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江戸東京たてもの園 その1 (H22.8.8)


江戸東京たてもの園正面出入口:旧光華殿


江戸東京たてもの園は、平成5年(1993年)江戸東京博物館の分館として建設されました。

東京の歴史を振り返ると、江戸の昔から火事、水害、震災、戦災などにより、多くの貴重な歴史的建造物が失われてきています。現在もまた、社会、経済の変動に伴って、こうした文化的遺産は失われつつあります。

江戸東京たてもの園は、こうした情勢の中、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元、保存、展示するとともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目的としております。

建造物の移築、復元は長期的な計画に基づいて行われており、最終的な復元目標は30棟とのことです。



江戸東京たてもの園案内図


江戸東京たてもの園は敷地面積が約7ヘクタールあります。

この広いエリアが、西ゾーン、センターゾーン、東ゾーンの3つのエリアに大きく区分されています。

現在西ゾーンに9棟、センターゾーンに6棟、東ゾーンに12棟の合計27棟が移築、復元されており、さらに東ゾーンで2棟が移築、復元作業中です。


西ゾーン


西ゾーン山の手通り



西ゾーン山の手通り


正面出入口になっているのが旧光華殿です。

旧光華殿を通り抜けるとエントランス広場があり、そこから左手が西ゾーンです。

西ゾーンでは山の手通りに面してさまざまな建築様式の住宅を復元、展示しています。

山の手通りを抜けてさらに西に行くと、昔懐かしい茅葺きの民家が並んでいます。



田園調布の家(大川邸)



田園調布の家(大川邸)


右側一番手前にあるのが田園調布の家(大川邸)です。

大正14年(1925年)に大田区田園調布に建てられた住宅です。

居間を中心に食堂、寝室、書斎等が配置されています。


田園調布の家(大川邸)



田園調布の家(大川邸)


生活の様式は、大正時代の生活改善運動の理想とされた「椅子座」で考えられており、当時としては珍しく全室洋間となっています。

寝室については、1年後に畳みに張り替えられたとのことです。



田園調布の家(大川邸)


田園調布の家(大川邸)



建物内部は、大正末から昭和初期の生活の様子を再現しているとのことで、書斎机、居間のテーブル、食堂のテーブルとサイドボード、寝室の整理タンスは当時から大川家で使われていた物だそうです。


鉄道省の土木技師であった大川栄氏が建造したもので、創建当時は夫婦と子供2人、お手伝いさんの合計5人が住んでいました。


田園調布の家(大川邸)



前川國男邸



前川國男邸



前川國男邸


前川國男邸

日本の近代建築の発展に貢献した建築家前川國男氏の自邸として、昭和17年(1942年)に品川区上大崎に建てられた住宅です。

戦時体制下、建築資材の使用が制限され、また、延床面積100平方メートル以上の住宅が法律で禁止されるといった、非常に困難な状況下で建てられたものです。



吹き抜けの居間を中心に食堂、寝室、書斎が配置されるというシンプルな構成です。

一方外観は、堅板張りの木材、明かり障子、ガラス格子窓といった対照的な要素の組み合わせになっています。

前川國男氏は、東京文化会館、東京都美術館をはじめ、多くの建築物を設計し、日本の近代建築の発展に大きく貢献しています。


前川國男邸



小出邸



小出邸



小出邸


小出邸


子供の独立等で家族の減った小出氏が、夫婦で静かに住むために大正14年(1925年)に文京区西片2丁目に建てられた住宅です。

日本におけるモダニズム運動を主導した建築家堀口捨己氏が、ヨーロッパから帰国してまもなく設計した住宅、彼の実質的な処女作です。


小出邸


小出邸


建物の外観では、ピラミッドのような大屋根が特徴です。このような、屋根の四面が一つの頂点に集まるものを宝形造りといい、仏堂や仏塔などに用いられます。

この大屋根と軒のシャープな水平線が外観の特徴で、当時オランダで流行していた住宅のデザインと日本の伝統的な造形を折衷した造りになっています。

平成8年(1996年)まで、家族が住んでいたとのことです。


小出邸



常盤台写真場



常盤台写真場

常盤台写真場

昭和12年(1937年)に、現在の板橋区常盤台に建てられた写真館です。

照明設備の発達していない当時、最も安定した照明を得るために、2階写場(スタジオ)の大きな窓には北側から光を採ることができるように摺りガラスがはめ込まれています。

建物は木造2階建てで、外観は全体的に左右非対称の構成で、交差点に面した角の部分を塔状に高くしています。



写場(スタジオ)



このような、軒の水平線と角部の垂直線の対比を強調するデザインは、戦前期の都市建築に流行したものだそうです。

総体的に開口部が多く、特に北側立面は大部分が摺りガラスで占められています。

2階への階段を上がると、高い天井と広々とした空間、豊富な自然光などが印象的なスタジオがあります。


写場(スタジオ)



