平泉は平安時代末期に奥州藤原氏の本拠地となった町です。
奥州藤原氏の時代には、平泉の人口は10万〜15万人と推定され、当時の日本の推定人口1000万人において、平安京の16万〜30万人に次ぐ、大都市として栄えました。
平泉では、奥州藤原氏4代100年近くにわたって王朝風の華やかな文化が栄え、中尊寺、毛越寺(もうつうじ、基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されましたが、当時の面影をとどめているのは中尊寺金色堂、毛越寺庭園と、紺紙金銀字経などのわずかな遺品のみです。
古代期から平泉は軍事の要衝地帯として重要視されており、平安時代後期には地元の豪族であった安倍氏支配していましたが、前九年の役で源頼義・義家親子に滅ぼされました。
平泉はその際に源氏に味方した清原氏の支配下に置かれましたが、清原氏の内紛である後三年の役を経て勝ち残った清原清衡が実父の姓に復して藤原氏を名乗り、根拠地を平泉に移して居館を建設しました。
そして以後、平泉は藤原清衡から藤原泰衡の4代にわたっての奥州藤原氏の本拠地となり、藤原氏の治世のもと、100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でした。
しかし、京都の伝統的権威と、鎌倉の頼朝の勢力と平泉が、それぞれ相対する厳しい状況となってきました。そこに、源平の戦いや一ノ谷や屋島の合戦で活躍した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびてきました。
まもなく、義経を保護した秀衡が病死すると、4代泰衡は頼朝の圧力に耐えかねて、文治5年(1189年)義経を急襲して自害させました。しかし、泰衡も頼朝に攻め滅ぼされ、1189年奥州藤原氏は滅亡しました。
その後、平泉は奥州総奉行として赴任した葛西氏の本拠となりましたが、鎌倉時代の平泉は産金量の低下や御家人の領地細分化などで次第に都市としての力を失い、中世末期には奥州藤原氏によって建設された造営物は大半が失われてしまいました。
江戸時代前期の元禄2年(1689年)、平泉を訪れた松尾芭蕉は、奥州藤原氏の当時繁栄を極めた居館のあった場所が、田野となっている有様を見て、
夏草や 兵共(つわものども)が 夢の跡
と俳句を詠み、また朽ちかけていたもののかろうじて光を残す中尊寺金色堂においては、
五月雨の 降(ふり)残してや 光堂
の句を残しています。
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