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神田駅東口界隈
JR東日本の「駅からハイキング」のイベント「日本橋七福神や橋をめぐり、お金の勉強でちょっぴりリッチな気分に」に参加しました。 サブタイトルは「江戸っ子に親しまれる日本橋七福神や橋をめぐり、下町情緒を楽しむ散策です」 細部説明は「福をもたらす七人の神を祀る神社をめぐります。途中、下町情緒溢れる甘酒横丁の散策も是非楽しんで下さい」です。
コースの概要は次のとおりです。 JR神田駅→椙森神社→両国橋→笠間稲荷神社→末廣神社→甘酒横丁→水天宮仮宮→松島神社→茶ノ木神社→小網神社→江戸橋→日本橋→常盤橋→貨幣博物館→神田駅西口商店街→神田駅(ゴール) コースの歩行距離は約9km、歩行時間約2時間10分(施設での見学時間等を除く)、所要時間約3時間10分(施設での見学時間を含む)です。 写真を撮りながら散策し、所要時間3時間15分、約14,000歩でした。
JR神田駅南口で受付を済ませて前方の道路を左方向(東方向)に100mほど進んだ「今川橋交差点」を右折し、300mほど進んだ「室町四丁目交差点」を左折して400mほど進むと「小伝馬町交差点」です。 「小伝馬町交差点」の50mほど手前を右折して、路地を300mほど進んだ左手が「椙森神社」です。
椙森神社
「椙森神社」は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社で、江戸時代には、江戸城下の三森(烏森神社、柳森神社、椙森神社)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集め、当たりくじ富興行も行われていたといわれています。 日本橋七福神の恵比寿神を祀っています。
椙森神社の富塚
「椙森神社」は江戸三森の一つで、江戸商人の発祥の地としても栄えましたが、さらに神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つに数えられるほど数多くの富籤が興行されました。この富興行は、江戸庶民の楽しみの一つでもあり、庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができます。 富塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されましたが、関東大震災で倒壊しました。 現在の富塚は昭和28年に再建されたものです。この富塚は、他に類を見ないといわれ、日本で唯一のものです。
両国橋
「椙森神社」から「堀留町交差点」を横切って北東方向に1Kmほど進むと隅田川川岸で、左方向に200mほど進むと「両国橋」です。 「両国橋」は江戸時代初期の1660年頃に、千住大橋に次いで隅田川に2番目に架橋された橋です。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)で当初は「大橋」と名付けられていましたが、西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから「両国橋」と呼ばれるようになりました。
両国橋からの東京スカイツリー
隅田川テラス
隅田川
現在の橋は、関東大震災後に建造され、ガードレールには軍配や花火が描かれ、ボールの先端には両国国技館の屋根を模した飾りなども配されています。 両国橋を渡り「両国1丁目交差点」を右折して200mほど進んだ一之橋を渡ったところを右折して100mほど進むと隅田川河岸の隅田川テラスに出ることができます。
新大橋からの隅田川の展望
「隅田川テラス」を下流に向かって400mほど進むと「新大橋」です。 「隅田川テラス」から階段を上り、「新大橋」を渡った最初の信号「新大橋西」を右折して、50mほど進むと「浜町公園」です。
墨田区立総合スポーツセンター
清正公寺
「浜町公園」は、1923年に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として隅田公園、錦糸公園と並んで計画された公園です。 この場所には、江戸時代は熊本藩主・細川氏の下屋敷があり、明治以降も細川氏の邸宅がありましたが、公園として整備され1929年に開園しました。
