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東京散歩No5:世田谷線沿線散策(宮の坂〜三軒茶屋)その2(H22.9.14)


松陰神社



桂太郎墓所

桂太郎墓所

若林公園に隣接して桂太郎の墓所があります。

桂太郎は山口県萩の出身で、長州藩士として幕末諸戦に参加、維新後、ベルリンに留学してプロシアの兵学を学びます。

山県有朋、大山巌を輔けて軍制の改革を図り、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を行い、明治陸軍建設に大きな役割を果たしました。


明治37、年首相として日露開戦の大事を決し、挙国一致これに対処、しかも戦争の終結を深謀、戦勝を機に、外相小村寿太郎を全権として講和条約を結ばせた功績は大である。

吉田松陰を敬慕、自らも明治33年に台湾協会学校(現拓殖大学)を創立して、校長として育英に尽くした。

遺言により、松陰霊域に接して、当所に葬られています。


広沢真臣の神道碑



松陰神社

広沢真臣の墓所

桂太郎墓所から100m程進んだ左手が松陰神社です。

松陰神社の参道の西側に広沢真臣の墓と神道碑があります。

広沢真臣は木戸孝允に並ぶ長州の「維新の元勲」で、明治4年(1871年)に暗殺されましたが、現在まで事件の真相は不明です。

中に入ることはできません。



松陰神社社殿


松陰神社

松陰神社は幕末の思想家・教育者である吉田松陰を祭神とする神社です。

松陰の墓がある世田谷区若林と、松陰の生誕地である山口県萩市にあります。

どちらも、学問の神として崇敬を受けています。


吉田松陰像



松陰墓所

吉田松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作、伊藤博文など松陰の門人は、松陰の亡骸を小塚原の回向院よりこの世田谷の若林大夫山の楓の木の下に改葬し、松陰先生の御霊の安住の所としました。


禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸光允等の手により明治元年(1868年)に松陰以下の墓を修復しました。

墓域には木戸孝允が寄進した鳥居が残っています。


徳川氏奉納石燈籠


松陰墓所



その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から松陰墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込めて寄進されました。


明治15年(1882年)11月21日、門人によって墓の側に松陰を祀る神社が創建されました。

現在の社殿は、昭和2年から3年にかけて造営されたものです。


徳川氏奉納水盤



石燈籠



石燈籠

境内に立ち並ぶ32基の石燈籠は、松陰の50年祭に際して、毛利元昭公をはじめ、松陰先生門下の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂太郎などの縁故者により奉献されたものです。

燈籠にそうそうたる名前が刻まれておりびっくりしました。


吉田松陰の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842年)寺小屋を開いて、松下村塾の看板を掲げたのが、村塾の名前の起こりです。

吉田松陰が実際に塾生を教育したのは、安政3年8月頃から安政5年末に投獄されるまでの、2年半程度だったようです。


石燈籠奉納者



松下村塾

松下村塾で薫陶を受けた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄端、高杉晋作、木戸光允、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させています。

松陰神社にある松下村塾は、萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。


松陰神社から商店街を200mほど進むと世田谷線の松陰神社前駅があり、そのまま世田谷線を横切ってさらに200m程進むと「松陰神社入り口」の交差点で世田谷通りと交差します。

この交差点を左折して世田谷通りを500m程進むと「若林」の交差点で環七通りと交差します。


松陰神社通り



駒留八幡神社



駒留八幡神社

駒留八幡神社

「若林」の交差点を左折して200m程進んだ右手が駒留八幡神社です。

駒留八幡神社の祭神は天照大神、応神天皇です。

徳治3年(1308年)、当地の領主であった北条左近太郎入道成願は八幡大神を勧請しました。

この時、成願は自分の乗った馬が留まったところに社殿を造営したことから「駒留八幡」と称するようになったと伝えられています。


永禄年間(1558年〜70年)世田谷城主の吉良頼康の側室であった常盤は讒言により不義の疑いを受け、子どもを身籠もったまま自害しました。頼康は死産した子どもを八幡神社に一社相殿として祀りました。

