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横浜散歩No3:横浜道を訪ねて その1 (H22.9.21)


横浜市西区の歴史街道(横浜市西区のホームページから借用)


横浜市西区は、臨海部にみなとみらい地区が広がり、開発が進む新しい街がある一方で、日本の開国、文明開化に深い関係を持つ場所として、歴史をはぐくんできた昔ながらの地域です。

西区には、三つの古道、旧東海道、横浜道、保土ケ谷道が三角形をかたどるように通っています。そして、その周辺には歴史や文化資源が数多く残っています。

今回は横浜道(よこはまみち)を散策しました。



横浜道(横浜市西区のホームページから借用)


安政5年(1858年)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、翌年6月に開港し、横浜村(現在の関内地区)に開港場が開かれました。

その時、東海道と開港場を結ぶために作られたのが「横浜道」で、初めは「しんみち」と呼ばれていました。

東海道筋の芝生村(現在の浅間交差点近くの薬局横)から、湿地帯だった岡野・平沼の新田を埋め立て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間(あらたま)、平沼、石崎(現・敷島橋)の3つの橋を架けました。併せて戸部から野毛山に切り通しを開き、野毛橋(現・都橋)、大田橋(現・吉田橋)を架けて開港場に至っていました。

記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同程度であったものと考えられています。

新開地横浜への主要道路として大いに賑わい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、現在では住時の面影をわずかにとどめるのみとなっています。



飛び石サイン(歩道用)


西区では平成14年度に西区観光協会、町内会・自治会、商店街、西区郷土史研究会などの代表者からなる「歴史と文化を活かしたまちづくり推進委員会」を立ち上げ、3つの古道沿いに案内サインを整備する計画を進めてきました。

そして、現在では「総合案内サイン」「解説サイン」「方向サイン」「飛び石サイン(歩道用)」が設置されています。



「飛び石サイン(歩道用)」は直径10cmのマークで、およそ50〜75m間隔で路面上に設置し、街道の道筋を示しています。


この他に同じデザインで直径30cmの四角形の飛び石サインもあります

街道で飛び石サインの色が異なりますが、横浜道は開港場への道、世界、未来へ続く道を海や若々しさを感じるあい色で表現しています。


飛び石サイン(歩道用)



鶴屋町3丁目から環状1号線を望む


コースの概要は次のとおりです。


横浜駅西口→鶴屋橋3丁目→環状1号線→横浜道出発点(浅間下交差点の傍)→新田間橋→元平沼橋→平沼商店街→敷島橋→戸部商店街→岩亀横丁→掃部山公園→横浜能楽堂→神奈川奉行所跡→伊勢山皇大神宮→成田山横浜別院延命院→亀甲積みの擁壁→野毛山公園→野毛坂通り・野毛大通り→野毛橋(現都橋)→吉田町商店街→吉田橋→関内駅



横浜駅西口からバスターミナルを左手に見て進み、ヨドバシカメラの前を通り、高速道路の下を抜けると鶴屋町3丁目の交差点です。

この交差点を左折し、環状1号線に沿って約300m進むと高速道路と交差します。

高速道路の入口のため横断歩道はなく、陸橋で交差点を渡ることになります。


高速道路入口のため歩道は途切れ陸橋で渡る



浅間下交差点の派出所


高速道路入口を過ぎて400m程進むと浅間下の交差点です。


大きな交差点で、環状1号線と新横浜道とが交差しており、右手前方にレンガ造りの派出所(交番)があります。

浅間下交差点のひとつ手前の道(約30m手前)が横浜道の出発点です。



横浜道の入口に「横浜道の総合案内板」が立っています。

地図が簡単すぎて大丈夫かなという感じになります。

この道を100m程進むと新横浜通りに合流します。

新横浜道に合流して100m程進むと「新田間橋」です。



新田間橋から横浜駅方向を望む


江戸以前には新田間橋付近は入り江でしたが、明治にかけて埋め立てた際に川として残されたのが新田間川です。

横浜道の最初の橋です。

現在の橋は、昭和2年(1927年)に建造された鋼鈑桁橋です。



新田間橋から新横浜通りを200m程進むと「岡野交差点」です。


この交差点を左折すると横浜駅西口まで一本道です。

岡野交差点の前方に大きな橋が見え、その先にはランドマークタワーが聳え立っています。


新田間橋から保土ヶ谷方向を望む



岡野交差点から平沼橋を望む 前方にはランドマークタワーも!



