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平泉散策 その1 (H22.10.11)

平泉は平安時代末期に奥州藤原氏の本拠地となった町です。
奥州藤原氏の時代には、平泉の人口は10万〜15万人と推定され、当時の日本の推定人口1000万人において、平安京の16万〜30万人に次ぐ、大都市として栄えました。

平泉では、奥州藤原氏4代100年近くにわたって王朝風の華やかな文化が栄え、中尊寺、毛越寺(もうつうじ、基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されましたが、当時の面影をとどめているのは中尊寺金色堂、毛越寺庭園と、紺紙金銀字経などのわずかな遺品のみです。

古代期から平泉は軍事の要衝地帯として重要視されており、平安時代後期には地元の豪族であった安倍氏支配していましたが、前九年の役で源頼義・義家親子に滅ぼされました。
平泉はその際に源氏に味方した清原氏の支配下に置かれましたが、清原氏の内紛である後三年の役を経て勝ち残った清原清衡が実父の姓に復して藤原氏を名乗り、根拠地を平泉に移して居館を建設しました。

そして以後、平泉は藤原清衡から藤原泰衡の4代にわたっての奥州藤原氏の本拠地となり、藤原氏の治世のもと、100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でした。

しかし、京都の伝統的権威と、鎌倉の頼朝の勢力と平泉が、それぞれ相対する厳しい状況となってきました。そこに、源平の戦いや一ノ谷や屋島の合戦で活躍した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびてきました。
まもなく、義経を保護した秀衡が病死すると、4代泰衡は頼朝の圧力に耐えかねて、文治5年(1189年)義経を急襲して自害させました。しかし、泰衡も頼朝に攻め滅ぼされ、1189年奥州藤原氏は滅亡しました。

その後、平泉は奥州総奉行として赴任した葛西氏の本拠となりましたが、鎌倉時代の平泉は産金量の低下や御家人の領地細分化などで次第に都市としての力を失い、中世末期には奥州藤原氏によって建設された造営物は大半が失われてしまいました。

江戸時代前期の元禄2年(1689年)、平泉を訪れた松尾芭蕉は、奥州藤原氏の当時繁栄を極めた居館のあった場所が、田野となっている有様を見て、

 夏草や 兵共(つわものども)が 夢の跡

と俳句を詠み、また朽ちかけていたもののかろうじて光を残す中尊寺金色堂においては、

 
五月雨の 降(ふり)残してや 光堂

の句を残しています。


中尊寺


中尊寺金色堂



中尊寺本堂


中尊寺は、天台宗東北大本山の寺院で、山号は関山です。


嘉祥3年(850年)に慈覚大師円仁が創建したと伝えられています。

その約250年後、平泉に本拠地を移した初代藤原清衡が、前九年・後三年の合戦で亡くなった人々の霊を慰め平和な仏国土を造ろうと、21年の歳月をかけて多くの伽藍を造営しました。



最盛期には堂塔40、僧坊300を有して、奥州屈指の大寺院となりました。

中尊寺は、奥州藤原氏が滅亡した以降、次第に衰退し、さらに建武4年(1337年)の大火災で多くの建物を焼失しましたが、金色堂を始め3000点以上の国宝や重要文化財が現在でも所蔵されています。


