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東京散歩No3:深川散策その1 (H22.9.3)


深川神明宮



深川神明宮

江戸時代に松尾芭蕉が移り住み、町人文化が栄えた深川。水運の発達した往時の名残の橋や堀川が味わいを添えています。

都営地下鉄森下駅から東京メトロ門前仲町駅まで深川を散策しました。
コースは、次のとおりです。

都営地下鉄森下駅(A7出口)→深川神明宮→芭蕉記念館→芭蕉庵史跡展望庭園→芭蕉稲荷神社→清澄庭園→霊巌寺→深川江戸資料館→滝沢馬琴誕生の地→採茶庵跡→妙心寺→法乗院(深川えんま堂)→深川不動堂→富岡八幡宮→八幡橋→東京メトロ門前仲町駅



都営地下鉄森下駅のA7出口を出た前の通りが清澄通りです。


左側の大きな交差点で清澄通りと新大橋通りが交差しています。

A7出口を出て清澄通りに沿って右方向に進み、2つ目の信号のない交差点を右折し、100m程進んだ右手が深川神明宮です。


深川神明宮 参道両側は神輿格納庫



深川神明宮 参道両側は神輿格納庫


深川神明宮

今からおよそ四百年の昔、現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州で、住む人もまだいませんでした。


慶長年間(1596年〜1614年)に摂津国(大阪府)の深川八郎右衛門ほか6人が新田を開拓し、八郎右衛門の姓をとり深川村と名付けられました。

これが深川という地名の始まりです。



また、この開拓した土地の小祠に、八郎右衛門が神明を勧請したのが深川神明宮です。


のち、現在の新大橋、常磐、高橋、森下、猿江、住吉辺りの開拓が進み、八郎右衛門は代々名主を務めました。

深川七福神の一つ(寿老人)として親しまれています。

また、深川神明宮に隣接した神明幼稚園庭園に、一対の狛犬と一緒に庚申塔が安置されています。


深川神明宮



芭蕉記念館



芭蕉記念館入口


芭蕉記念館

深川神明宮を右手に見てそのまま進むと右手に八名川公園があり、その先が丁字路になっています。


丁字路の右側にあるのが芭蕉記念館です。

松尾芭蕉は、延宝8年(1680年)それまでの宗匠生活を捨てて、江戸日本橋から深川芭蕉庵に移り、元禄7年(1694年)51歳で没するまで、この地を根拠地として俳諧活動を展開しました。



芭蕉庵は、弟子の杉山杉風の土地で、生け簀があり、その番小屋に芭蕉を住まわせたといわれています。

当時は間口23.6m、奥行92.7mで、広さ約2000平方メートルの土地でした。


芭蕉記念館玄関



「草の戸も住み替わる代ぞひなの家」の句碑


芭蕉没後、芭蕉庵一帯は、武家屋敷となりました。


当初は尼崎藩の松平紀伊守の下屋敷でしたが、明治初年には長州藩の屋敷となり、その後民有地となりました。

こうした土地所有者の変更により、芭蕉庵跡は消滅し現在でもその正確な位置はわかっていないとのことです。


大正6年(1917年)の大津波の後、常磐1丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」が出土し、大正10年に東京府は出土した場所を「芭蕉翁古池の跡」と指定しました。

江東区はこのゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和51年に芭蕉記念館を、平成7年に同分館(芭蕉庵史跡展望園)を開館しました。

