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専門店が連なる街、御茶ノ水界隈をぶらり歩く その2 (H25.10.30)


マーチエキュート神田万世橋



万世橋

丁字路を右折し、最初の交差点を左折して50mほど進むと「万世橋」です。

「万世橋」の左手前に「マーチエキュート神田万世橋」があります。

中央線の神田駅と御茶ノ水駅の間には、「万世橋駅」がありました。

明治45年(1912年)、中央線の昌平橋(御茶ノ水駅の200mほど東にあった仮設の駅)〜万世橋間が開通し、万世橋駅は東京市電(路面電車)の乗り換えターミナルとして栄えました。

駅周辺エリア(神田須田町)は銀座と並ぶほどの繁華街へと成長し大変な賑わいを見せました。


大正8年(1919年)、中央線が東京駅まで開通し、万世橋駅は中間駅となります。

大正11年(1923年)の関東大震災で、初代駅舎は焼失し、大正14年(1925年)に2代目駅舎が完成しました。

昭和11年(1936年)に、鉄道博物館が併設されました。

万世橋駅は大きな駅舎を鉄道博物館に譲り、大幅に縮小され、昭和18年(1943年)に乗降客減少に伴い、万世橋駅は休止となりました。


マーチエキュート神田万世橋



両側を電車が通過します



撮影失敗 電車に逃げられた

鉄道博物館は、昭和23年(1948年)にその名を交通博物館と改め、70年の長きにわたり、鉄道ファンや子供の夢をはぐくみ続けました。

しかし施設老朽化などにより閉館し、さいたま市で鉄道博物館として再出発しました。



マーチエキュート神田万世橋



マーチエキュート神田万世橋


旧万世橋駅の開業時に作られたホーム部分を「2013年プラットホーム」として整備し、デッキとして蘇りました。

高架橋にある旧万世橋駅のふたつの階段を通り、階段脇にあるホームに上がり、実際に駅構内を歩く気分で回遊できます。

中央線がすぐ両脇を行き交う特別な空間です。


マーチエキュート神田万世橋



架道橋万世橋

かつての万世橋駅のプラットホームにカフェ「N3331」があります。

ガラス張りの空間で、両脇を走る電車を眺めながらここだけのひと時を楽しむことができます。

また、旧万世橋駅や交通博物館時代と変わらない、連続する赤れんがアーチの建物の中は、嗜好性の高いショップやカフェが並ぶ新しい商業施設となっています。



秋葉原


万世橋を渡ってJR総武線の下を通過し、100mほど進んだ信号を右折して、100mほど進むとJRの高架となります。

高架の手前を左折すると、高架の下に新しいお店が並んでいます。

CHABARA AKI-OKA MARCHE」です。

秋葉原駅・御徒町駅間高架下開発の、「2k540 AKI-OKA ARTISAN」の第2弾として、2013年7月5日に誕生した新しい施設です。


秋葉原



CHABARA



CHABARA

CHABARA AKI-OKA MARCHE」は、かつて賑わいを見せた神田青果市場跡が、「食文化の街」として再開発されたものです。

CHABARA」は、かつて当地に存在した神田青果市場の通称「やっちゃ場」と「秋葉原」を組み合わせた造語で、「MARCHE」はフランス語で「市場」を意味します。

「日本の食」をテーマとしており、キーテナントとなる「日本百貨店しょくひんかん」には日本各地の選りすぐりの食品が揃えられるとのことです。


CHABARA」に沿って高架下を300mほど進むと「2k540 AKI-OKA ARTISAN」です。

2k540 AKI-OKA ARTISAN」は、JR東日本都市開発が運営する商業施設で、2010年12月10日に、秋葉原駅と御徒町駅間の高架下に開業しました。
位置としては、蔵前橋通りの北側となります。

名称の「2k540」は東京駅を起点とした距離(キロ程)で、東京駅から2,540m2k540m付近にあることを示しています。

AKI-OKA」は秋葉原と御徒町の中間にあることを、「ARTISAN」はフランス語で「職人」をそれぞれ意味しています。

周囲には職人が古くから数多く住んでおり、また自ら「ものづくり」を行うクリエイターが増えてきていることから、こうした「ものづくり」の土壌を生かし、職人的なクリエイターによる店舗を入居させ、従来型の商業施設と異なるコンセプトで運営を行っています。

第一期として入居している32店舗はアトリエや工房を構えたものが中心ですが、カフェなどもあります。見たり購入したりするだけでなく、訪れた人が「ものづくり」を体験できるワークショップも開催しています。2011年には第二期として北側に新たに20店舗がオープンしています。

残念ながら定休日で写真がありません。


2k540 AKI-OKA ARTISAN」から蔵前橋通りに沿って西方向に100mほど進んだ「西神田5丁目」の交差点を右折し、50mほど進んだ2つ目の筋を左方向に50mほど進んだ右手が「アーツ千代田3331」です。

