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小田原城 (H23.6.23)


小田原城天守閣



小田原城天守閣

小田原城は、戦国時代から江戸時代にかけては北条氏の本拠地として、江戸時代は箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、重要な役割を担ってきました。

しかしながら、明治3年(1870年)小田原城は廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923年)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。


現在は、貴重な文化的遺産である小田原城跡を長く後世に伝えていくことを目的として、本格的な史跡整備が進められています。

本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960年)に天守閣が復興、昭和46年(1971年)に常磐木門、平成9年(1997年)に銅門、平成21年(2009年)に馬出門が復元されています。


小田原城天守閣



天守閣から相模湾の展望



天守閣から北東方向の展望

天守閣

元禄16年(1703年)の大地震で、小田原城のほとんどの建物が倒壊、焼失しましたが、天守閣は宝永3年(1960年)に再建され、明治3年(1870年)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていました。


現在の天守閣は、昭和35年(1960年)に、小田原市制20周年記念行事として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したものです。

内部は、内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっています。

また、標高約60mの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。


天守閣から南東方向の展望



常磐木門

常磐木門

本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。

元禄16年(1703年)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多門櫓と渡櫓から構成される枡形門形式で再建されたものが、小田原城廃城まで姿をとどめていました。

現在の常盤木門は、小田原市制30周年事業として再建したもので、昭和46年(1971年)に完成したものです。



銅門


銅門

銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治5年に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。

当時は、馬出門土橋から城内に入り、銅門を通って二の丸御屋形や本丸、天守閣へと進むようになっていました。

銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来しています。


銅門



銅門

現在の銅門は、昭和58年(1983年)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年(1997年)に復元されたものです。

石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されています。



馬出門


馬出門

馬出門は、二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期から現在の場所にあり、寛文12年(1672年)に桝形形式の門に改修され、江戸時代の終わりまで存続しました。

馬出門は、馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を石垣と土塀で四角に囲んだ「桝形形式」の門で、二つの門には、控柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門形式」の門です。

平成21年(2009年)に総工費5億円余で復元されました。


馬出門



銅門 土塀模型

小田原城歴史見聞館

小田原城の始まりから、現在に至るまでの歴史を、模型や映像で分かりやすく展示してあります。

「北条五代ゾーン」「江戸時代ゾーン」「小田原情報ゾーン」に区分されており、それぞれの時代を楽しく学べるように工夫されています。
入館料は200円です。


報徳二宮神社


報徳二宮神社


二宮金次郎は、江戸時代の天明7年(1787年)に小田原で生まれ、幼少の頃から数々の苦難を乗り越えながら、独学で学問を習得しました。

大人になった二宮尊徳は、生涯を世の中のためにささげ、大名旗本等の財政再建と領民救済、北関東から東北にかける各藩の農村総合的復興事業(仕法)を行い素晴らしい成果をあげました。

大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、二宮尊徳が仕法を手がけた村々は600ヶ村以上に上るとのことです。

多くの農村や藩を貧困から救い、独自の思想と実践主義で人々の幸福を追求し、数理、土木建築技術から文学まであらゆる才能を発揮した世界に誇れる偉人です。


二宮金次郎像



報徳二宮神社

報徳二宮神社は、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に明治27年(1894年)に創建されました。


拝殿礎石には、天保の大飢餓の際、藩主大久保公の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手にわたったことにより、小田原11万石の領内から一人も餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられています。


二宮尊徳翁



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     風来坊


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