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城下町小幡散策 その1 (H26.9.2)


上州福島駅



上州福島駅

JR東日本の「駅からハイキング」のイベント「織田宗家ゆかりの城下町小幡を歩く」に参加しました。

細部説明は「古い家並みと桜並木に沿ってゆったりと流れる雄川堰。往時の面影を残す武家屋敷から大名藩邸跡へとつづく中小路の散策はまるでタイムスリップしたかのように感じさせてくれます」となっています。



上州福島駅から甘楽町役場に向かう道路


コースの概要は次のとおりです。

上信電鉄上州福島駅甘楽町役場(受付)雄川堰・桜並木散策お休み処信州屋中小路(武家屋敷)国指定名勝・楽山園長岡今朝吉記念ギャラリー織田宗家7代の墓(崇福寺吹上の石樋長厳寺甘楽ふるさと館道の駅甘楽「甘楽町物産センター」こんにゃくパーク甘楽町役場(ゴール)上信電鉄上州福島駅


JA甘楽富岡 甘楽支所



城下町小幡

歩行距離約12.4Km、歩行時間約3時間30分(施設での見学時間を除く)、所要時間約4時間30分(施設での見学時間を含む)ということでしたが、楽山園、各資料館、こんにゃくパークを見学したことから、所要時間5時間、約21,500歩でした。

楽山園を散策したこと、こんにゃくパークの工場見学をしたことで、歩数が大幅に伸びました。


上信電鉄上州福島駅から前方にほぼ真っ直ぐに伸びる道路を道なりに1.7Kmほど進むと甘楽町役場です。

甘楽町役場で受付を済ませて、さらに700mほど進むと、「雄川堰・桜並木」です。

小幡の町中を流れる雄川堰は、いつ開削されたものかは不詳ですが、雄川堰用水取入口改修記念碑には「雄川は上古人創立する所と伝う」と刻まれ、藩政時代以前から存在していたと考えられています。


甘楽町役場



甘楽町散策案内図



案内図現在地からの撮影 道路の左が雄川堰(大堰)

雄川堰は、一級河川雄川から引き込んだ用水の中軸となる大堰と、この大堰から取水し陣屋内に廻らされた小堰からなっています。

建設当時の目的を示す史料も残されていませんが、大堰は古くから住民の生活用水、非常用水、下流の水田の灌漑用水として利用されてきました。


小堰は、陣屋内南東部の3カ所で大堰から取水し、陣屋内の生活用水や楽山園をはじめとする武家屋敷の庭園に利用されてきました。飲料水や生活用水として大切な堰だったため、3代藩主織田信昌は、御用水奉行を置き、厳重な管理に当たらせました。



桜並木と養蚕農家群の町並み 桜並木の左が雄川堰(大堰)



桜並木と養蚕農家群の町並み


大堰は大手門跡より約2.3Km上流に、雄川からの取水口が設けられており、そこから武家屋敷地区の東側を北へ流れ、途中二手に分流して再び大手門跡前で合流し、町屋地区の中央を流れています。

この大堰には、上流より一番口、二番口、三番口と呼ばれる3カ所の取水口が設けられており、武家屋敷地区を流れる小堰に分流しています。取水口はそれぞれ一升枡、五合枡、三合枡の大きさに造られ、各武家屋敷に均等に水が行き渡るような工夫がなされています。


養蚕農家群の町並み



養蚕農家群の町並み

町屋地区を流れる大堰の水路幅は1.2m〜1.7m、深さ(石積高)は1.1m〜1.7mで、大部分が自然石の矢羽積、または切石の亀石積となっています。大堰には現在でも41カ所に洗い場が設けられており、昭和40年代までは蚕を飼育する竹製の「蚕かご」等の養蚕道具の洗い場として利用されていました。

現在も日常的な農作物の食材洗い場などとして、また季節によっては中に里芋を入れて水力で皮をむく芋車と呼ぶ道具を設置したりして日常的に利用されています。


江戸時代初期より現在まで受け継がれている雄川堰は貴重な歴史遺産であり、日本名水百選、水の郷百選、疎水百選、土木遺産に選定されています。


町屋地区の町並み

小幡地区の町割りは、寛永19年(1642年)に3代目藩主の織田信昌が陣屋を小幡に移転した頃に形づくられました。

現在の歴史民俗資料館の位置に大手門があり、それより南側に武家屋敷、北側に町屋が形成されました。

町屋地区は、雄川堰沿いに平入りの町屋と妻入りの養蚕農家の建物が建ち並び、風情ある町並みを形成しています。養蚕農家の建物は、天窓設けた屋根に特徴があり、敷地は奥行きの長い短冊形となっています。