公園内には広場のほか、1861年に熊本藩主・細川斉護によって建てられた、加藤清正を祀る清正公寺があります。 現在では、園内にデイキャンプ場や運動広場のほか、中央区立総合スポーツセンターがあります。
浜町公園
笠間稲荷神社東京別社
「浜町公園」を反対側に抜けて、50mほど進んだ広い道路を左折し、「久松町交差点」を横切って、さらに100mほど進むと左手が「笠間稲荷神社東京別社」です。 「笠間稲荷神社東京別社」は、日本三大稲荷のひとつ茨城県笠間稲荷神社の東京別社です。江戸時代末期に笠間藩主牧野貞直が、本社より御分霊を笠間藩江戸下屋敷に奉斎して建立しました。紋三郎稲荷として親しまれています。
五穀を始め水産、殖産の守護神と信仰を集めています。 また、本殿に向かって左側の末社に祀られている「寿老人」は長寿の神にして、お導きの神、幸運の神として、人々の運命を開拓する福徳長寿の守護神とされています。
末廣神社
「笠間稲荷神社」から広い通りから反対方向に進み、2つ目の四叉路を右折して細い路地を200mほど進んだ右手が「末廣神社」です。 「末廣神社」は、江戸時代の初期に吉原(当所葦原と称した)がこの地にあった当時(元和3年から明暦3年まで)その地主神、産土神として信仰されていました。明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新泉町の4カ所との氏神として信仰されていました。 日本橋七福神の毘沙門天が祀られています。毘沙門天は、特に勝負事にご利益があるとして崇められています。
甘酒横丁
「末廣神社」から道なりに200mほど進んだ幅広い道路(人形町通り)を左折して100mほど進むと「甘酒横丁」の交差点です。 左折すると「甘酒横丁」です。 明治の初めに横丁の入口に甘酒屋があったことが名称の由来です。横丁内では現在も甘酒を扱う店があるほか、老舗の店が多数並んでいます。
明治座
甘酒横丁を400mほど進むと「浜町公園前」の交差点です。 左前方に明治座があり、交差点を渡った右手が「水天宮仮宮」です。 「水天宮」は、久留米藩主有馬頼徳公が港区赤羽の藩邸内に久留米市水天宮の分霊を文政元年(1818年)に勧請したのが始まりです。 明治4年(1871年)、有馬家屋敷の移転とともに赤坂に遷座し、翌明治5年(1872年)に有馬家中屋敷のあった現在の日本橋蛎殻町二丁目に遷座しました。
水天宮仮宮
社殿改築のため、平成25年日本橋浜町の明治座の傍に遷座しました。新社殿は平成28年に完成の予定です。 江戸時代より安産・子授けの神として人々から厚い信仰を集めており、妊婦や子供を授かりたい夫婦あるいは無事出産できた夫婦など、安産や子授かり願掛けやお礼参りなどの人並みが途絶えることはありません。 日本橋七福神の弁財天を祀っております。また、下町八社巡りの一社です。
松島神社
「水天宮仮宮」から南東方向に200mほど進んだ「浜町中ノ橋」交差点を右折し、200mほど進んだ右手が「松島神社」です。 「松島神社」の創建年代は不詳ですが、口伝によると鎌倉時代の元享(1321年)以前に、柴田家の祖先が下総の国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請したと推測されています。
天正13年(1585年)に邸宅を公開した際、島内が松樹鬱蒼としていたことから松島稲荷大明神と称され、江戸時代に当地付近が松島町と名付けられたことから、明治7年(1874年)には松島稲荷神社として村社に列格していたといわれています。 日本橋七福神の大黒神が祀られています。
茶ノ木神社
「松島神社」から100mほど進むと「水天宮交差点」です。交差点の左手前が「水天宮」で現在改築工事中です。交差点を渡って50mほど進んだ右手の路地を入ると「茶の木神社」です。 「茶ノ木神社」は、下総佐倉の城主大老掘田家の中屋敷にあった守護神として祀られていました。社の周囲にめぐらされた茶の木が見事だったことから社名が名付けられました。 屋敷内だけでなく周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、火伏の神と崇められました。 日本橋七福神の布袋尊が祀られています。
小網神社