三井八郎右衛門邸



三井八郎右衛門邸


三井八郎右衛門邸

日本の近代史に三井財閥として名を残した三井同族十一家の総領家、三井八郎右衛門高公氏の第2次世界大戦後の邸宅です。

本邸であった邸宅が戦災により焼失したため、昭和27年(1952年)に港区西麻布3丁目に新しく本邸を建築しました。

その邸宅が「三井八郎右衛門邸」です。



主屋は、京都油小路、大磯、世田谷区用賀、今井町(現港区)にあった三井家に関連する各施設から建築部材、石材、植物などが集められて建てられています。


そのため、邸内からは財閥が繁栄していた頃の男爵三井家の威勢をうかがうことができます。

客間と食堂部分は、明治30年(1897年)頃京都油小路に建てられたものを、西麻布に移築したとのことです。


三井八郎右衛門邸



三井八郎右衛門邸客間



三井八郎右衛門邸客間



三井八郎右衛門邸


主屋の西側には土蔵が移築されています。

この土蔵は「越後屋」の「絹蔵」であったと伝えられ、三井家ではとりわけ大事にされていたとのことです。

創建当初は木造3階建てであったが、西麻布邸の当時は地上2階、地下1階に改修されたとのことです。

江戸東京たてもの園では、外観は創建当初に戻し、内部は西麻布邸のままとしています。


和洋折衷の極

三井八郎右衛門邸の平面は中廊下式と呼ばれる形式です。

1階は、南側に客間、食堂などの主要な空間を配し、中廊下を境として北側に事務室、厨房、配膳室などサービス空間を置いています。

2階は、南側を夫婦の寝室とし、北側に階段室、便所、浴室及び仏間を配しています。

こうした中廊下式平面は大正期に成立した平面形式であり、センターゾーンの西川家別邸もこの形式です。


三井八郎右衛門邸庭園



綱島家(農家)



綱島家(農家)


綱島家(農家)

綱島家は、江戸東京たてもの園に復元されている茅葺き民家の中では、建築年代が最も古く、1700年代前半(江戸時代中期)と考えられています。

綱島家のあった世田谷区岡本は、国分寺崖線と呼ばれる段丘崖の上に広がっており、江戸時代には紅葉の美しい景勝地として知られており、明治以降には高橋是清など多くの著名人の別荘地となりました。



綱島家は、西ゾーンの吉野家と同様、寄棟造り茅葺きの屋根ですが、綱島家の方の軒が随分と低いです。

また、全体的に開放的な吉野家に対し、綱島家は土塀がまわった閉鎖的なつくりであり、戸袋もなく、板戸としています。


こうした特徴は、古い時代の民家の性格をよく示しているとのことです。


綱島家(農家)



綱島家(農家)


平面は、板敷きの広間の西側に南北の続き間をもつ構成です。

こうした形式は広間型三間取りと呼ばれ、天明家や八王子千人同心組頭の家に見られるような四間取り平面よりも古い時代の平面形式とされています。



奄美の高倉



奄美の高倉

奄美の高倉は、江戸時代末期頃に建てられた穀類を保管するための倉です。

高倉の所在地である奄美大島は高温多雨な地域であり、湿気や鼠の害から穀物を守るために、建物本体を地面から高く上げています。

このような高床式の建物は八丈島などにも見られます。


奄美の高倉



八王子千人同心組頭の家



八王子千人同心組頭の家

八王子千人同心組頭の家

八王子千人同心は、もともと、甲斐武田氏の小人頭に率いられた同心衆でしたが、武田氏の滅亡後、徳川家康の配下となり、天正18年(1590年)家康が関東の領主となると、八王子に配備されました。

八王子千人同心の役割は、当初、甲武国境を警備することでしたが、戦乱が収まると、将軍の上洛や日光東照宮参詣時の供奉、江戸城修復時の警備を務めました。

慶安5年(1652年)、日光の火の番を命じられると、この任務が主な役割となりました。



土間から見ることのできる小屋組は二本一組の斜材によって屋根を支える合掌造りで、縦横に組まれた梁とともに、簡素な構成のなかに美が宿る民家の魅力を伝えています。


平面は整形四間取りです。

柱が礎石の上にじかに乗る構造は、江戸時代後期の一般的な特徴であり、土台の上に柱を立てる吉野家に比較して古式です。


八王子千人同心組頭の家



吉野家(農家)



吉野家(農家)


吉野家(農家)

吉野家は江戸時代後期に建てられた農家です。

吉野家は、江戸時代に野崎村(現在の三鷹市野崎)の名主役を務めた家といわれており、式台付きの玄関や付け書院のある奥座敷に格式を見ることができます。



建物内では、昭和30年代の農家の生活の様子を再現しています。

「囲炉裏」が台所と土間の2個所にあり、台所の囲炉裏は朝と夜、土間の囲炉裏は農作業の合間となる昼や近所の人が来たときの接待などに使っていたとのことです。

「かまど」も2個所ありますが、台所のかまどは人寄せのときに使用し、普段は土間のものを使用していました。


台所の囲炉裏



土間の囲炉裏

アクセス

JR武蔵小金井駅または西武新宿線花小金井駅から徒歩20分

JR武蔵小金井駅及び西武新宿線花小金井駅からバス5分の小金井公園西口で下車して徒歩5分


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       風来坊


吉野家(農家)


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