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文京シビックセンターからの展望
文京シビックセンターからの展望 春日交差点
東京龍馬会の第54回史跡探訪に参加しました。 今回のテーマは、『伝通院から小石川界隈を歩く』です。 今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。 文京区役所(受付)→春日局銅像→斉藤一(新撰組副長助勤)終焉の地→源覚寺(こんにゃく閻魔)→善光寺→沢蔵司稲荷→傳通院→小石川後楽園→JR飯田橋駅(解散)
受付開始時刻の12時過ぎに文京区役所に到着し、受付で会費を支払うと名札と今回の史跡探訪の資料が渡されました。 史跡探訪の資料は、東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。
文京シビックセンターからの展望 小石川後楽園
文京シビックセンターからの展望 今回の史跡探訪はこの方向です
文京シビックセンター
史跡探訪の受付
今回の受付が行われた文京区役所(文京シビックセンター)は25階に展望室があります。 受付終了後、展望室に上って、今回の史跡探訪コースを上から眺めました。 この日は、生憎霞がかかっていましたので、写真は天気の良い日に撮影したものです。 東京龍馬会佐藤会長代行の挨拶の後、史跡探訪が開始になりました。
文京シビックセンターの西隣の礫川公園に「春日局の銅像」があります。 文京区「春日」の地名は、春日局が乳母として仕えた3代将軍徳川家光から拝領した土地に由来し、昔は春日殿町と呼ばれていました。 春日局の菩提寺・麟祥院が湯島にあることから、文京区は歴史的にも縁があります。
佐藤会長代行の挨拶
春日局の像
1989年に大河ドラマ「春日局」が放映されたのをきっかけに、文京区では地域の活性化・振興を図ることを目的として春日局像を建立することになったものです。 春日局は、明智光秀の家臣であった、美濃国の名族斉藤利三の娘で、稲葉正成と結婚して子供3人を設けるが、家光の乳母となるために夫と離別します。 家光が将軍になるために陰で支え、大奥を確立したことで有名です。
春日交差点付近
「春日局の銅像」から文京シビックセンターの方向に戻り、春日交差点を過ぎて100mほど進んだ左手が「斉藤一終焉の地」です。 斉藤一は、明石藩の足軽の次男として江戸で生まれました。 19歳の時、旗本と口論となり斬ってしまい、京に上り父の友人の道場に身を隠し、道場の師範代を務めていました。 文久3年(1863年)3月、浪士組上洛直後に京都で新撰組に入り、副長助勤となります。元治元年(1864年)6月の池田屋事件では、土方組で参加しました。
春日交差点から湯島方向を望む この坂の途中に斉藤一終焉の地が
この坂の途中に斉藤一終焉の地が
伊東甲子太郎が新撰組を離脱し、新党を結成するとこれ参加しましたが、近藤勇から命を受けてスパイとして潜り込んだらしく、近藤勇暗殺計画を知り、伊東を暗殺する油小路の変につながっていきます。 大政奉還後、新撰組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加します。斉藤も鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼、会津と転戦します。 会津藩が降伏後、越後高田で謹慎生活を送り、明治2年に松平家が再興を許されて、藩地が下北半島の斗南藩となった際には、斉藤も藩士として下北半島に赴きます。
明治7年に東京に移住、警視庁に採用され、明治10年に警部補に昇任し、同年の西南戦争に参加します。 明治24年警視庁退職後は、東京高等師範学校付属東京教育博物館(現・国立科学博物館)の看守、東京女子高等師範学校(現:お茶の水大学)の庶務掛兼会計掛などを勤めますが、出自、経歴については不明な点も多いようです。 大正4年(1915年)本郷区真砂町(現:文京区本郷4−13付近)で死去しました。
斉藤一終焉の地付近
源覚寺
「斉藤一終焉の地」から、春日町交差点に戻り、右折して300mほど進んだ「西片交差点」を左折して、100mほど進んだ丁字路の正面が「源覚寺(こんにゃくえんま)です。 源覚寺は、寛永元年(1624年)に定誉随波上人(後に増上寺第18世)により創建されました。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)です。 江戸時代には4度の大火に見舞われましたが、本尊とこんにゃくえんま像はいずれも難を逃れました。
明治時代に再建され、関東大震災や第二次世界大戦からの災害も免れましたが、老朽化が進んだため、現在の本堂は昭和54年(1979年)に再建されたものです。 源覚寺の別称にもなっている「こんにゃくえんま像」は、鎌倉時代の作といわれ、像内から寛文12年(1672年)に修復された記録が発見されています。 100.4センチの木造の閻魔大王の坐像です。運慶派の仏師が造立した仏像として文京区指定有形文化財になっています。
閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴で、右側の目が濁っている原因として、伝説が伝わっています。 宝暦年間(1751〜1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたとのことです。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に供え続けたといわれています。 以来、眼病の治癒祈願に訪れる人が多く、別名「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」と呼ばれています。
夏目漱石の「こころ」、樋口一葉の「にごりえ」にも、こんにゃくえんまは登場しています。 毎年1月と7月には閻魔例大祭が行われます。 源覚寺を出て左折し、「えんま通り商店街」を200mほど進んだ交差点を左折すると、「すずらん通り」となります。 100mほど進むと「善光寺坂」です。 坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名としたとのことです。
えんま通り商店街
善光寺
善光寺は慶長7年(1602年)の創建で、傳通院の塔頭で、縁受院と称しました。 明治17年(1884年)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となりました。 したがって、善光寺坂の名称は、明治時代の新しい坂名です。 境内の南東側と南側の2つの山門があり、本堂は明治15年(1882年)の再建です。 境内工事中のため、南東側の山門は閉鎖されていました。
さらに「善光寺坂」を登った右手に「「慈眼院・沢蔵司稲荷」があります。 傳通院の学寮に、澤蔵司という修行僧がいましたが、僅か3年で浄土宗の奥義を極めました。元和6年(1620年)5月7日の夜、学寮長の極山和尚の夢枕にたち 「そもそも 余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが、永く当山(傳通院)を守護して、恩に報いよう」 と告げて、暁の雲に隠れたとのことです。
善光寺坂
慈眼院・沢蔵司稲荷
そこで、傳通院の住職は、澤蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当としました。 江戸時代から参詣する人が多く繁栄したとのことです。 傳通院の門前の蕎麦屋に澤蔵司はよく蕎麦を食べに行きました。彼が来た時には売る上げの中に必ず木の葉が入っていたので、主人は澤蔵司が稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝お初の蕎麦を備えていなりそばと称したとのことです。
慈眼院のすぐ前の善光寺坂に椋の老樹があり、澤蔵司がやどっているといわれています。 このため、道路拡張の時、道をふたまたにして避けて通るようにしました。 このため、道路の真ん中に椋の木が立っています。
慈眼院 霊窟
椋の老樹
傳通院山門
慈眼院から200mほど進んだ右手が「傳通院」です。 今回は傳通院の和尚さま及び清河八郎ご子孫齋藤わか奈様から、境内や墓域に関する詳しい説明を受けながら廻ることができました。 傳通院は、応永22年(1415年)、浄土宗第七祖了誉が開山したお寺です。 当時は小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。 それから約200年後の慶長7年(1602年)に、徳川家康公の生母於大の方が75歳で、伏見城で逝去し、その法名を「傳通院殿」と号し、寿経寺を菩提寺としたことから、「傳通院」と呼ばれるようになりました。 寺は江戸幕府から寺領約600石を与えられて、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、最高位紫衣を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となりました。 増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。境内には徳川氏ゆかりの女性や子供(男児)が多く埋葬されており、将軍家の帰依が厚かったとされています。 昭和20年(1945年)5月25日のアメリカ軍による空爆で、小石川一帯は焼け野原となり、傳通院も江戸時代から残っていた、山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失し、かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去ってしまいました。
不許葷酒入門内の石柱
傳通院山門は、三解脱門で平成24年建立の総檜造りです。江戸時代の中門(中雀門)です。 山門の左手前に、「不許葷酒入門内」の石柱があります。 葷酒山門に入るを許さず:肉や生臭い野菜を食べたり酒を飲んだりする者は修行に相応しくないので立ち入りを禁ずるの意です。
この石柱は、処静律院の前に立っていたものです。 処静律院は、文久3年(1864年)に、新撰組の前身となる浪士組が結成された場所で、山岡鉄舟、清河八郎を中心に近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が集まりました。 後に佐幕派の武士により住職は暗殺され、所静律院は廃寺となりました。