芭蕉記念館には芭蕉をはじめ江戸時代から近現代までの俳句文学資料が随時展示されています。


芭蕉庵を模した茅葺き屋根の祠



「古池や蛙飛び込む水の音」の句碑


芭蕉記念館の門をくぐると、小さな日本庭園があります。


芭蕉の句に詠まれた草木を植え、池を配した日本庭園です。

築山には、芭蕉庵を模した茅葺き屋根の祠と、「古池や蛙飛び込む水の音」と「川上とこの川下や月の友」の芭蕉句碑があります。

玄関前には「草の戸も住み替わる代ぞひなの家」の芭蕉句碑があります。



芭蕉記念館入口


祠の中の松尾芭蕉



隅田川河畔 前方は新大橋 新大橋の右手前100mが芭蕉記念館



芭蕉庵史跡展望公園

芭蕉記念館の裏木戸から隅田川河畔に出ることができます。

隅田川河畔を南方向(川下方向)に200mほどで、芭蕉記念館の分館である「芭蕉庵史跡展望公園」に到着します。

途中の隅田川河畔には芭蕉の句が掲げられています。


芭蕉庵史跡展望公園



隅田川河畔・大川端の芭蕉句


隅田川河畔・大川端の芭蕉句



芭蕉庵史跡展望公園


芭蕉庵史跡展望庭園は、隅田川と小名木川に隣接し、四季折々の水辺の風景が楽しめます。


庭内には芭蕉翁像や芭蕉庵のレリーフを配しており、往時を偲ぶことができます。



芭蕉庵史跡展望公園



芭蕉翁像は、午後5時になりますと隅田川に向かって像が回転するとのことです。

像はライトアップされ、隅田川を行く船々を見守っているかのように見えるとのことです。


芭蕉庵史跡展望公園



芭蕉庵史跡展望公園


像は午後5時に回転しますが、この庭園は午後4時30分に閉まるため、回転の様子を間近で見ることはできません。


松尾芭蕉史跡展望庭園の開園時間は午前9時15分〜午後4時30分です。



芭蕉稲荷大明神



芭蕉稲荷大明神

松尾芭蕉史跡展望園を出て、右手に50m程進んだところが芭蕉稲荷大明神です。

大正6年(1917年)の大津波の後、この場所で「芭蕉遺愛の石の蛙」が発見されたことから、芭蕉庵のあった場所とされています。


芭蕉稲荷大明神



奥の細道旅立ち300年記念碑


芭蕉庵跡



発見された蛙は、芭蕉記念館で展示されています。


残念ながら芭蕉記念館は撮影禁止ですのでお届けできません。



川船番所跡


芭蕉稲荷大明神を左に見て、東方向に30mほど進み、最初の交差点を右折するとすぐに万年橋があります。


この橋の手前が川船番所跡です。

川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と物を検査しました。


川船番所跡


設置の年代は明らかではありませんが、正保4年(1647年)に深川番所の任命が行われていることから、その頃と考えられています。

江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624年〜44年)にはすでに整いつつあり、関東各地から江戸に運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋などの中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸への出入り口としてこの地に置かれたことと思われます。

明暦3年(1657年)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成などに伴い、寛永元年(1661年)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、川船番所は元番所と通称されました。



万年橋

万年橋

現在の万年橋は、長さ56.4m、幅11mの昭和5年にかけられた鋼橋ですが、それ以前は木橋でした。

万年橋は、江東区内の橋のなかでも古く架けられた橋の一つです。

架橋された年代は明らかではありませんが、寛文11年(1671年)の江戸図には、万年橋が載っています。

また、延宝8年(1680年)の江戸図には「元番所橋」として記されております。


小名木川に架けられた橋は、船の通行を妨げないように高く架けられていました。

万年橋も虹の形をした優美な橋で、安藤広重は「名所江戸橋百景」の中で「深川万年橋」として取り上げています。

また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋とその下から富士山を望む錦絵を残しています。


万年橋



ケルンの眺め


ケルンの眺め

隅田川に架かる清洲橋は、ケルン市に架けられたライン川の吊り橋をモデルにしています。

清洲橋は、万年橋北側からの眺めが一番美しいといわれています。



深川稲荷神社

万年橋を渡り、最初の四叉路を左折し、200m程進んだ四叉路を右折して30m程進んだ左手にあるのが深川稲荷神社です。

深川稲荷神社は、寛永7年(1630年)の創建と伝えられています。

以前は、旧町名の西大工町にちなんで俗に西大稲荷と呼ばれていました。



関東大震災(1923年)の後の区画整理により町名が変更され、昭和27年頃から深川稲荷神社となりました。

深川七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。



清澄庭園



清澄庭園

清澄庭園

深川稲荷神社から南に200mほど進んだところが清澄庭園です。

清澄庭園は、一説には江戸の豪商、紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられています。

その後、亨保年間(1716年〜1736年)に下総国、関宿の城主久世大和守の下屋敷となり庭園のもとが形造られました。



明治11年(1878年)に岩崎弥太郎が一帯の土地10万平方メートルを買収、社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園を計画し、明治13年(1880年)に「深川親睦園」を開園しました。

その後も造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水をはじめ築山、周囲には全国から取り寄せた名石を配して明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」として完成しました。


清澄庭園



清澄庭園


大正12年の関東大震災の時には、庭園も大被害を受けましたが、被害の少なかった東半分を東京市に寄付し、昭和7年に一般に公開されました。

その後、被害の大きかった西半分も東京都が買収・整備して、昭和51年清澄公園となっています。



清澄庭園の南隅のひろばの芝生に「古池や かはつ飛こむ 水の音」の句碑があります。

この句は、貞亨3年(1685年)の春、詠まれています。

句碑は昭和9年に其角堂9代目の晋永湖という神田生まれの俳人が建てたものですが、芭蕉庵改修の際、敷地が狭いので清澄庭園に移したものです。

句碑の場所と芭蕉庵とは直接のゆかりはありません。


清澄庭園:芭蕉の句碑



霊巌寺



深川江戸資料館の案内


霊巌寺


清澄庭園を出て右手に庭園に沿って進むと清澄通りに出ます。

右折して最初の信号を渡ると道路の両側に「深川江戸資料館」の素敵な案内が建っています。

100m程進んだ左手が霊巌寺です。



霊巌寺は寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋近くの芦原を埋め立てた霊巌島(現在の中央区新川)に創建されました。

数年後に檀林が設置され、関東十八檀林のひとつです。

万治元年(1658年)に徳川幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転しました。


松平定信の墓所



松平定信の墓


霊巌寺には、11代将軍家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など、大名の墓が多く存在しています。


松平定信は老中になると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)、七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の立て直しを図りました。

また、朱子学者でもあり「花月草紙」「字下の人言」「国本論」「修身録」などの著書があります。



また、境内に江戸六地蔵が安置されています。

深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江戸六地蔵の第五番として、亨保2年(1717年)頃建立されたものです。

製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀で、像の高さは2.73mです。


江戸六地蔵



深川江戸資料館



深川江戸資料館


深川江戸資料館

霊巌寺の50m程先にあるのが深川江戸資料館です。

江東区の出発点ともなった江戸時代の街並みを切り取って現代に再現するという発想で作られたのが深川江戸資料館の展示です。

時代は江戸末期の天保年間で1840年頃を想定しているとのことです。



季節感を味わうことができるよう、四季に応じて建具や生活用具、八百屋の野菜などを入れ替えたり、桜の木が満開になったり、さらには正月飾りや七夕、月見飾りなどの年中行事も江戸時代末期の内容を再現しているとのことです。


江戸深川の庶民の生活と息づかいを感じることができる展示です。

 深川江戸資料館


深川江戸資料館



深川江戸資料館


深川江戸資料館



深川江戸資料館



深川江戸資料館




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        風来坊


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