このため、駒留八幡神社は、またの名を若宮八幡神社と呼ばれています。


駒留八幡神社



常磐弁財天

また、母の常盤を弁財天として祀ったのが厳島神社です。

常盤姫は奥沢城主大平出羽守の娘で、頼康の子も身籠っていましたが、他の側室の讒言により、追われる身となってしまいました。

そして捕らえられ、自害して果てたのがこの駒留の辺りだといわれています。


鷺草伝説

常盤姫は逃げる途中で身の潔白を訴えるため、奥沢城の両親に向けた手紙を白鷺の足に付け託したそうです。

しかし、白鷺は途中で力尽き、手紙は間に合わなかったとのことです。


その白鷺が葬られた地に、白い花が咲くようになったと伝えられています。


鷺草



鷺草

この白い花は鷺草と呼ばれ、今でも奥沢城のあった九品仏近くで見ることができます。

この話は、鷺草伝説としても有名であり、荏原の昔話の一つでもあります。


駒留八幡神社は、中世の歴史が詰まった神社なのです。



弦巻通りと並行する散策路


弦巻通りと並行する散策路


駒留八幡神社から環七通りに戻り100m程南に進み「駒留陸橋」の交差点で環七通りを横切り、弦巻通りに沿って700m程進むと世田谷通りにぶつかります。

右折して世田谷通りに沿って200m程進んだところが三軒茶屋の交差点です。

Y字型になっている交差点の世田谷通りと玉川通りの分岐点に「大山道」の道標があり、大山道標の世田谷通りの反対側の道筋に三軒茶屋の案内板があります。


三軒茶屋交差点 世田谷通りから渋谷方向を望む



江戸末期の三軒茶屋

三軒茶屋

三軒茶屋には昔、その名前のとおり3軒の茶屋がありました。

江戸時代の中頃から丹沢の大山阿夫利神社へお参りに行く人が増え、静かな田園の道(矢倉沢往還)は大山道として賑わうようになります。


やがて近道(現玉川通り・国道246号線)が作られ、本道(現世田谷通り)との分岐点に三軒の茶屋「信楽(のちに石橋屋)」「角屋」「田中屋」ができ、大山詣や玉川行楽の人々の休み処として、いつか三軒茶屋と呼ばれるようになりました。

どの店も座敷にお膳をととのえ、茶屋娘をおく立派な構えの料理茶屋(料亭)でしたが、店の前に床机(縁台)を並べ、よしずを立てて道行く人々に茶菓の接待もしていました。

周りには髪結床や煙草屋などもあったようです。


江戸末期の三軒茶屋



茶屋の光景

石橋屋には、幕末の志士・坂本龍馬の写真が残されており、彼や高杉晋作も三軒茶屋で遊んだのではないかと想像されます。

明治中頃から大正時代にかけては、軍の施設が次々に世田谷に移転し、商店や住宅の数がどんどん増えて、シャボン屋、立ち飲みのできる居酒屋、駄菓子屋、魚屋なども軒を構えました


明治40年(1907年)には玉川電車が渋谷〜二子玉川間に開通。大正14年(1925年)には玉川電車が三軒茶屋から下高井戸に開通。

三軒茶屋駅界隈は寄席や市場、映画館もある華やかな街となりました。



石橋屋の場所には高いビルが



ビルの右手は三軒茶屋仲見世商店街

3軒の茶屋は、明治時代にまず角屋が店をたたみ、田中屋は火災で焼失。

石橋屋は石橋楼という名の料亭旅館に変わり、関東震災後は舶来のおもちゃを売る喫茶店、次いで洋食喫茶・宴会場を営業し、戦時中の強制疎開により廃業しました。



仲見世商店街にこんなお店が!


三軒茶屋仲見世商店街


大山道道標

大山道は、矢倉沢往還の俗称です。

矢倉沢往還は、江戸時代に整備された街道で、江戸赤坂門から相模国、足柄峠を経て駿河国沼津宿を結んでおり、大山参詣道や東海道の脇街道として機能していました。

現在は、ほぼこの旧往還に沿って国道246号線が通っています。


大山道道標



キャロットタワー

江戸時代に入って、雨降山(あめふりやま)とも呼ばれて雨乞いに霊験ある山として農民の信仰を集め、大山への参詣者が急増したと言われています。

矢倉沢往還は江戸からの参詣道として盛んに利用されていた経緯から「大山道」と呼ばれるようになり、あちこちの道標も立てられるようになりました。


三軒茶屋にある道標は、旧大山道(現世田谷通り)と新大山道(現玉川通り)の分かれ道にあった石橋楼の角に建てられていました、

この道標は、玉川電車の開通や東京オリンピックの道路拡幅などにより、転々と移されたが、昭和58年5月に三軒茶屋町会結成50周年記念行事の一つとして、元の位置近くに復されたものです。