月見坂



月見坂


昭和54年(1979年)中尊寺境内は国の特別史跡に指定されています。

また、2001年には世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として記載されました。

しかしながら、2008年の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定されました。


中尊寺は国道4号線から月見坂を登った丘陵上に諸堂が点在しています。

月見坂

中尊寺の表参道を月見坂といいます。

道の両側には、江戸時代に平泉を治めていた伊達藩によって植樹された、樹齢300年〜400年ほどの杉の並木が続き、歴史の長さを物語っています。


月見坂



八幡堂


八幡堂

月見坂の途中の左手に八幡堂があります。

天喜5年(1057年)当時鎮守府将軍であった源頼義と子の義家は安倍氏追討のためこの地に至り、ここ月見坂で戦勝を祈願して建てられたのが始まりとされています。

いわゆる前九年の戦いです。



鎌倉時代の歴史資料である「吾妻鏡」では中尊寺の年中行事の中で八幡神社で法会が行われたことが書かれています。

神仏分離令により、八幡神社から八幡堂となり、本尊を阿弥陀如来尊像としています。

なお、長い戦いを終えて、勝利の記念に京都石清水から迎えたのが鎌倉由比ヶ浜の八幡宮です。

後に頼朝が鶴岡に移建しました。


月見坂 右手奥に八幡堂



弁慶堂



弁慶堂


弁慶堂

月見坂を上ったと左手にあるのが弁慶堂です。

入母屋の金属板葺きの屋根でかなり細かい彫刻が施されています。

文政9年(1826年)に再建されたものです。



堂内には源義経と、自害する義経を守って往生を遂げた弁慶の木造が並んで安置されています。


このほかにも数体の弁慶像が安置されていますが、最も古いものは弁慶自ら彫ったという説もあります。


弁慶堂



弁慶堂からの展望 右前方で左からの衣川が北上川に合流



薬師堂

弁慶堂から少し坂を登った右手に地蔵堂、左手に薬師堂があります。

当初は別の場所にありましたが、明暦3年(1657年)に現在地に建立されました。

堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され、脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置されています。



この薬師信仰は東北地方に平安の昔から中尊寺を中心にさかんに行われました。特に眼病の人々には盲僧信仰として広く信仰されたのがこの薬師如来であり、この御堂でした。


またこの御堂には子安地蔵が安置されています。その由来は出産や育児のための信仰で、神道では木花咲耶媛を祭神としている神仏習合で、子安観音が祀られています。


薬師堂



地蔵堂


観音堂



本堂



本堂


本堂


薬師堂から少し進むと左手に観音堂があり、右手が本堂です。

中尊寺はこの山全体の総称で、本寺である「中尊寺」と山内17カ院の支院で構成されている一山寺院です。

本堂は、一山の中心となる建物で、その規模も最大です。



中尊寺は奥州藤原氏が亡ぶと次第に勢いも無くなり、建武4年(1337年)には火災により多くの堂宇と共に本堂も焼失しました。


近世に入ると伊達藩の庇護の元、多くの建物が再建され、本堂前にある山門も元々一関藩主であった伊達兵部宗勝の居館であった一関城より万治2年(1659年)に移築されました。

山門は薬医門形式で左側に脇門があるなど城郭建築の一端を見ることができます。


山門


現在の本堂は明治42年(1909年)に再建されたものです。


御本尊は阿弥陀如来です。

本尊の両脇には比叡山延暦寺より分火された「不滅の法燈」があり、宗祖伝教大師最澄が点して以来消えたことのない天台宗の象徴的な灯とのことです。

古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で行われます。


不動堂

本堂から金色堂に向かう途中にある不動堂は、中尊寺の祈祷道場です。

御本尊の不動明王は、右手に宝剣を持ち、どんな邪悪をも切って破る。しかし、左手のロープは救いを求める人を搦めてすくい上げて下さる。そういう姿を示しています。

この世に生きる私たちの過ちを直し、苦悩を取り除いてくれるご尊体です。

日本全国でお不動様として親しまれている仏様です。


不動堂



峯薬師堂


峯薬師堂


不動堂の参道の反対側にあるのが峯薬師堂です。

峯薬師堂は宝形造り瓦葺きの寺院です。

最初は金色堂の南方にありましたが天正年間(1573年〜1591年)に荒廃し、元禄2年(1689年)に現在の地に再建されました。



御本尊は丈六(約2.7m)の薬師尿来の座像でカツラ材の寄木造り、金色に漆を塗り金箔をおいたもので、藤原末期の作で現在は重要文化財として讃衡蔵に安置されている。

現在の御堂は昭和57年の改築で、御本尊も薬師如来を中心に日光菩薩、月光菩薩の三尊です。


大日堂



中尊寺参道



鐘楼


讃衡蔵(さんこうぞう)

峯薬師堂から参道を進むと右手に大日堂、鐘楼があり、鐘楼の参道の反対側に讃衡蔵があります。

讃衡蔵は中尊寺に伝わる文化財・宝物を永く後世に伝える宝物館として1955年に建立され、平成12年(2000年)に新築されたものです。



館名の讃衡蔵は「奥州藤原3代(清衡・基衡・秀衡の衡)の偉業をたたえる(讃える)という意味です。

現存する3000点以上の国宝・重要文化財のほとんどがここに収蔵されております。

三体の丈六仏、金銅華鬚、紺紙金銀字交書一切経、念珠類残欠など、仏像・経典・奥州藤原氏の副葬品など、貴重な文化財を拝観することができます。


讃衡蔵



金色堂



金色堂

金色堂

天治元年(1124年)、藤原清衡によって建立された金色堂は、中尊寺建立当初の姿をいまに伝える唯一の建造物です。

堂内外に金箔を押してある「皆金色」の阿弥陀堂は、荘厳の限りが尽くされています。

4本の巻柱や須弥壇(仏壇)、長押にいたるまで、白く光る夜行貝の細工(螺鈿)、透かし彫りの金具・漆の蒔絵と、平安時代後期の工芸技術を結集されており、堂全体が美術工芸品といえます。



