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東京散歩No5:世田谷線沿線散策(宮の坂〜三軒茶屋)その1(H22.9.14)


世田谷八幡宮



世田谷八幡宮

豪徳寺周辺には幕末から近代にかけての時代を物語る史跡が点在しています。

幕末の混沌を生きた相反する二人の時代の証人が眠る緑豊かな散策エリアでもあります。

東急世田谷線宮の坂駅から三軒茶屋までの世田谷線沿線の史跡を巡りながら散策しました。


コースは次のとおりです。

東急世田谷線宮の坂駅→世田谷八幡宮→勝光院→豪徳寺→世田谷城址公園→世田谷代官屋敷→松陰神社→駒留八幡神社→三軒茶屋(大山道道標)→キャロットタワー→教学院(目青不動)→円泉寺(太子堂)→林芙美子旧居→三軒茶屋駅


世田谷八幡宮



世田谷八幡宮

東急世田谷線宮の坂駅から豪徳寺と反対方向(西方向)に50m程進んだ右手が世田谷八幡宮です。

世田谷八幡宮は、寛治5年(1091年)後三年の役(1083年〜87年)の帰途、源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、天気回復を待つため滞在することとなり、今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の御加護に依るものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の御分霊をこの地に勧請しお祀りしたのが始まりです。


その後、天文5年(1546年)に世田谷城主7代目の吉良頼康が社殿を再興し、以降は世田谷吉良氏の氏神となりました。

明治5年(1872年)郷社に列し、社号を宇佐神社と改めましたが、第2次世界大戦後、世田谷神社の名前に復しています。

文化10年(1813年)建造の本殿が、昭和39年(1964年)に建てられた現在の社殿内に納められています。

勝運・開運の神様です。


世田谷八幡宮の土俵



世田谷八幡宮・厳島神社

昔は奉納相撲の勝敗によって来年の豊作・凶作を占ったり、今年の豊年を感謝したため、境内には土俵や力石があります。

現在でも、秋の例祭(9月15日)には東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われています。


東急世田谷線宮の坂駅の駅名は、この神社脇にある宮の坂に由来しています。



勝光院


世田谷八幡神社から宮の坂駅方向に戻り、駅の手前の「宮坂駅前」の信号を右折して200m程進むと五叉路があります。

この五叉路を斜め右方向に100m程進んだ右手が勝光院です。

勝光院



勝光院

曹洞宗の勝光院は、延命山と号し、建武2年(1335年)に建長寺の吟峰竜公禅師が開山、世田谷城主吉良治家が開基となり、臨済宗金谿山竜凰寺として創建しました。

天正元年(1573年)吉良頼康の子氏朝が小机村(横浜市港北区)雲松院の住持天永琳達禅師を招き、父頼康の院号より興善山勝光院と改称の上曹洞宗に改めました。

天正19年(1591年)には徳川家康から寺領30石が与えられています。


吉良氏は三河国吉良荘から起こった源氏の足利市の支士族であり、世田谷吉良氏はさらにその庶流です。

14世紀後半の南北朝時代に、鎌倉幕府を支えるため、現在の豪徳寺境内を含めた世田谷の台地に居館を構えたと伝えられています。


勝光院



勝光院

室町・戦国期には吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り、世田谷地域を支配し、「世田谷御所様」と呼ばれていました。

16世紀の頼康・氏朝の代には小田原後北条氏と姻戚を結ぶなどの関係にありました。



吉良氏墓所


天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、8代吉良氏朝が世田谷城を明け渡し、続く徳川家康の関東入国以後は、上総の国に領地を移され、以後吉良氏は旗本として幕末まで存続しましたが、その間も勝光院は吉良氏の菩提寺でした。

勝光院境内の吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇以降の一族の墓が所在しています。

全28基と墓所内の隅に集積された墓塔が十数基あります。


吉良氏墓所



吉良氏墓所

「忠臣蔵」で有名な吉良上野介も、有識故実に通じた「高家」として徳川幕府に使えていた足利の名門で、世田谷吉良氏とは同族になります。



豪徳寺本殿


勝光院から五叉路に戻り、世田谷線の踏切を渡って道なりに200m程進んだところが、豪徳寺参道入口です。

豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480年)になくなった叔母で頼高の娘である弘徳院のために城内に創建した小庵で、弘徳院と称したと伝えられています。

当初は臨済宗に属していましたが、天正12年(1584年)に曹洞宗に転じています。


豪徳寺参道



豪徳寺山門

豪徳寺は彦根藩主井伊家の墓所となっていますが、次のような経緯があります。

井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川家の配下にありました。

井伊家24世とされる直政は天正3年(1575年)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)の関が原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献しました。



豪徳寺三重塔


豪徳寺鐘楼


合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築きました。

続く2代直孝も大阪夏の陣で功績を挙げ、近江国、下野国、武蔵国世田谷に併せて30万石を有する譜代大名の筆頭格となりました。

以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍を近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与しました。


豪徳寺仏殿



招福猫児奉納所



豪徳寺招猫殿

寛永10年(1633年)頃、世田谷が井伊家の所領となったのを機に、領地視察に訪れた2代藩主井伊直孝が、山門前に通りかかったところ、一匹の猫に招かれて中に入ると、さっきまで自分と供たちが居た場所に雷が落ちました。

このことはきっかけで和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に弘徳院を井伊家の菩提寺に取り立てられたといわれています。


