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東京散歩No2:両国散策その2 (H22.9.1)


小さな博物館:足袋資料館



足袋資料館

足袋資料館

野見宿禰神社で北斎通りを右折して、南方向に進みJRのガードをくぐってそのまま進むと「緑2丁目」の信号で京葉道路にぶつかります。

ここで右折して京葉道路を進み、3つ目の信号「緑1丁目」で左折すると清澄通りとなります。

清澄通りを南方向に100m程進んだ左手が「小さな博物館:足袋資料館」です。


足袋資料館は、東京に3店しか残っていない足袋の製造販売店の一つ「喜久や足袋本舗」のショーウィンドーにあります。

約24の工程からなる足袋仕立てに使う木型、木槌、縫縮消し
(いせけし)などの道具や、寸法の由来、歴史などが展示されています。

足袋に関する資料が少ないため、どの展示品も館長の宮内さんが長年かかって収集したものを手づくりでまとめたものです。


足袋資料館



足袋資料館


また、店内には若・貴兄弟、曙をはじめ、有名力士の足型がたくさん展示されています。


人それぞれの足にあった足袋仕立てを続けている宮内さんは、「足を見れば、その人の健康状態や性格までわかる」そうです。



「足袋資料館」といっても、店舗の一角に展示されているもので、歩道からショーウィンドーを眺めることになります。


日曜日と祝日が休館日です。


足袋資料館



馬車通り


足袋資料館の南側の「二之橋北詰」の信号で清澄通りと交差しているのが馬車通りです。


「二之橋北詰」の交差点で清澄通りを渡った周辺には相撲部屋が点在しています。



清澄通りを渡って右折して北方向に進み、2つ目の筋(足袋資料館の向かいになります)を左折するとすぐ左手が二所ノ関部屋です。

相撲部屋はいずれも高層マンションかと思われるような建物です。

相撲部屋は低い建物と思っていた風来坊の常識は覆されました。


二所ノ関部屋



勝海舟生誕の地

二所ノ関部屋を左手に見てそのまま100m程進んだ右手が両国公園です。

江戸無血開城や咸臨丸での日本人初の太平洋横断など、幕末から明治の激動期に活躍した勝海舟は、文政6年(1823年)に本所亀沢町(現在は墨田区両国4丁目)の父の実家である男谷家で生まれ、7歳まで育ちました。

男谷邸は両国公園となり、公園内に「勝海舟生誕の地」の石碑があります。

石碑は、西郷隆盛の孫で法務大臣の西郷吉之助の筆によるものです。



両国公園を逆方向に通り抜けて左折し、両国小学校を左手に見て進むと、両国小学校の敷地に隣接して芥川龍之介の文学碑があります。


この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。

両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家・芥川龍之介の人生観を学び、氏の文才を偲ぶものとして、両国小学校創立115周年の記念事業として、平成2年に建立されたものです。


芥川龍之介の文学碑



双葉山相撲道場


時津風部屋



吉良邸跡



吉良邸跡



本所松坂町公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討ち入りがあった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。

その昔、吉良邸は松坂町1、2丁目(現両国2、3丁目)のうち約8400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ち並び、いまではその面影もありません。

吉良邸跡

両国小学校先の交差点をそのまま進むとすぐ左手に時津風部屋があります。

時津風部屋の看板の上部に「双葉山相撲道場」と掲げられていました。

時津風部屋の建物に沿って左折して、50m程進んだ右手がなまこ壁に囲まれた本所松坂町公園:吉良邸跡です。


吉良邸跡



吉良邸跡:首洗い井戸


昭和9年(1934年)地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入し、同年3月史跡公園として東京市に寄付したものです。



周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁(なまこべい)長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった井戸や稲荷社などの遺跡があり、当時を偲ばせています。