仏像は須弥壇の上に御本尊阿弥陀如来、その前に観音菩薩と勢至菩薩、左右に3体ずつ地蔵菩薩が並び、最前列には持国天と増長天が仏界を守護しています。


この仏像構成は金色堂独特のもので他に例を見ない貴重なものだそうです。

中央の須弥壇の中には、奥州藤原氏の初代清衡、向かって左の壇に2代基衡、向かって右の壇に3代秀衡の御遺体と4代泰衡の首級が納められています。

残念ながら撮影禁止で金色堂の写真をお届けできません。


芭蕉句碑



芭蕉句碑


松尾芭蕉の句碑


江戸時代前期の元禄2年(1689年)、中尊寺を訪れた松尾芭蕉は、朽ちかけていたもののかろうじて光を残す中尊寺金色堂において、

五月雨の 降(ふり)残してや 光堂

の句を残しています。


経蔵

金色堂のそばに建つ経蔵は、国宝の「中尊寺経」を納めていたお堂です。

一部平安時代の古材が使用されていますが、建築年代は鎌倉末期と推定されています。

内部には国宝の螺鈿八角須弥壇(実物は讃衡蔵へ移動)が置かれ、壇上には獅子に乗った文殊菩薩像と従者4体からなる文殊五尊像(重文)が安置されていました。


経蔵



奥の細道碑


芭蕉碑



旧覆堂


旧覆堂

経蔵からすこし進んだ左手に「芭蕉碑」と「奥の細道碑」が並んでいます。

その先にあるのが旧覆堂です。

旧覆堂は黄金に輝く金色堂を風雪から守るために、正応元年(1288年)に鎌倉幕府が建造した建物と考えられてきました。



しかし、近年の調査では、金色堂建立後50年ほどで簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て室町時代中期(16世紀)に現在の形になったものと見なされています。


新覆堂が完成する昭和40年(1965年)まで、この覆堂が使用されていました。

旧覆堂の隣にあるのが大長寿院で、大長寿院の右手奥に白山神社があります。


大長寿院



白山神社能楽殿



白山神社能楽殿

白山神社

白山神社の祭神は、伊邪那岐尊・伊邪那美尊で、嘉祥3年(850年)に慈覚大師が一関磐井川の上流に加賀の一の宮(現在の石川県の白山本宮)より分霊されてあったのをこの関山に遷座し奉り勧請されたといわれています。

勧請と同時に白山権現と号せられ、慈覚大師自ら十一面観音を作って本尊として、その後配仏として藤原季衡(清衡の子)の持仏運慶作の正観音と源義経の持仏毘沙門天が寄進安置されていましたが、残念ながら嘉永2年(1849年)の火災で焼失しました。



仮宮の拝殿(現在の能楽殿)と鳥居は、嘉永6年(1853年)伊達藩主伊達慶邦公によって建立寄進されたものです。


能楽殿は橋掛、楽屋などを完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本では唯一とされ、平成15年(2003年)国の重要文化財に指定されています。


白山神社能楽殿



白山神社


案内板に「現行の能舞は天正19年(1591年)に、時の関白豊臣秀次と藩主伊達政宗両公が当社参拝の節観覧に供して依頼続行今日に至っている。明治9年(1876年)秋には、明治天皇が御東巡の折りに当社に御臨幸あらせられ、古式及び能舞を天覧あらせられました。」と書かれています。

また、「藤原まつり」では古実舞と神事能、「中尊寺薪能」では喜多流職分による演能が行われるとのことです。



弁財天堂


白山神社から参道に戻り、少し下がると左手に弁財天堂があります。

弁財天堂は金色堂の丁度向い側にあたり、茅葺の寄棟造りの屋根で間口3間の建物です。

弁財天を祀っている場所にふさわしく廻りを池で囲まれた小島の上に建立され、基礎束が高くなり湿気から護ると同時に印象深い容姿になっています。


弁財天堂



阿弥陀堂


宝永2年(1705年)に伊達家から寄進されたもので、弁財天十五童子像が安置されています。


弁財天堂の右手に阿弥陀堂があります。



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        風来坊


参道 左手が大日堂


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