右側の側道が横浜道


岡野交差点から100m程進むと新横浜通りは上り坂になり、その右側に平坦な側道があります。

この側道が横浜道です。

側道を300m程進むと元平沼橋があり、元平沼橋を渡るとJR東海道本線にぶつかり、傍に横浜道に関する案内板が建っています。



平沼橋は旧東海道と開港場横浜村とを最短距離で結ぶ横浜道の第2番目の橋です。

帷子川に架かる小さな橋がもともとの「平沼橋」です。

長さ35間、幅3間の橋です。

横浜道に平行して道幅の広い新横浜通りができ、平沼橋のすぐ上に大きな橋が架けられ「平沼橋」と命名されたため、古い橋は「元平沼橋」と改称されました。


橋の先はJR線路 その向こう側に平沼商店街



横浜道に関する案内板


元平沼橋(下側)と平沼橋



平沼橋



平沼橋から元平沼橋、雉子川を望む


このあたり一帯は、新田地帯で明治30年代までは、たくさんの塩田があったとされています。


横浜道はJR東海道線で遮断されているため、エレベーターまたは階段で上の大きな平沼橋に上ることになります。



平沼橋を渡った後、再度エレベーターまたは階段で下りることにより、JR東海道線の反対側の横浜道に戻ることができます。

この場所にも横浜道に関する案内板が建っています。

また、この場所は平沼商店街の入口です。


平沼商店街側の案内板



平沼商店街


平沼商店街に沿って進み、京浜急行のガードを潜ったところが「平沼1丁目」の交差点のです。


この交差点の左手前にあるのが、「つけ天そば」で有名な「角平」です。

創業は昭25年で、おそばを愛する初代が研究を重ね、当店一番人気の「つけ天そば」が生まれたとのことです。



信号を渡り200m程進んだところが、「敷島橋」です。


横浜道の建設の際は、石崎川に架かる橋ということで石崎橋と名付けられたようです。

現在の橋は昭和5年(1930年)建造で、震災復興橋梁です。

石橋川の左岸には「石崎川プロムナード」が設けられています。


「つけ天そば」の「角平」



敷島橋 前方が桜橋商店街


平沼商店街は敷島橋までで、その先は「桜橋商店街」となります。

桜橋商店街を100m程進むと「戸部7丁目の交差点」で、東海道(国道1号線)と交差します。

東海道を横切ると戸部商店街で、商店街に沿って400m程進んだところが「戸部4丁目」の信号です。

横浜道はそのまま真っ直ぐ進むことになりますが、今回は近傍の史跡を訪ねるため、戸部4丁目の信号を左折して岩亀横丁に入ります。



敷島橋と平沼商店街


岩亀横丁にはいると前方にランドマークタワーが聳え立っています。

4つ目の筋を右に入ったところが、掃部山(かもんやま)公園です。


岩亀横丁



井伊直弼の銅像



井伊家から寄付された噴水


掃部山公園になっている土地は、明治初期の鉄道建設に携わったエドモンド・モレルなどの鉄道技師の宿舎が建てられていたほか、ここの地下から湧く水を蒸気機関車の給水に利用していたことから、鉄道山と呼ばれていました。



明治17年(1884年)に旧彦根藩士が買い取って井伊家の所有となり、明治42年(1909年)横浜開港50周年記念に井伊直弼の銅像が建立されました。

以後、直弼の官位である掃部頭(かもんのかみ)から、掃部山(かもんやま)と呼ぶようになりました。



横浜能楽堂


大正3年(1914年)に井伊家から横浜市に寄贈され、掃部山公園として整備・公開されました。


当初の銅像は、昭和18年(1943年)に第2次世界大戦の金属回収によって撤去され、現銅像は昭和29年(1954年)に開港100周年を記念して横浜市が再建したものです。

銅像の近くにある噴水は井伊家から寄付されたものです。



園内には約200本の桜が植えられ、平成8年(1996年)には公園の一角に横浜能楽堂が建設されました。

能舞台は、明治8年(1875年)に東京・根岸の前田斉泰邸に建てられ、東京・染井の松平頼寿邸に移築された「旧染井能舞台」で、関東地方では最古の能舞台です。

井伊直弼が愛好した能にちなみ「かもんやま薪能」として演じられてきたとのことです。


横浜能楽堂



前方右側が神奈川奉行所跡


横浜能楽堂から掃部山公園の方に戻り、三叉路を右折すると真っ直ぐに延びた道があります。

200
m程進んだ丁字路を右折し、30m程進むと右手が青少年センターです。

県立図書館・音楽堂・青少年センターなどがある県文化センター一帯は、横浜開港に備えて開かれた神奈川奉行所の跡です。



横浜開港直後の安政6年(1859年)6月4日に開設され、前年7月から開港準備を担当してきた水野筑後守ら5人の外国奉行全員が当初の神奈川奉行を兼任し、輪番で横浜黎明期の行政事務を処理していました。


奉行所は、ここ戸部役所と横浜運上所(現在の中区)にあり、戸部役所は貢租徴収、検察裁判などの内政事務を、横浜運上所は外交事務を行っていました。


神奈川奉行所跡



金星太陽面経過観測記念碑


翌年の万治元年(1860年)に神奈川奉行は専任となり、松平康直・都筑峰暉が任命されました。

明治元年(1868年)、明治政府は神奈川裁判所を置きましたが、これを2つに分けて横浜裁判所、戸部裁判所として、運上所並びに戸部役所の業務を引き継ぎ、神奈川奉行所は廃止されました。

その後、明治3年、神奈川県庁と改称されています。



神奈川奉行所跡の隣りに金星太陽面経過観測記念碑があります。

金星が太陽の前面を通過するという珍しい現象(日面経過)が明治7年(1874年)12月9日に起きました。

日本はこの観測の最適地であったため世界各国から大勢の天文学者が渡来し、横浜、神戸、長崎などに大規模な観測陣がしかれ、横浜では、コバルビアスを隊長とするメキシコ隊が、宮崎町に観天場を設け観測に当たったとのことです。


県立図書館



音楽堂


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 横浜道




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        風来坊


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