これが招き猫発祥と言われ、豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置いています。

招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されています。

ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫です。


招福猫児奉納所



井伊家墓所



井伊家墓所全体図



2代藩主直孝の墓

直孝の没後には、その法号にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られました。

墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代井伊直弼の墓があります。

直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(直孝長女)墓がその中央西側に位置しています。


彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(彦根市)、永源寺(東近江市)の3ヶ所にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅されています。

角墓所は、将軍家側近であった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、3ヶ所一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20年3月28日、国史跡に指定されました。


13代井伊直弼の墓 新たに扉が



桜田門殉難8士の碑

世田谷城址公園

豪徳寺から宮の坂駅と反対方向に100mほど行ったところが、世田谷城址公園です。

世田谷城は、初代吉良氏が南北朝の頃、関東管領・足利基氏から、戦の手柄により武蔵国世田谷領をもらいうけて築城したのが始まりとされています。

以後、吉良氏八代、二百数十年の間、居城として栄え、吉良御所、世田谷御所と呼ばれました。


吉良氏は関東に北条氏が台頭してくると、これと姻戚関係を結び、その庇護の下に入りますが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻攻略により、北条氏と親戚関係にあった吉良氏も運命をともにし、世田谷城も廃城となりました。

その後、徳川家康が江戸に入ると、世田谷城の石垣は江戸城改修のために再利用されたとのことです。


世田谷城址公園



世田谷城址公園

世田谷城は武蔵野台地の一角、経堂台地から南に突き出た舌状台地の先端に立地し、西・南・東の3面に烏山川が蛇行して、天然の堀を形成していました。

豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられています。

公園内には、昔のおもかげを残す土塁や丘、谷があり、樹木に覆われた自然豊かな公園です。さぎ草の伝説の主人公「常盤姫」もここに住んでいたとのことです。


世田谷城址公園の信号を右折し、道なりに進むと「城山通り」となります。

世田谷城址公園から約300mで東急世田谷線上町駅です。


城山通り 手前は世田谷線 左が上町駅



案内板

世田谷線を横切ってそのままさらに200m程進むと丁字路となり、左右に走っているのがボロ市通り(旧大山通)です。

丁字路を左折して100m程進んだ右手が世田谷代官屋敷です。



代官屋敷母屋


世田谷代官屋敷

世田谷氏に代わって寛永10年(1633年)に世田谷に入ってきたのが彦根藩主井伊家であり、井伊の世田谷領20ヶ村の代官として大場氏が明治を迎えるまでその職を世襲しました。


世田谷代官屋敷は大場氏の屋敷で、大名領の江戸屋敷としては都内唯一の存在です。

表門、母屋などが残り、敷地内には世田谷区立郷土資料館もあります。


代官屋敷表門



代官屋敷母屋


代官屋敷母屋



世田谷代官屋敷は、代官の陣屋として建てられたのではなく、この地の名主であり代官職を務めた大場家宅を役所とした邸宅兼用の代官所でした。

したがって、現存する建物は代官所としての特徴も見られますが、武家屋敷というよりも豪農の邸宅としての形態をよく伝えています。


表門も武家屋敷の長屋門形式ではなく、民家の門に近い簡素な形です。

表門と母屋は明治期以後も大場家によりそのまま受け継がれ、今も旧態を保存している貴重な建物で、国の重要文化財に指定されています。


白州跡



世田谷区立郷土資料館

母屋の脇に御白州の石組みが残されています。

大場家が治安維持や裁きの権限をも任されていた証で、建物は農家風ですがれっきとした代官屋敷であったことを物語っています。


郷土資料館

世田谷区立郷土資料館は、昭和39年に開館した区立として最初の登録博物館です。

世田谷区に関する区内外の歴史・民俗資料等の収集・保存、調査・研究を行っています。

常設展示では原始・古代から現代にいたるまでの世田谷の歴史を概観できます。

また、ビデオブースでの映像展示や、閲覧室も利用することができます。


道標



ボロ市通り

世田谷ボロ市

世田谷ボロ市は、天正6年(1578年)に小田原城主北条氏政が、この地に楽市を開いたのが始まりで、世田谷を代表する伝統行事として、430年以上の歴史を有しています。

最初は古着の売買が盛んに行われたことから「ボロ市」という名前がついたとされています。


現在では骨董品、日用雑貨、古本や中古ゲームソフトを売る露天もあり、代官屋敷のあるボロ市通りを中心に、約700店の露天が所狭しと並びます。

1日に20万人もの人出で賑わうボロ市は、毎年12月15日・16日と1月15・16日に開催され、4日間とも午前9時から午後9時までです。


ボロ市通り



圓光院

世田谷代官屋敷からボロ市通りを東方向に300m程進むと「世田谷中央病院」の丁字路です。丁字路を左折し、200m程進むとまた丁字路があり正面が圓光院です。

この信号を右折して圓光院、その隣の大吉寺を左に見ながら約200m進むと「世田谷区役所入口」の信号です。


この信号を左折して約500m進んだところが世田谷区役所です。

途中で東急世田谷線を横切ります。

「世田谷区役所前」の信号を右折すると、左手に国士舘大学がありその隣が若林公園です。


大吉寺



世田谷区役所前の噴水



世田谷沿線散策(宮ノ下〜三軒茶屋)その2へ



         風来坊


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