キャロットタワー


キャロットタワー


三軒茶屋の交差点から世田谷通りを西に100m程進んだ右手がキャロットタワーです。

三軒茶屋駅周辺の再開発で1996年に完成した26階建ての商業施設で、世田谷線三軒茶屋駅に直結しており、田園都市線の三軒茶屋駅とも地下通路で接続しています。

周囲に中低層の建物が多い中、レンガ町外壁のひときわ目立つ建物です。



キャロットタワーから 電車は世田谷線 前方の緑が豪徳寺や松陰神社など



キャロットタワーから 真っ直ぐ伸びているのが弦巻通り



キャロットタワーから東方向の展望


最上階の26階が無料の展望フロアとなっています。

夜景の名所でオープン当初は混雑していましたが、現在は週末でも空いていてゆっくり東京の夜景を楽しむことができるとのことです。


世田谷線三軒茶屋駅



世田谷線の電車

ソファーも約30席あり、無料夜景展望台としては最上級レベルですが、最も景色の良い北方面(新宿や東京タワー、お台場など)は展望レストランを利用しないと見ることができません。



世田谷線の電車


世田谷線の電車


教学院(目青不動)

キャロットタワーから世田谷線三軒茶屋駅の西側の踏切を渡り線路沿いに30m程進んだ右手が教学院です。

教学院は寛永寺の末寺の一つで、正式名称は「竹園山最勝寺教学院」で、「目青不動」の通称でも知られています。


教学院



不動堂

教学院は、寺の縁起によれば、応長元年(1311年)、玄応和尚によって江戸城紅葉山付近に創建され、江戸城築城により麹町貝塚に移転、その後赤坂三分坂(青山墓地近辺)に移転しています。

その後慶長9年(1604年)、青山南町(百人町)に3000坪の土地を与えられて移転し、さらに明治41年(1908年)に現在地に移転しています。

玄応和尚による創建を慶長9年(1604年)とする説もあります。



新参道


旧参道


目青不動尊は元来、観行寺のご本尊でしたが、1882年に教学院に併合された際に、港区の旧麻布谷町から遷座しました。

東都五眼不動(目黒・瀧泉寺 、目青・教学院 、目赤・南谷寺 、目黄・永久寺、 目黄・最勝寺 、目白・金乗院)の一つで、目青不動尊は縁結びの不動とも言われています。


下野国烏山藩主歴代墓碑



大久保氏の墓所

元禄年間までは、麹町山王成琳寺の末寺でしたが、貞享4年(1687年)旧相州小田原の城主大久保加賀守の菩提寺となって寺運隆盛となり、東叡山輪王寺の末寺となりました。

後に大寺の格式となり、比叡山延暦寺の末寺となっています。

境内には小田原藩大久保氏、荻野山中藩(駿河松長藩)大久保氏、烏山藩大久保氏の歴代藩主の墓があります。

また、画家岡本秋暉やその子岡本碧厳等の墓もあります。


三軒茶屋の交差点に戻り、交差点から渋谷に向かって左方向の茶沢通り(三軒茶屋銀座)に入ります。

200m程進むと緩やかな下り坂となり、さらに300m程進むと太子堂のバス停があります。


三軒茶屋銀座



歩道には


歩道には



三軒茶屋銀座

バス停の手前の信号のある交差点(三軒茶屋の交差点から2つ目の信号)を右に入り10m程進んだ三叉路を左折して、道なりに200m程進むと丁字路となります。

丁字路を右折して100m程進んだ左手が円泉寺(太子堂)です。



円泉寺


聖王山法明院円泉寺は、文禄4年(1595年)、賢恵大和尚によって現在地に開創されたと伝えられていますが、その草創はさらにさかのぼり、遅くとも南北朝時代末期(〜1392年)のころには、太子堂ならびに小堂(円泉寺の前身・円泉坊)が結ばれていたものと推察されています。


太子堂



弘法大師修行像

円泉寺周辺の地域は、武蔵野の一角とはいえ無人の荒野ではなく、縄文・弥生時代から人々の生活が営まれていた地で、中世のころには、相当な生産力のある素朴な文化をもつ地域でした。

慶長年間に入ると円泉寺周辺の地域は、江戸市中への蔬采の供給地として、重要な役割を果たすようになり、太子堂村の経済も次第に安定し、これに伴い円泉寺境内も本堂、太子堂が建ち並び、次第に寺容が整えられていきました。


安政4年(1857年)に災禍に罹り諸堂宇を焼失、安政7年(1861年) に檀信徒家の信施によって本堂、太子堂、庫裡が再建され今日に至っています。

円泉寺は 玉川八十八ヶ所霊場巡拝の第51番霊場となっています。


円泉寺境内



林芙美子旧居の案内板

円泉寺の手前に「林芙美子旧居」の案内板が建っています。

案内板の右下に「この奧、左隅より四棟」と書かれていますが、狭い路地の両側に二軒長屋があり、どの長屋か判別できませんでした。

円泉寺から三軒茶屋駅に戻り、今回の散策終了です。


世田谷沿線散策(宮ノ下〜三軒茶屋)その1へ



         風来坊


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