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東京散歩No2:両国散策その1 (H22.9.1)


両国国技館



秋場所開催中(9.17撮影)

両国といえば相撲の街。両国国技館周辺では、相撲部屋やちゃんこ屋をあちこちで目にできます。江戸時代、両国橋界隈は有数の繁華街となり、街には町人文化が花開きました。

このような両国を散策しました。コースは次のとおりです。


JR両国駅西口→相撲博物館→隅田川河畔(東京水辺ライン発着所)→旧安田庭園→横綱町公園→江戸東京博物館→北斎通り→江戸太郎左衛門屋敷跡→野見宿禰神社→足袋資料館→勝海舟生誕の地→芥川龍之介文学碑→吉良邸跡→相撲写真資料館→相撲部屋→両国花火資料館→回向院→JR両国駅西口


相撲博物館

JR両国駅西口を出るとすぐ右手が両国国技館です。両国国技館の1階に相撲博物館があります。

相撲博物館は、酒井忠正初代相撲博物館館長が長年にわたって収集した資料を基礎に、国技としての相撲資料の散逸を防ぐため、昭和29年(1954年)9月、蔵前国技館の完成と同時に開館しました。

昭和60年(1985年)1月、両国国技館の開館に伴い移転し、現在に至っています。


櫓太鼓はこの高い櫓の上で叩かれます



両国国技館



大相撲博物館への入口


相撲関係資料の収蔵品は3万点以上に及び、江戸時代の番付や歴代横綱の化粧廻し、錦絵、手形、行司軍配など、新旧のものを幅広く展示しています。

常設展ではなく2ヶ月ごとに展示替えされ、訪れるたびに異なった展示が見られ、相撲ファンには興味が尽きないところです。

大相撲の番付表も販売されています。



土、日、祝日が休館日ですので要注意です。見学時間は10:00〜16:00です。


また、東京本場所開催中は毎日開館されますが、見学できるのは大相撲観覧者のみです。

館内は写真撮影禁止です。入館料は無料です。

細部は下記のホームページでチェックして下さい。

 大相撲博物館


大相撲博物館



隅田川河畔の光景



隅田川河畔の光景



水上バス両国乗り場


両国国技館の傍の隅田川に東京水辺ラインの水上バス乗り場があります。

隅田川河畔に出ると街中とは全く異なった景観を楽しむことができます。

河畔の散策路にひまわりが咲いていました。



隅田川橋梁


隅田川橋梁

水上バス乗り場から右手方向(川上)に約2キロ進むと浅草です。

水上バス乗り場から逆の左手方向(川下)にJR総武本線の隅田川橋梁があります。

隅田川橋梁はわが国最初のランガー桁鉄道橋です。


隅田川橋梁



隅田川橋梁


構造は支間38m+96m+38mの3径間で中央径間がランガー桁です。


ランガー桁は、桁とアーチの双方で荷重を支える補剛アーチ形式の一つです。

設計は隅田川に架かる多くの橋を設計した田中豊博士によるもので、スレンダーな橋はほかの道路橋とも良く調和しています。



旧安田庭園


旧安田庭園

隅田川河畔から両国国技館に戻ると、すぐ隣が旧安田庭園です。

旧安田庭園の場所は、元禄4年(1701年)に常陸笠間藩の藩主本庄宗資が下屋敷として拝領したもので、庭園は宗資が築造したと伝えられています。

中央に「心」の字をかたどり、隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園です。


旧安田庭園



旧安田庭園


明治になって旧備前岡山藩主池田章政の邸宅となり、明治24年(1891年)安田財閥の創始者初代安田善次郎の所有となります。

安田翁の逝去後、遺志にもとづき家屋及び庭園は大正11年(1922年)東京市に寄付されました。



旧安田庭園 前方は両国公会堂とスカイツリー



大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により、壊滅的な被害を受けたが、東京市によって残った地割り石組を基にして復元工事が行われました。

昭和2年、和風庭園として一般公開されました。

庭園は寄付者の名前を冠して、「旧安田庭園」と命名されています。

無料で見学できます。


旧安田庭園



旧安田庭園:駒止石


駒止石


寛永年間の半ばにあたる寛永8年(1631年)に台風に見舞われた隅田川は大洪水となりました。

本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した徳川家光は、その状況を調べさせようとしました。



しかし、あまりの濁流に誰もが尻込みする中、旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現在の柳橋辺りから馬を乗り入れました。


忠秋は馬を巧みに操って川を渡り、被害状況を調べて廻りましたが、その際、馬を止めて休憩したところが駒止石です。

当時、この辺りに住んでいた人々が忠秋の徳を敬い、この地に駒止稲荷を祀りました。


旧安田庭園:駒止石



慰霊堂の三重塔

横網町公園

旧安田庭園の両国国技館とは反対側の出入り口を出た筋向かいが横網町公園です。

この公園は「横網町公園」という名のほか「被服廠跡」「東京都慰霊堂」「東京都復興記念館」とも呼ばれていますが、そのいずれもが、この公園の歴史を物語っています。

大正11年(1922年)、東京市は陸軍被服廠の移転に伴い、跡地を買収し公園の造成を進めていましたが、その最中に発生したのが関東大震災(大正12年9月1日)で、その時この界隈の人々が被服廠跡に避難しましたが、運び込まれた家財道具に飛び火し、折からの風速17mの強風に燃え広がり、多数の焼死者が出ました。