「アーツ千代田3331」は、旧練成中学校を利用して誕生したアートセンターです。地下1階、地上3階の館内には、アートギャラリー、オフィス、カフェなどが入居し、展覧会だけでなくワークショップや講演会といった文化的活動の拠点として利用されています。

また、誰でも無料で利用できるフリースペースも充実しており、憩いの場ともなっています。


アーツ千代田3331



真っ直ぐ進むと上野公園不忍池です

「アーツ千代田3331」から50mほど進んだ幅広い道路を右折し、道なりに700mほど進むと上野公園の不忍池です。

不忍池に沿って右方向に300mほど進むと「下町風俗資料館」があります。

「下町風俗資料館」は、庶民の歴史である下町の大切な記憶を次の世代に伝えるべく構想され、1980年に開館しました。

主に、江戸時代から昭和時代中期ぐらいにおいて育まれた東京下町の文化的資料を扱っています。



下町風俗資料館


(下町風俗資料館のホームページから)

明治、大正ころまでの下町には江戸の名残がありました。

しかし大正12年(1923年)の関東大震災、昭和20年 (1945年) の戦災によって、ほとんどその面影をなくし、さらに目覚しい復興を遂げた戦後、特に昭和30年代後半には東京オリンピックを契機とする再開発が積極的に進められ、街はすっかり様変わりしました。

人びとの暮らしもまた時代とともに変化し、便利さを取り入れた代わりに、古い時代の大切なものが忘れられようとしていました。


下町風俗資料館



下町風俗資料館

それは次第に下町を愛する人びとの間に広がり、やがて庶民の歴史である下町の大切な記憶を次の世代へ伝えるための資料館設立の構想が生まれたのです。

古き良き下町の文化が失われつつあることに、憂いの声が上がったのは昭和40年代のことでした。

それは次第に下町を愛する人びとの間に広がり、やがて庶民の歴史である下町の大切な記憶を次の世代へ伝えるための資料館設立の構想が生まれたのです。

これを実現するために台東区内外からたくさんの貴重な資料が寄贈されました。

そして、多くの人びとの長い歳月をかけた願いが実り、台東区立下町風俗資料館は、昭和55年(1980年)10月1日に、ここ不忍池畔に開館いたしました。


「下町風俗資料館」から元の道を「池之端1丁目」交差点まで戻り、「旧岩崎邸庭園」の案内板にしたがって、200mほど進むと「旧岩崎邸庭園」です。

旧岩崎邸庭園は明治29年(1896年)に岩崎彌太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸として造てられました。

往時は約1万5千坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいました。現在は3分の1の敷地となり、現存するのは洋館、撞球室、和館の3棟です。


下町風俗資料館



旧岩崎邸洋館



旧岩崎邸洋館



旧岩崎邸洋館

木造2階建・地下室付きの洋館は、鹿鳴館の建築家として有名な英国人ジョサイア・コンドルの設計で近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。

17世紀の英国ジャコビアン様式の見事な装飾が随所に見られ、イギリス・ルネサンス様式やイスラーム風のモティーフなどが採り入れられています。

洋館南側は列柱の並ぶベランダで、1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の特徴を持っています。


洋館と結合された書院造りの和館は、当時の名棟梁大河喜十郎の手によるものといわれています。完成当時は建坪550坪に及び、洋館を遥かにしのぐ規模を誇っていました。

現在は、洋館同様冠婚葬祭などに使われた大広間の1棟だけが残っています。


大広間を中心に巧緻を極めた当時の純和風建築を垣間見ることができます。
床の間や襖には、明治を代表する日本画家・橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる障壁画などが残っています。


旧岩崎邸和館



旧岩崎邸撞球室

ジョサイア・コンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は、洋館から少し離れた位置に別棟として建っています。

ジャコビアン様式の洋館とは異なり、当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りとなっています。

全体は木造建築で、校倉造り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、アメリカの木造ゴシックの流れを組むデザインです。

洋館から地下道でつながっています。また、内部には貴重な金唐革紙の壁紙が貼られています。



湯島天満宮



湯島天満宮


「旧岩崎邸庭園」から元の道を戻り「天神下」交差点で春日通りを横切って右折し、春日通りに沿って200mほど進んだ左手が「湯島天満宮」です。

「湯島天満宮」は、古来より江戸・東京における代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れますが、普段からも学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せています。

また、また境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った「湯島の白梅」(1942年)は戦中時の歌として大ヒットしました。


湯島天満宮



湯島天満宮・女坂

社伝によれば、雄略天皇2年(458年)1月、雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建されたと伝えられています。

南北朝時代の正平10年(1355年)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀しました。この時をもって正式な創建とする説もありますが、当の湯島天満宮では458年創建としています。