「茶ノ木神社」の先の交差点を左折して300mほど進むと幅広い道路にぶつかります。 右折して200mほど進んだ右手が「小網神社」です。 「小網神社」の創建年代は不詳ですが、悪疫消滅鎮静を祈願するために、恵心僧都が文正元年(1466年)稲荷大神を勧請、時の領主太田道灌が小網稲荷神社と命名したと伝えられています。 日本橋七福神の福禄寿と弁財天が祀られています。 下町八社巡りの一社です。
「小網神社」から道なりに300mほど進んだ左手が「江戸橋」です。 「江戸橋」は、日本橋川に架けられた、中央区日本橋と日本橋本町とを結ぶ橋です。 江戸時代の橋は、現在地よりも少し下流にありましたが、橋の下には漁船や乗合の舟が集まり、南側には船宿があったほか、隅田川の舟遊びのための屋形船なども停泊していました。 南西側は木更津河岸と呼ばれ、江戸と上総国木更津を行き来する木更津便が発着していました。
寛永9年(1632年)の「武州豊嶋郡江戸庄図」では写本によって江戸橋が描かれているものと描かれていないものがあり、江戸橋の架けられた年代を寛永8年(1631年)とする説と、「正保年間江戸大絵図」(1645〜1648年)までの間とする説があります。 1875年に石橋に、1901年に鉄橋になり、昭和2年(1927年)昭和通り開通に伴い現在地に架け直されました。
江戸橋
日本橋三越
日本橋
江戸橋から道なりに200mほど進むと「日本橋」です。 初代の橋は、慶長8年(1603年)徳川家康により日本橋川に架橋され、翌年に五街道の起点として定められました。 現在の橋は20代目で、明治44年(1911年)に架けられた石造りの二連アーチ橋で国指定重要文化財です。
戦前の道路法では、各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付けてしました。その場所は概して市役所や県庁などとされていましたが、東京市は江戸時代を踏襲して日本橋を道路元標としました。 現行の道路法では道路元標に関する規定はありませんが、今日でも橋の中央には「日本国道路元標」の文字が埋め込まれており、裏側には当時の内閣総理大臣、佐藤栄作の名前が刻まれています。
日本國道路原標複製
橋の袂にレプリカが展示されています。 現在、日本橋を始点としている国道は、国道1号(終点大阪市)、国道4号(終点青森市)、国道6号(終点仙台市)、国道14号(終点千葉市)、国道15号(終点横浜市)、国道17号(終点新潟市)、国道20号(終点塩尻市)の7本です。
常盤橋
「日本橋」から道なりに300mほど進むと「常盤橋」です。 「常盤橋」は天正18年(1590年)架橋と伝えられる東京で最も古い橋の一つです。 元は「大橋」を称され、江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通り(現在の江戸通り)上に置かれていました。浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれました。 明治になって、石造りのアーチ橋の常盤橋が造営されたものの、手狭であることから、昭和元年に(1926年)現在の常盤橋が造営されて、旧橋は「常磐橋」と呼ばれるようになりました。
日本銀行本店
貨幣博物館
「常盤橋」の手前右手にあるのが日本銀行本店で、日本銀行の南側の日本銀行金融研究所の2階に「貨幣博物館」があります。 古代から現代までの日本のさまざまな貨幣や貨幣に関する資料、海外の珍しい貨幣などを展示しています。
豊臣秀吉や徳川家康が作らせた金貨を実際に手に持って重さを知ることができる体験型展示もあります。 また、1億円分の紙幣の重さも体験できます。 お札の絵柄のタオルなど、土産品もユニークです。
神田西口商店街
日本銀行本店から外堀通りに沿って700mほど進んだ「鎌倉橋」の交差点を右折し、200mほど進んだ「神田西口通り」の交差点を右折すると「神田西口通り商店街」です。 「神田西口通り商店街」は、約300mの間に約100軒の商店が軒を連ねる、非常に賑やかな商店街です。
「神田西口通り商店街」の真ん中付近に「佐竹稲荷神社」があります。
佐竹稲荷神社は、当地に江戸屋敷を構えた秋田藩佐竹氏が、藩邸の鬼門除けのため、寛永12年(1635年)に邸内社として創建したと伝えられています。 関東大震災後の区画整理で当地へ遷座しました。 「神田西口通り商店街」を抜けるとJR神田駅(ゴール)です。 風来坊