東京市は、遭難者の霊を供養し、さらに東京を復興させた当時の大事業を記念するため、公園内に東京都慰霊堂(昭和5年)と復興記念館(昭和6年)を建てました。



その後、東京大空襲の犠牲者である一般戦災者の霊も安置することになりました。


また、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を新たに建設しています。


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑



東京都慰霊堂


東京都慰霊堂は、関東大震災による遭難死者約58000人の遺骨を納めるために、昭和5年に建てられたものです。

東京大空襲などによる殉職者の遺骨もあわせて、現在約163000体の遺骨が安置されています。

毎年2回(秋季―9月1日、春季―3月10日)慰霊大法要が行われています。



復興記念館は、関東大震災の惨事を永く後世に伝え、また焦土を復興させた当時の大事業を記念する、昭和6年に建てられたものです。

館内には震災及び戦災の記念遺品、当時の状況を伝える絵図、写真、図表などが展示されています。


復興記念館



日本橋付近の町人地



江戸東京博物館3階フロア


横網町公園の正門(旧安田庭園と反対側)を出て右折して、清澄通りに沿って南に進むと2つ目の信号が「江戸東京博前」です。


この信号を右折すると左側が江戸東京博物館です。

逆に、旧安田庭園入口側に戻り、旧安田庭園に沿って南に進むと丁字路となります。

この経路の場合は、丁字路の左前方が江戸東京博物館、右前方が両国国技館です。



江戸東京博物館


江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化について、豊富な資料や復元模型を通して楽しみながら学べる博物館です。

分館として小金井公園の「江戸東京たてもの園」があります。


銀座煉瓦街



両国橋西詰めの広小路



三井越後屋江戸本店


江戸東京博物館の展示内容としては、常設展と特別展とに大きく区分できます。

特別展は1階の「企画展示室」で開催され、年間5本程度が計画されているようです。

今年は、4月27日から6月6日まで、NHK大河ドラマで人気を博している「特別展 龍馬伝」が開催されました。



常設展は5階及び6階の「常設展示室」で開催されています。


また、企画展も常設展示室で開催されます。

1階が総合案内所になっています。

常設展のチケット売り場は3階の江戸東京ひろば(屋外)にあります。

チケットを購入してエスカレーターに乗ると6階の常設展示室入口に直行です。


芝居小屋中村座



助六の舞台


江戸東京博物館の常設展示室は、「江戸ゾーン」「東京ゾーン」「第2企画展示室」で構成されてり、浮世絵や絵巻、着物、古地図など約2500点、大型模型など約50点あまりが展示されています。


5階と6階が吹き抜けになった、約9000平方メートルの大きな展示室を生かして、実物大に復元した大型模型などが展示されています。



また、当時の人びとが、実際に使っていた実物資料も豊富に展示しており、江戸東京の都市と文化、そこに暮らす人びとの生活を楽しみながら学ぶことができます。

館内は写真撮影可能ですが、フラッシュ撮影は禁止です。

 江戸東京博物館


菱垣廻船(大坂と江戸の定期船)



町歩き「北斎ギャラリー


江戸東京博物館から両国駅とは反対方向に出て、両国国技館の反対方向に進むと「江戸東京博前」の信号となります。

横網町公園正門から来た場合の右折した信号です。

信号を渡って、真っ直ぐ進む通りが「北斎通り」です。


北斎通りに「町歩き・北斎ギャラリー」があります。

葛飾北斎は江戸本所割下水(現在の墨田区亀沢)に生まれました。

墨田区では「墨田区北斎館」(仮称)の建設を計画しており、「町歩き・北斎ギャラリー」は、北斎館建設のために墨田区が収集した北斎の作品103点のプリントシールを北斎通り沿いの街路灯や公衆トイレに展示したものです。

葛飾北斎生誕の地の墓標は撤去されていましたが、緑町公園近くに生誕後に関する高札が掲げられていました。


町歩き「北斎ギャラリー



新板浮絵新吉原大門口之図


富嶽三十六景 甲州石班澤



江川太郎左衛門屋敷跡

江川太郎左衛門屋敷跡

北斎通りを江戸東京博物館と反対方向に進むと右手に緑町公園があります。

緑町公園の手前を右折して30m程進んだところが、江川太郎左衛門屋敷跡です。

江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称です。

なかでも有名だったのが、36代の江川英龍です。


英龍は、洋学、とりわけ近代的な沿岸防備に強い関心を寄せました。

わが国に西洋砲術を取り入れ、韮山に反射炉を築いて、江戸防御のため江戸湾内の数ヶ所に砲台(お台場)を造りました。

また、国防上の観点から、パンの効用に着目して日本で初めてパンを焼いた人物です。

この屋敷は代官の役所も兼ねていて、米国から10年振りに帰国した中濱万次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させてといわれています。


緑町公園



野見宿禰神社



野見宿禰神社


北斎通りに戻り緑町公園から100m程東に進んだ右手が野見宿禰神社です。

かつてこの東側に高砂部屋がありました。

明治18年(1885年)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。



石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。


境内には、昭和27年(1953年)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から46代朝潮太郎までの名前が、もう一基には47代柏戸剛以降の名前が刻まれています。


野見宿禰神社



歴代横綱石碑



歴代横綱石碑


45代若乃花勝治が赤字で刻まれていますが、風来坊が野見宿禰神社を訪ねた9月1日にお亡くなりになりました。


石碑を見てまだお元気なんだなと思って帰宅してびっくりでした。

風来坊が若い頃に栃若時代を築き、一世を風靡した大横綱でした。

風来坊は大ファンでした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。





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       風来坊


石柱には力士や相撲関係者の名前が


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