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平泉散策 その3 (H22.10.11)

高館義経堂(たかだちぎけいどう)


高舘義経堂



高舘義経堂からの展望 前方は北上川

高館は北上川に面した丘陵で、判官館とも呼ばれています。

現在では、その半ばを北上川に浸蝕され狭くなっていますが、この一帯は奥州藤原氏初代清衡公の時代から、要害地とされていました。

兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた源義経は、藤原氏三代秀衡の庇護のもと、この高館に居館を与えられました。

地元で判官館と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに由来します。



しかし、秀衡死亡後の文治5年(1189年)閏4月30日、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子・泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられています。


丘の頂上には、天和3年(1683年)仙台藩主第4代伊達綱村公が義経を偲んで建てた義経堂があり、中には義経公の木造が安置されています。

高館からの眺望は平泉随一といわれ、眼下に北上川が流れ、遠く束稲山の連山を望むことができます。

また西からは、かつてその流域で前九年・後三年の役の戦いの場であり、弁慶立往生の故事でも知られる衣川が北上川に合流しています。


宝篋印塔



資料館

宝篋印塔(ほうきょういんとう) は、昭和61年(1986年)、藤原秀衡、源義経、武蔵坊弁慶八百年の御遠忌を期して、供養のための造立されたものです。

祖父、父の志を継いで奥州藤原文化を築き上げた秀衡、運命に翻弄されこの平泉で31歳という短い人生を終えた義経、そして義経を信じ戦い抜いた弁慶。

それぞれの生涯に思いを馳せ、心からの供養を行うのに、この高館はふさわしい場所だということができます。




松尾芭蕉が門人・曽良を伴い、平泉を訪れたのは元禄2年(1689年)旧暦5月13日です。

高館に立ち、眼下に広がる夏草が風に揺れ光る様を眺めた芭蕉は、100年にわたり平泉文化を築き上げた奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経公を思い、かの名句を詠みました。


三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。(中略)国破れて山河あり、城春にして草青みたりと笠打敷て時のうつるまで泪を落し待りぬ。

 夏草や  兵共が 夢の跡


芭蕉句碑


卯の花清水



卯の花清水は高館義経堂のから下った所に湧き出る清水です。

卯の花清水の名称の由来は、元禄2年(1689年)に松尾芭蕉と共にここを訪れた曽良が

 卯の花に兼房みゆる白毛かな

と句を読んだことによるとのことです。



句の意味としては義経の忠臣の1人兼房が高館落城の折、白髪を振り乱しながら奮戦し、遂には死を遂げた様子を、白く咲き乱れる卯の花に例えたものです。


無量光院跡


無量光院跡



無量光院


3代秀衡が造営した無量光院は「吾妻鏡」によると新御堂と号しました。

新御堂とは毛越寺に対する新院の意味で、毛越寺の付属寺院でした。

本尊は丈六の阿弥陀仏で三重の宝塔があり、院内の荘厳や建物の向き、地形までもことごとく宇治平等院を模したといわれています。


現在は池跡、中島、礎石が残るのみですが、発掘調査によると、四囲は東西約240m、南北約270mで、毛越寺より一回り大きかったことが判明しました。

平泉の猫間が淵を宇治川に、束稲山を宇治の朝日山に見立てて借景としており、庭園は毛越寺や観自在王院と同様の典型的な浄土庭園でした。

金鶏山を背景としたこの庭園は、春秋の彼岸頃には、金鶏山の真上に夕日が沈む素晴らしい光景を見ることができます。


中島の跡


武蔵坊弁慶の墓ほか


武蔵坊弁慶の墓


中尊寺月見坂入口手前の国道4号線沿いの三角州のような場所に「武蔵坊弁慶の墓」があり傍に「武蔵坊弁慶大墓碑建立由来」があります。


文治5年(1189年)義経の居城高舘焼き討ちされるや、弁慶は最後まで主君を守り遂に衣川にて立ち往生す。

遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて、後世中尊寺の僧素鳥が詠んだ石碑が建てられた。

 色かえぬ松のあるじや武蔵坊



奥の細道紀行最北端の地

弁慶の墓の道路の反対側にある平泉文化史館に前に、「奥の細道紀行 平泉の碑」があり、「奥州岩手路最北端折返地」と書かれていました。


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        風来坊


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