養蚕農家群の町並み



町屋地区の町並み



町屋地区の町並み

雄川堰の桜並木に平成25年4月に「お休み処 信州屋」がオープンしました。

信州屋は、明治時代後期に信州から移転してきた宮嶋九十の息子、仁三郎が建てた建物です。 蔵に普請帳が残されていたことから、明治38年に竣工したことが分かっています。

宮嶋は、小幡の地で呉服などを扱う商店、質屋として「信州屋」を創業しました。以降、薬や煙草、雑貨などを扱う商品を少しずつ変化させながら、地域の生活を支える商店として営業を続けました。


大正から昭和期に入ると信州屋では商店を営みながら養蚕も行うようになりました。信州屋には、この頃の炉や天窓の痕跡があります。

また、昭和初期には、母屋の隣に別棟で宮嶋商店が建てられ、当時としてはハイカラだった自転車が販売されていました。

往時のたたずまいを残したまま改修し、無料休憩所・観光案内所として信州屋が甦りました。


町屋地区の町並み



甘楽町歴史民俗資料館



甘楽町歴史民俗資料館

「お休み処信州屋」から100mほど進んだ右手が「歴史民俗資料館」です。

歴史民俗資料館の建物は、この地方の養蚕の最も盛んであった大正15年(1926年)に組合製糸小幡組の繭倉庫として造られたものです。

その後、農業会、農協に移管されて、穀物や肥料などの倉庫になっていましたが、昭和59年に町が買い受け、翌60年文化庁の指導によって歴史民俗資料館に改装しました。


小幡陣屋大手門の位置にある、このレンガ造りの建物は、養蚕最盛期を象徴する建物として、昭和61年町の重要文化財に指定されています。

館内には養蚕に関する資料や織田家臣録、円空が彫った仏像等が展示されています。

「歴史民俗資料館」から200mほど進んだ右手が「中小路(武家屋敷)」で、小幡藩の中枢といえる場所です。


甘楽町歴史民俗資料館



甘楽町歴史民俗資料館


甘楽町歴史民俗資料館



陣屋見取図



現在地から西方向(陣屋見取図では左方向)の展望



武家屋敷入り口の案内

小幡藩の成立まで
小幡氏は甘楽の地の国峯城を本拠にした豪族でした。

鎌倉時代よりその名が知られ、南北朝時代には関東管領上杉氏の重鎮として上州八家の一つ、また上州四宿老(長尾、大石、小幡、白倉)の一人として活躍しました。

天文15年(1546年)河越城の戦いで上杉憲政が敗れた後は、甲斐の武田信玄の幕下に加わり「上州の赤武者」として恐れられました。

武田氏滅亡後は織田軍に属しましたが、本能寺の変(1582年)以降は小田原北条氏の勢力下に入りました。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めで落城すると、甘楽の地を徳川家康に明け渡し、信州に逃れました。


天正18年(1590年)から慶長6年(1601年)までの11年間は、小幡領2万石として奥平信昌が領主となり、国峯城の枝城であった宮崎城(現富岡市)に入りました。奥平氏は長篠の戦い武功をあげ、家康の長女亀姫を夫人としました。
その後奥平氏は美濃加納(10万石)の城主となり、そのあとを水野忠清(後の松本藩主)、井伊直孝(後の彦根藩主)が、それぞれ1万石を領収しました。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅びると、戦国時代が終わり、徳川幕藩体制が成立し、天下は太平の世へと移っていきます。


織田氏による小幡藩の成立
元和元年(1615年)、天下を統一した徳川家康は、織田宗家を継いだ織田信長の次男信雄に大和国(奈良県)宇陀郡3万石と小幡2万石を与えました。翌年、信雄の四男信良が福島の仮陣屋に入り小幡藩政が開始されました。
寛永6年(1629年)3代信昌の時代に小幡への藩邸移転が計画され、地割、用水割、水道筋見立て等が実施されました。

小幡が選ばれた要因としては次が挙げられます。
〇 福島の仮陣屋では手狭となった
〇 小幡氏の重臣であった熊井戸氏の屋敷跡を利用した
〇 西側に雄川の切り立った高さ約20mの断崖を持つ要害の地であった
〇 雄川からの豊かな用水の確保が容易であった

着手から13年を経過した寛永19年(1642年)、福島の仮陣屋より小幡藩邸への移転が行われ、小幡は小幡藩の中心となりました。その後、4代信久、5代信就、6代信右、7代信富、8代信邦と、織田家小幡藩152年の歴史が続きます。


