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伊勢山皇大神宮
伊勢山皇大神宮裏参道
神奈川奉行跡から青少年センターなどの県文化センターを右に見て進み、最初の四叉路を左折すると前方が伊勢山皇大神宮の裏参道入口です。 伊勢山皇大神宮は天照皇大神を祭神とし、横浜の総鎮守とされ、「関東のお伊勢さん」として知られています。
明治3年(1870年)、一寒村であった横浜が開港場となり、貿易の街として急速に発展しました。 神奈川県はキリスト教を始めとする外来文化に接する横浜の精神的支柱とするために神社信仰の確立が必要と考えました。
伊勢山皇大神宮表参道
そのため、戸部村東部の伊勢山(現在の掃部山公園東北端辺り)にあった大神宮を明治3年(1870年)4月に現在地の野毛山に遷座し、同年11月神奈川県知事井関盛良が「当社を伊勢神宮の遙拝所とし、県内の総社たる規模に整備する」という建白書を提出して、翌月許可されました。 これにより所在地は伊勢山と呼ばれるようになりました。
成田山横浜別院延命院
伊勢山皇大神宮の表参道の石段を下りて、そのまま道路を横切って狭い路地を入って100m程進むと成田山横浜別院延命院です。 明治3年(1870年)本山成田山新勝寺より分霊を勧請して、現中区太田町の普門院境内に遙拝所を設立したことに始まりました。 明治9年(1876年)高島嘉右衛門から敷地の寄進を受け現在地に移り、成田山教会と改めました。
その後、明治26年(1893年)に本山塔中より寺号を転じて、延命院と称し成田山横浜別院となりました。通称野毛山不動尊とも呼ばれています。 当院のご本尊不動明王は、もと徳川家の秘蔵仏でしたが、元禄年間成田山へ徳川家より累代祈願を懇願された時賜ったもので理源大師の御作といわれています。
亀甲石積擁壁
成田山横浜別院延命院から伊勢山皇大神宮とは反対方向に狭い下り坂の路地を100m程進むと横浜根岸道路に出ます。 「戸部4丁目」の信号から真っ直ぐ進むとこの道路となり、横浜道に合流です。 すぐ左手にあるのが「野毛坂交差点」です。 横浜道はこの信号を左折することになりますが、右手の野毛山公園に寄り道です。
野毛山に向かって野毛山交差点の右側にあるのが、「野毛山住宅亀甲積擁壁」です。 この擁壁は幕末から明治期の実業家で横浜在住の豪商平沼専蔵邸の石積擁壁です。 その上部に煉瓦塀があります。 亀甲石積の施行精度は、市内随一といわれており、煉瓦塀とともに横浜市認定の歴史的建造物になっています。
煉瓦塀
石積擁壁に沿って野毛山公園の方に進むと、亀甲積擁壁の上部が煉瓦塀になっています。 亀甲積擁壁と煉瓦塀は明治23年(1890年)から明治26年(1893年)の間に、建築されたものです。 敷地内は共同住宅になっており、中に立ち入ることができませんが、当時の大庭園を偲ぶ大きな石燈籠などを煉瓦塀の内側に確認することができます。
亀甲石積擁壁と煉瓦塀
1859年に横浜港が開港すると、開港場よりも東に外国人が居住、西の野毛山は日本人の豪商たちの住宅地となり、原善三郎や茂木惣兵衛らの邸宅が建てられました。 動物園を含む野毛山公園は、かつての豪商の屋敷跡です。 野毛山公園には約380本の桜の木があり、春は多くの花見客で賑わいます。
野毛山公園に入り坂を上っていくと中村汀女の句碑があります。 中村汀女は昭和期の著名な女流俳人です。 18歳の時に詠んだ句で認められますが、結婚で創作活動を中止し、夫が横浜税関長になった昭和5年(1930年)に横浜に移り住んでから、創作活動を再開します。 高浜虚子に師事し、昭和9年(1934年)「ホトトギス」の同人となって頭角を現します。 戦後「花風」を創刊主宰、後の女流俳人に大きな影響を与えました。
中村汀女の句碑
佐久間象山顕彰碑
さらに坂を上ったところに佐久間象山顕彰碑があります。 佐久間象山は幕末の兵学・洋学者で、黒船事件以前から開国を唱えていた開国論者です。 幕府の下田開港の噂を聞き、これを批判、横浜開港に奔走しました。 新しい日本の建設に力を尽くしましたが、明治維新を見ることなく元治元年(1864年)京都で亡くなりました。 昭和29年(1954年)開国100年記念として、野毛山公園に顕彰碑が建てられました。
野毛山公園の吊り橋
佐久間象山顕彰碑の左手の坂を下って道路に戻り、交差点を渡って100m程進むと右手が野毛山動物園です。 野毛山動物園は昭和26年(1951年)に開園した動物園で、ライオン、キリン、白熊、象、日本猿など人気の高い動物を多数保有しており、いないのはジャイアントパンダぐらいだといわれていました。 その上、入園料無料のため休日には多くの環境客で賑わっていました。
野毛山動物園
リンゴを手に持って食べているレッサーパンダ
ズーラシア動物園の開園に伴い、多くの動物がズーラシア動物園に移されており、以前に比べると小規模になっています。 それでも100種類以上の動物を保有しています。 野毛山動物園は動物との距離が近く、動物の体のつくりや動きを細かいところまで観察できます。 すぐ傍でレッサーパンダが餌のリンゴを食べるところを見ることができました。
レッサーパンダ
野毛山配水池