傳通院境内
傳通院本堂
法蔵地蔵尊・観音・勢至菩薩像
山門を入った左手にある、法蔵地蔵尊・観音・勢至菩薩像は、享保年間(1716年〜1735年)の銅像です。 本堂は昭和24年(1949年)に再建され、現在の本堂は昭和63年(1988年)に戦後2度目に再建されたもので、鉄筋コンクリート造りです。 本堂から山門を通して南を望む眺望は、愛知県岡崎城と大樹寺(徳川氏の菩提寺)を結ぶライン上にあるとのことです。
於大の方墓所
また、傳通院には開創以来600年に及ぶ長い歴史の側面を物語る著名な方々のお墓もあります。 今回案内していただいた墓域は次のとおりです。
千姫の墓所
孝子の方の墓所
於大の方の墓所(徳川家康の生母)、千姫の墓所(2代将軍・徳川秀忠の長女:本来の菩提寺は常総市富岡の弘経寺)、孝子の方の墓所(3代将軍・徳川家光の正室:鷹司孝子)が徳川家の墓域にあります。
柴田錬三郎・齋藤栄子夫人の墓
柴田錬三郎・齋藤栄子夫人(栄子夫人は清河八郎の妹・辰の孫です)。 澤 宣嘉(尊攘派の公卿。七公卿落ちの一人)。 藤井紋太夫(水戸家の重臣、水戸藩邸において光圀によって粛正される) 杉浦重剛(明治、大正にかけての教育家、思想家) 琳瑞和尚(処静律院院主、福田行誠の弟子。勤王僧としても活躍) 佐藤春夫・千代夫人(分骨。総本山知恩院・紀州勝浦竜蔵寺)
澤 宣嘉の墓
藤井紋太夫の墓
杉浦重剛の墓
琳瑞和尚の墓
佐藤春夫・千代夫人の墓
清河八郎・貞女お蓮の墓
清河八郎の墓
当山開山・中興・歴代上人墓
清河八郎・貞女お蓮(墓は元処静院にありましたが、後に改葬される) ジョセフ岡本三衛門供養碑(イタリア人宣教師。1685年キリシタン屋敷にて死去) 当山開山・中興・歴代上人墓
齋藤磯雄の墓
ジョセフ岡本三衛門供養碑
お奈津の方・家康公側室。 はじめは二条城奥女中。二条城で家康入浴中に刺客が潜入したが、お奈津の転機と機敏な対応により刺客は取り押さえられた。この殊勲により側室に取り立てられた。その後の女丈夫振りにより、重臣に伍して家康六人衆に数えられ家康を支えた。家康没後も、家光もよく補佐した。こうした功により側室として唯一傳通院の徳川家墓所に葬られている。
お奈津の方の墓
安藤坂
傳通院を出て南の方向に進み、「傳通院前」の交差点を過ぎると「安藤坂」になります。 「安藤坂」は、傳通院前から神田川に下る坂です。 江戸時代から幅広い坂道で、急坂でしたが、明治42年(1909年)に路面電車を通すにあたり緩やかにされました。 坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」と呼ばれていましたが、戦後になって「安藤坂」と呼ばれるようになりました。
「教育センター前」の交差点を横切り、30mほど進んだ丁字路を左折して100mほど進んだ「牛天神下」の交差点を左折し、最初の信号で道路を横断すると小石川後楽園の白壁です。 白壁に沿って200mほど進んだ左手が「小石川後楽園」の入り口です。
小石川後楽園の白壁
小石川後楽園
小石川後楽園・枝垂れ桜
小石川後楽園は水戸黄門ゆかりの大名庭園です。 江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の上屋敷の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。 庭園の様式は池を中心にした回遊式築山泉水庭園になっています。
光圀は作庭に際し、明の儒者である朱舜水の意見をとり入れ、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものとなっています。 また、各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。
小石川後楽園・梅林
小石川後楽園・円月橋
庭園の名前も、中国の「岳陽楼記」の中の「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」から「後楽園」と名付けられました。 小石川後楽園は小石川台地の先端にあり、神田上水の分流を引入れ築庭されました。 また、光圀の儒学思想の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。
小石川後楽園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。 特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮とここの二つだけです。 全国でも京都の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良の平城京左京三条二坊宮跡、厳島を合わせ7ヶ所だけだそうです。
小石川後楽園・藤田東湖の碑
小石川後楽園・内庭
小石川後楽園で史跡探訪は解散になり、引き続き希望者で懇親会が開催されました。 関連のホームページ 東京龍馬会 風来坊