織田氏から松平氏へ
明和4年(1767年)小幡藩の内紛が表沙汰となった明和事件で、織田氏は出羽(現山形県)高畠へ移封されます。代わって藩主となったのが、親藩大名の松平忠常です。以降、小幡の地は松平氏の領有となり、4代約100年の当地が続き、明治維新を迎えます。



中小路 右側が柴田家の石垣



中小路


中小路

中小路は、大手門から小幡藩邸までの約700mの間の道路で、織田氏によって造られました。道路の幅は、往時は13m〜14mありました。

車のない時代にこのような広い道路を造ったのは、大変珍しいといわれ、織田氏の格式の高さがうかがわれます。

中小路という名称は、小幡陣屋の中心を占める道路ということですが、実態は小路どころか、中大路といってもよいほどの広い通りです。


中小路の石垣



中小路の石垣(松平家)

現存する中小路や御殿通りの石垣は、明和4年(1767年)の絵図に描かれていることから、明和以前に構築された石垣です。

おそらく小幡陣屋等の建設工事に合わせて構築されたと思われます。

柴田家の石垣はこの中小路の右側「北側」奥の石垣で、東西方向に44.2m築かれています。寛永19年(1642年)に構築されたと思われる石垣です。



中小路の石垣(山田家)



御殿前通りの石垣(山田家)


食い違い郭

喰い違い郭は、山田家主屋の東南側、中小路に面して構築され、中小路の石垣の一部となっており、戦時の防衛上のために造られたとみられています。また、下級武士が上級武士に出会うのを避けるために隠れたともいわれています。

石垣は、20×30cm程度の石を矢羽積みとし、石垣最上段を30×50cm前後の大きな石で押さえています。石材は一級河川雄川の緑色片岩が用いられています。

喰い違い郭とともに、中小路・御殿通りの石垣も町の重要文化財に指定されています。


山田家の喰い違い郭



御殿前通り



御殿前通り

武家屋敷地区の街並み

大手門より南の武家屋敷地区には、勘定奉行を務めた高橋家や江戸時代後期に建てられた松浦家等、武家屋敷の建物や庭園が今に残されています。

高橋家の庭は織田氏が京都から当時の一流庭師を呼んで造らせたもので、庭の中央にある心字池には雄川堰(小堰)の水が引き込まれています。

小幡藩主が通った道幅14mの中小路や、戦の際の防衛のために造られた喰い違い郭などからも、武家屋敷の佇まいを感じることができます。



高橋家住宅


高橋家住宅

小幡の武家屋敷の中でも、昔の様子を最も残しているのが、小幡藩勘定奉行「高橋家」の屋敷と庭園です。

心字池を中心にした庭園には、蓬莱の滝が昔のままにさわやかな音をたてています。


高橋家住宅



松平家大奥



松平家大奥

松平家大奥

大奥といっても2万石の小幡では、奥方と何人かの腰元だけでした。

したがって、松平家大奥には、奥方と何人かの腰元が住んでいたといわれています。

松平家大奥の庭園は江戸後期に造られ、静の庭(流れのない池)と言われる大奥にふさわしい落ち着いた雰囲気の庭園となっています。

幕末、ペリーが浦賀に来航した際、将軍が江戸城大奥の女官達15〜16人を親藩である小幡藩のこの屋敷に疎開させたと伝えられています。



楽山園



楽山園


中小路から御殿通りへと進むと「楽山園」です。

「楽山園」は、江戸時代初期に織田氏によって造られた小幡藩邸の庭園です。

池泉回遊式の借景庭園で、「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園と位置付けられ、京都の桂離宮と同じ特色があります。


楽山園



楽山園



楽山園



楽山園

景石の置かれた池を中心として、中島や築山を築いて起伏のある地形を造り出し、梅の茶屋や五角形の形状をした腰掛茶屋など複数の茶屋を配し、それらを巡る園路にも工夫を凝らしています。

借景庭園としても秀逸で、庭園の西側にある雄川をはさんで紅葉山、南方の連石山、熊倉山などの山並を借景として取り込み、豊かな広がりを演出している空間構成は、庭園美の極みといえます。



楽山園



楽山園


さらに、複数の茶屋を配していることから、「織田氏と茶事」との関連も深くうかがうことができ、歴史的・文化的にも高い価値がある庭園です。

楽山園という名前は、「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」という論語の故事から名付けられたと言われています。


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        風来坊


楽山園


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