また、内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されています。


吉良邸跡:松阪稲荷大明神



相撲写真資料館


相撲写真資料館

吉良邸跡から西方向(両国小学校と反対方向)に進み、次の辻を右に入って50m程進んだところが「小さな博物館:相撲写真資料館」です。

昭和4年から67年間、相撲協会専属を務めてきた工藤写真館が、その間に撮られた所蔵写真を展示しています。



「旧国技館から新国技館までの人や街の変遷」「写真で見られる幕内力士番付表」等々、相撲ファンのみでなく訪れた人の目を楽しませてくれます。


さらに、公式行事以外に各相撲部屋から依頼された写真もあり、お相撲さんの「七五三」や「お宮参り」の写真なども見ることができます。

開館日は毎週火曜日のみです。


相撲写真資料館



出羽の海部屋


馬車通りの一つ南側の通りには出羽の海部屋があります。


井筒部屋を左手に見てそのまま進むと丁字路となり、右折すると左前方に春日野部屋があります。

「相撲写真資料館」から道を逆戻りしてそのまま南方向に進むと丁字路で馬車通りに出ます。

馬車通りを右折して西方向に進み、信号を過ぎて100m程進むと左手に井筒部屋があります。



春日野部屋



回向院



回向院


春日野部屋を左手に見てそのまま進むと「両国1丁目」の交差点です。


両国1丁目の交差点を右折して30m程進んだ右手に「住友不動産両国ビル」があります。

住友不動産ビルの手前を右に入ったところが「両国花火資料館」です。

また、住友不動産ビルの東隣りが回向院です。



回向院は、明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。

この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。

この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。

当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。

このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。


馬頭観音堂



小鳥供養塔


有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変、人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物などありとあらゆる姓名が埋葬供養されています。

回向院の境内には、猫の報恩伝説で知られる「猫塚」を始めとして、「唐犬八之塚」、「オットセイ供養塔」、「犬猫供養塔」、「小鳥供養塔」など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑があります。このように諸動物の供養が行われることになったのも、回向院の成り立ちの理念に基づくものです。


馬頭観音堂

回向院の開創間もない頃、将軍家綱公の愛馬が死亡し上意によってその骸を回向院に葬ることになりました。

その供養をする為、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻し安置した馬頭観世音菩薩像は、享保年中(1716年〜35年)の頃から「江戸三十三観音」に数えられています。



海上溺死群生追福之塔



猫塚


馬頭観世音菩薩に祈願をこめると、当時最も恐れられた熱病や天然痘にかからないといわれ、時代が下るにつれて諸病平癒の霊験顕かな観音様として、人々の厚い信仰を集めました。



鼠小僧次郎吉の墓


時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。

長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとを絶たないとのことです。


鼠小僧次郎吉の墓の前側には、削るための墓石と削る道具として石が準備されています。


鼠小僧次郎吉の墓 手前の墓石を削る



力塚の碑

日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。

その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和5年(1768年)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。


やがて天保4年(1833年)より回向院は春秋2回の興行の定場所となり、明治42年(1909年)の旧両国国技館が完成するまでの76年間、「回向院相撲の時代」が続きました。



力塚の碑は、昭和11年(1936年)に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と回向院とのつながりを示す象徴になっています。

力塚の後方に江戸時代からの相撲の歴史を刻んだ「回向院相撲記」の石碑も建てられています。


回向院相撲記



旧国技館跡:土俵跡を示すタイル

旧国技館跡

回向院の境内北側が旧国技館跡です。

旧国技館は、回向院の境内に明治42年(1909年)に建設されました。

32本の柱をドーム場に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、収容人員は1万3千人で当時としては最大規模の競技場でした。

戦後は米軍に接収されましたが、相撲興行は国技館で行われていました。


しかし、メモリアルホールと改称された後は相撲興行ができなくなり、仮設国技館での興行を経て昭和29年(1954年)から蔵前国技館における興行となります。

地元の誘致運動により、昭和60年(1985年)に新国技館が完成し、「相撲の町両国」が復活しました。

昭和58年(1983年)に解体されました。

両国シティコアビル中庭にはタイルの模様で、当時の土俵の位置が示されています。


両国花火資料館



両国花火資料館

両国花火資料館

亨保18年(1733年)に「両国川開き」として始まった両国の花火は、戦争などにより度々中断し、また交通事情等の理由により、昭和36年(1961年)を最後に終了しました。

しかし、多くの関係者の努力により、昭和53年(1978年)「隅田川花火大会」として復活し、今日まで回を重ね、江戸の華としての伝統を発展させてきています。



花火の原寸大模型とカットモデル



尺玉(10号玉)打ち上げ筒(左)
と昔の打ち上げ筒(右)


スターマイン打ち上げ筒
打ち上げ数に応じてセットし連続打ち上げる



両国花火資料館は、瞬間の芸術といわれる花火の歴史や芸術性をより深く理解してもらうために、日本の納涼花火大会発祥の地である両国に、平成3年3月開館したものです。

2尺玉から3号玉まで原寸大の大きさの花火玉と花火の仕組みがわかるカットモデルや、実際に使われている打ち上げ筒などが展示されています。

また、隅田川花火大会の年表や錦絵など、隅田川花火大会の今昔もわかります。


スターマイン打ち上げ筒



花火資料館は無料ですが、開館日、開館時間が季節により異なり、しかも限定されていますので、要注意です。

開館日、開館時刻は下図のとおりです。

 両国花火資料館



10号玉(尺玉)八重芯物


両国花火資料館の開館日時



7号玉/千輪物


5号玉/花入割物



4号玉/割物


3号玉/ポカ物





 両国散策その1へ



      風来坊


花火資料館前のタイル模様


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