見所の一つとのことです。



1階南側の十畳2室は、美しい庭園を風景として取り込む、明るく広々とした空間です。


これらの2室の天井は、天井の棹縁が少なく、天井板の幅も他の部屋と比べて広いことからなどから、この住宅の中でも主要な部屋であったと考えられています。


高橋是清邸主屋



高橋是清邸2階



明治時代のガラス窓


2階は総じて柱が少なく、建築の構造が合理化し、自由な空間が実現される近代和風の一つの特質を示しているといえるものだそうです。


この2階は、是清の書斎や寝室として使われ、2.26事件の現場となりました。



建物全体に化粧材として良質の栂材(つがざい)が用いられているのも特徴の一つです。

また、随所に見られるガラスは、表面にゆがみが見られます。

建築史上でも初期の時代のガラスといえるものです。


高橋是清邸2階から



高橋是清書


高橋是清邸2階


庭園は、港区赤坂にあった高橋是清邸庭園の一部を復元しています。

組井筒を水源にした流れと、雪見型灯籠などを含む景観を再現しています。

是清は芝生での日光浴や庭の散策を好んだといわれています。



西川家別邸


西川家別邸

西川家別邸は、大正11年(1922年)に多摩地域でも有数の製糸会社を設立した西川伊左衛門によって現在の昭島市中神町に建てられました。

この建物は、当時「お別荘」と言われており、本邸として使われていたものとは別に、接客用兼隠居所として建てられたものです。


西川家別邸



西川家別邸

多摩地域は、江戸時代から養蚕・製糸業が盛んでした。

安政6年(1859年)の横浜開港をきっかけに、生糸は最大の輸出品となり、養蚕・製糸業はますます盛んになりました。

西川伊左衛門が明治26年(1893年)に設立した西川製糸は、時流に乗って、多摩地方屈指の製糸工場となり、その製品は、大正15年(1926年)にアメリカのフィラデルフィアで開催された博覧会で高品質を認められて表彰されたとのことです。


西川家別邸の西側の2部屋は、接客用として用いられ、取引先の業者や地域の有力者などが集まりました。

取引先の業者の中には外国人もいましたが、彼らをもてなすに際して、テーブルや椅子は出さなかったとのことです。


その他の各部屋は、隠居所として日常使う部屋となっており、西川家別邸は、接客用の部屋と日常使う部屋をワケタ、当時の住宅建築の主流をなした造りとなっています。


西川家別邸廻り廊下


西川家別邸廻り廊下



西側の接客用空間と東側の居住空間とは、客間をぐるりと廻るように配された廻り廊下によって結ばれています。

勝手口にあたる土間から茶の間を通り、廻り廊下を通って西も客間へ至るという合理的な動線が取り入れられています。



会水庵


会水庵

会水庵は、宗?流の茶人、山岸宗住(会水)が新潟県長岡市に建てた茶室です。

昭和2年(1927年)山岸家の東京移住に伴い吉祥寺に移築され、さらに昭和32年(1957年)劇作家の宇野信夫氏が買い取り西荻窪に移築されました。


会水庵



会水庵


本畳3枚と台目畳1枚からなる三畳台目の小間の茶室です。

桟瓦葺の屋根と銅板葺の庇が大正から昭和にかけての茶室の特徴を表しています。



伊達家の門


伊達家の門

伊達家の門は、旧宇和島藩主伊達家が東京に居住するために、大正時代に現在の港区白金2丁目に建てた屋敷の表門です。

大名屋敷の表門を模して造られたものですが、総体的に復古調で、あたかも江戸時代の門であるかのような風格を持っています。


伊達家の門



番所


総欅造りで、門柱の上に架けられた冠木には、宇和島藩伊達家の木彫りの家紋が施されています。


江戸時代の大名屋敷に設けられた門番人の詰め所を番所と言い、そのうち、片側に番所を設けたものを片番所、左右に設けたものを両番所と言います。

両番所の方が格式が高いです。


屋外展示物


江戸東京たてもの園には28個の屋外展示物があります。

その中で主なものを紹介します。


皇居正門石橋飾電燈

皇居前広場から皇居に向かって左手に見える石橋に設置されていた飾電燈です。

橋の欄干両側にある男柱石に計6基設置されていたものの一つです。

その飾電燈は明治19年(1886年)、東京電燈会社に発注されたものであるが、完成日などは不明です。


皇居正門石橋飾電燈



午砲

午砲

明治4年(1871年)9月9日から、皇居内日本丸で、この大砲により正午を知らせる空砲が発射されました(午砲)。

大砲による正午の通報は、現在の東京都区部の大部分に聞こえたといわれています。


昭和4年(1929年)5月1日にサイレンに変わりました。


八王子の穀蔵

八王子にあったこの穀蔵は、1800年代に建てられたものと伝えられています。

米のほか、麦、粟、稗、豆、雑穀などを貯蔵し、俵にして30俵分の収納ができました。

穀物の出し入れは前面の落とし板を取り外して行います。

閉める時は下の板から順に落とし、最上段の横木に錠をかけるようになっています。


八王子の穀蔵



方砂遺跡敷石住居址

方砂遺跡敷石住居址

敷石住居は、縄文時代中期後半から後期頃にかけて、円形、隅丸方形、柄鏡形に比較的平らな川原石を敷き詰めて造られた住居で、関東地方西部から中部、東海地方東部地域にかけて分布しています。

方砂遺跡敷石住居の中央部分には、石囲いの炉が設けられています。



都電7500形

その都電は、それ以前に製造された7000形からは技術的な部分を取り入れたことから、その中間をとってこの名称がつきました。

昭和37年(1962年)に20両が製造され、すべてが青山営業所に配属されたため、特定の路線でした見ることができませんでした。


都電7500形



上野消防署(旧下谷消防署)望楼上部


上野消防署(旧下谷消防署)望楼上部


上野消防署(旧下谷消防署)で昭和45年(1970年)まで使用され、昭和52年(1977年)に解体された望楼です。

三脚四層式外廊型で、当時の高さは約23.6mです。

展示しているのは、上部およそ7mほどの部分です。



関連するホームページ

 江戸東京たてもの園



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        風来坊


銀座煉瓦街の煉瓦


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