安政5年(1858年)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、翌年6月に開港し、横浜村(現在の関内地区)に開港場が開かれました。
その時、東海道と開港場を結ぶために作られたのが「横浜道」で、初めは「しんみち」と呼ばれていました。
東海道筋の芝生村(現在の浅間交差点近くの薬局横)から、湿地帯だった岡野・平沼の新田を埋め立て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間(あらたま)、平沼、石崎(現・敷島橋)の3つの橋を架けました。併せて戸部から野毛山に切り通しを開き、野毛橋(現・都橋)、大田橋(現・吉田橋)を架けて開港場に至っていました。
記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同程度であったものと考えられています。
新開地横浜への主要道路として大いに賑わい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、現在では住時の面影をわずかにとどめるのみとなっています。
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