湯島天満宮


現在の社殿は、平成7年に総檜造りで造営されたものです。

社殿は、本殿と参拝する人のための拝殿が幣殿で結ばれている、「権現造り」の建築様式で、日本古来の「木の文化」を象徴する純木造です。

現在の建築基準法では、たとえ社寺建築であろうと防火地域では新たに木造建築は認められていませんが、万全の防災設備をととのえ、防災性能評定委員会の一年近い慎重審議を経て、建設大臣認定第一号として特に木造建築が許可されたとのことです。

樹齢250年といわれる木曽檜が使用されています。
境内では、菊まつりの準備が進められていました。


湯島天満宮


湯島天満宮から南方向に300mほど進んだ「三組坂上」の交差点を右折して100mほど進んだ右手が「霊運寺」です。

「霊運寺」は真言宗霊運寺派の総本山です。

5代将軍徳川綱吉は、深く帰依した浄厳覚彦を開山として徳川家のため、天下泰平、武運長久の祈願時として、元禄4年(1691年)創建しました。

江戸幕府から朱印状を受けるなど幕府の保護を受け、関東における真言律宗の中心的な寺院でした。関東大震災、第二次世界大戦の戦災で堂宇を焼失し、現在の堂宇は昭和51年(1976年)に再建されたものです。



おりがみ会館



おりがみ会館


「霊雲寺」の前を左折し、細い路地を300mほど進むと、蔵前橋通りです。

左折して蔵前橋通りに沿って100mほど進んだ右手が「おりがみ会館」です。

「おりがみ会館」は、安政5年(1858年)創業の染紙と江戸千代紙の店、小林染紙店を母体に設立された、世界でも珍しい折り紙のミュージアムです。


おりがみ会館



おりがみ会館

折り紙をはじめとした和紙文化と気軽に親しめるようにと開館されたものです。

中2階のギャラリーや、手染めの和紙を制作する染め場を見学することができます。

また、3階の売り場でも、さまざまな折り紙や千代紙を見ることができます。




おりがみ会館



おりがみ会館


おりがみ会館



ラフに折っているのに、手の中から次から次へと生まれてくる作品は、まるで魔法を見ているようだ、とのことですが、ギャラリーに展示されている作品を見ても、これが本当に折り紙なのかと思えるような作品ばかりで、驚きの連続です。


おりがみ会館



神田明神



神田明神

「おりがみ会館」から蔵前橋通りに沿って東方向に100mほど進んだ「清水坂下」の交差点を右折して少し進むと左手が「神田明神」です。

「神田明神」は、東京の中心部、神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内など108町会の総氏神様です。



神田明神


社殿によれば、天平2年(730年)に出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まります。

その後、天慶の乱で活躍した平将門を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309年)神田明神に奉祀しました。

戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されています。


神田明神



神田明神

祭神として、一ノ宮に大己貴命(だいこく様)、二ノ宮に少彦名命(えびす様)、三ノ宮に平将門命(まさかど様)の3柱が祀られています。

現在も縁結びや商売繁盛、除災厄除けなどの信仰が厚く、大勢の人が訪れます。

2年に一度行われる神田祭は、別名天下祭とも呼ばれています。


「銭形平次捕物控」の主人公、平次親分が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と2人で住み明神界隈を舞台に活躍していたことから、昭和45年に日本作家クラブが発起人となり、神田明神から明神下を見守る場所に、碑が建立されました。

隣には子分・がらっ八の小さな碑もあります。


銭形平次の碑



湯島聖堂



湯島聖堂

「神田明神」を出て右手に100mほど進んだ「湯島聖堂前」の交差点を左折し、100mほど進んだ左手が「湯島聖堂」です。

徳川5代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690年)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが湯島聖堂の始まりです。

その後、約100年を経た寛政9年(1797年)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(昌平校)」を開設した。


明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管となり、当初、学問所は大学校・大学と改称して存置しましたが、明治4年(1871年)これを廃して文部省が置かれ、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここで歴史を閉じました。

その後、明治4年(1871年)わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、明治5年(1872年)には東京師範学校及びわが国最初の図書館である書籍館が置かれ、明治7年(1874年)には東京女子師範学校が設置され、両校は現在の筑波大学、お茶の水大学へと発展しました。

このように、湯島聖堂は明治維新の一大改革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。


孔子像



楷の樹 楷書の由来になっている樹

大正11年(1922年)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌年の関東大震災により入徳門と水屋を残しすべて焼失しました。

その復興は昭和10年(1935年)に行われ、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建されました。

その建物が現在の湯島聖堂です。

また、湯島聖堂構内には、世界最大の孔子像が置かれています。

これは昭和50年(1975年)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたものです。



湯島聖堂から聖橋を渡るとJR御茶ノ水駅(ゴール)です。




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               風来坊


聖橋からの展望


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