野毛山動物園の入口横から吊り橋を渡ると左手に野毛山配水池があります。 開港以来、水不足に悩まされていた横浜に、明治20年(1887年)に日本最初の近代水道が創設され、野毛山に最初の浄水場が完成しました。 相模原市津久井町で取水された水は、野毛山浄水場まで約44キロを運ばれました。 浄水場は関東大震災で壊滅し、現在は最初の浄水場の姿は見ることができません。
大正15年(1926年)に浄水場跡地が公園として整備され、地下に1万立方メートルの野毛山配水池が完成しました。 さらに昭和42年(1967年)には水の需要に対応して4万立方メートルの配水池が新たに整備されました。 現在、西区全域と中区・南区の一部の地域にここから水が送られています。
配水池の傍らには、日本近代水道の創設者として知られるパーマーの胸像があります。 パーマーは横浜水道創設の際、顧問工場長として設計と工事の監督に携わりました。 横浜築港工事などの港湾工事でも業績を残し、大阪、神戸、函館、東京の水道計画にも貢献したといわれています。 この碑は横浜水道創設100周年を記念して、昭和62年(1987年)に建立されたものです。
パーマーの胸像
野毛山公園
パーマーの胸像の傍らを抜けると開放的な雰囲気の広場になっています。 芝生の部分や植え込みなどは幾何学的に配置され、整然として端正な美しさを持っています。 高台に位置しているだけあって周囲に視界が開けており、東側の隅に設けられた展望台からは港方面の眺望を楽しむことができます。 展望台は工事中で素晴らしい景色をお届けできません。
展望台の傍にオリンピック記念碑があります。 昭和39年(1964年)開催された東京オリンピックにおいて、横浜市ではサッカー、バレーボール、バスケット(予選)の3種目が三ツ沢競技場で行われました。 オリンピック記念碑は、このことを記念して昭和41年(1966年)に設置されたものです。
オリンピック記念碑
野毛坂交差点 野毛山公園側から野毛坂通りを望む
野毛坂通り
動物園通りと野毛坂通り公園
野毛山公園から坂道を下り、野毛坂交差点を渡ると「野毛坂通り」です。 野毛坂通りを50m程進むと左手に「動物園通り」があり、その傍の「野毛坂通り公園」に、日本近代水道最古の水道管の記念碑が設置されています。
明治20年(1887年)に日本最初の近代水道が横浜に誕生し、野毛山貯水場に運ばれた水は、浄水され、市内に給水されました。 野毛山の地下には、当時のイギリス製水道管が埋設されていて、現在でも働き続けています。 イギリス製水道管(口径18インチ)を利用して造られた記念碑は、パーマーを始め、多くの先人達の偉業を偲んで建立されたものです。
水道管の記念碑
野毛3丁目交差点
野毛坂通り公園を左手に見て、下り坂を真っ直ぐ進み、「野毛3丁目交差点」で駅前通りを横切ると「野毛大通り」となります。 そのまま「野毛大通り」を真っ直ぐ進むと大岡川に架かる「野毛橋(現在の都橋)」です。 横浜港開港当時は、野毛から関内の間は内海があり、横浜道は埋め立てにより整備され、その時に架けられたのが野毛橋と吉田橋です。
野毛橋は当初は木橋でしたが、交通量が多く損傷したため、明治15年(1882年)に鉄の橋に建て替えられました。 吉田橋に続く2番目の鉄の橋です。 現在の橋は、昭和3年に建て替えられたものです。
野毛大通り
都橋(旧野毛橋)
都橋のたもとにあるのが都橋商店街です。 商店街といっても八百屋、肉屋、雑貨屋などがあるのではなく、2階建ての飲食店ビルです。 この付近は露天商の多かったところで、昭和39年(1964年)東京オリンピック開催に伴い、野毛本通りの街並みを美しくするために、露店、屋台を収納して出来たのが都橋商店街です。
都橋から宮川橋までの大岡川の緩やかなカーブに沿って建てられた長屋風の飲み屋街で、「ハーモニカ横丁」の愛称でも親しまれています。 夕闇があたりに迫る頃にポツリポツリとネオンの光が川面に映り、小さな居酒屋が小さな空間で風情のある安らぎの場を提供しています。 1フロア30軒で、それぞれ個性のある60軒の店舗があります。
都橋商店街
吉田町商店街
都橋を過ぎると吉田町商店街となります。 道なりに進んでいくと左側の大きな道路と合流します。 合流点の左手が横浜道の終着点の吉田橋で、右手が伊勢佐木町の入口です。
吉田橋 前方はJR根岸線 ガードを潜ると馬車道
吉田橋は、日本最初の無橋脚鉄橋です。 横浜道整備のために作られた当初は木製の橋でした。 しかし、新興都市横浜の交通の中心だったためにすぐに損傷し、明治2年(1869年)に鉄橋に生まれ変わりました。
伊勢佐木町入口
日本人にとって鉄製の橋は珍しく、人々はこれを「カネの橋」と呼び、横浜名物のひとつとなりました。 吉田橋を渡る時に、番所で橋銭という通行料を支払わなければならなかったのも「カネの橋」の由来のひとつのようです。 「カネの橋」は明治44年(1911年)に鉄筋コンクリート製になりました。
「カネの橋」の名残?
横浜道はこの吉田橋までです。 吉田橋を渡ると馬車道です。 馬車道は吉田橋から本町通りに至る間の道路で、見所も多く別途紹介します。
馬車道
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