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東京散歩No3:深川散策その2 (H22.9.3)


滝沢馬琴誕生の地


滝沢馬琴誕生の地

江戸深川資料館から清澄白河通りに戻り、左折して門前仲町の方向に300m程進むと左側に滝沢馬琴誕生の地の記念碑があります。

海辺橋の50m程手前です。

滝沢馬琴は明和4年(1767年)に旗本松平信成の用心を勤める下級武士の子供としてこの地にあった松平家の邸内で生まれました。

父の死後、14歳で松平家を出て、当時、戯作者・浮世絵絵師として有名であった山東京伝に師事し、寛政3年(1791年)処女作として黄表紙「尽用而二分狂言」を発表しました。



以後、儒教思考に基づく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を次々と著し、嘉永元年(1848年)82歳で病没するまでに、470種もの著作を興しています。

記念碑には代表作の「南総里見八犬伝」が飾られていました。


南総里見八犬伝



採茶庵



採茶庵


海辺橋を渡った右手に採茶庵跡があります。


採茶庵は、芭蕉の門人杉山杉風の庵室で、その場所は明らかにはなっていませんが、仙台堀川にかかる海辺橋付近であるといわれています。

杉風は、幕府御用の魚商で、江戸日本橋小田原町に住み深川に多くの土地を所有していました。


杉風は芭蕉に師事し、また芭蕉の庇護者でもあり、芭蕉庵も杉風が芭蕉に贈ったものです。

芭蕉は、元禄2年(1869年)に芭蕉庵を人に譲り、「草の戸も住替わる代ぞひなの家」と詠み、杉風の採茶庵に移ります。

採茶庵で約1ヶ月過ごした後、ここ深川から仙台深川に浮かぶ船に乗り、隅田川を遡り奥の細道の旅に出ました。

採茶庵跡の傍の仙台深川沿いに「海辺の散歩道:芭蕉俳句の散歩道」が設けられております。


芭蕉俳句の散歩道





心行寺


心行寺

採茶庵跡から清澄通りを200mほど進んだ左手が心行寺です。

心行寺は双修山養源院と号し、元和2年(1616年)に京橋八丁堀寺町に創立しました。

開山は観智国師の高弟、光蓮社団誉一路屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室養源院殿です。



寛永10年(1633年)に現在地深川寺町に移転しました。


深川七福神のひとつ、福禄寿として親しまれています。

福禄寿は、心行寺の六角堂に安置されています。


心行寺



心行寺:福禄寿


心行寺:福禄寿



法乗院



法乗院

法乗院

心行寺のすぐ隣りが法乗院です。

法乗院(深川えんま堂)は寛永6年(1629年)深川富吉町(現東京都江東区)に創建され、寛永18年(1641年)に現在地に移りました。

開山は覚誉僧正で、本山は十一面観音で有名な大和長谷寺です。

法乗院は江戸三えんまのひとつ、「深川ゑんま堂」として知られています。


深川ゑんま堂は、為永春水の「春暁八幡佳年」、河黙阿弥の「梅雨小袖昔八丈〜髪結い新三〜」など江戸町人気質を盛り込んだ代表的江戸文芸や芝居の作品中に窺い知る事ができます。

特に「髪結い新三」の「ゑんま堂の場」は深川ゑんま堂が描かれた名場面とのことです。

また、歌舞伎で道外方の名手初代市川や八百蔵の墓や尺八琴古流宗家累代菩提所として歌舞伎音曲に縁の深い事でも知られています。


法乗院



深川不動堂


深川不動堂

法乗院を出て左に進むと道路がY字型に分かれますが、左側の清澄白河通りに沿って進み、高速道路の下を抜けてさらに200m程進むと門前仲町の交差点です。

交差点を左折して300m程進むと左側に深川不動堂の赤い門があります。

左折して「人情深川 ご利益通り」と書かれた通りを進むと深川不動堂です。


(近道)

高速道路の下を抜けて三つ目の筋(門前仲町の交差点の2つ手前の筋)を左手に入り、150m程進むと左手が深川公園です。

深川公園の先の四叉路を左折すると、「人情深川 ご利益通り」となります。


深川不動堂は真言宗智山派成田山新勝寺の東京別院です。



深川不動堂


江戸時代、中でも元禄年間は江戸市民を中心として不動尊信仰が急激に広まり、成田山新勝寺は信徒数も増え、また寺格も格式の高い本山へと大きく発展していきました。

同じ時期江戸町人を中心に成田山のご本尊、不動明王を江戸で参拝したいという気運が高まり、ついに元禄16年(1703年)4月に、初めて江戸でのご本尊の出張開帳(秘仏特別公開)が富岡八幡宮の別当・永代寺で行なわれました。

これが深川不動堂の始まりです。


明治に入って神仏分離令によって、永代寺は廃寺になり旧境内は深川公園になりました。

しかし不動尊信仰は止むことがなく、明治11年(1878年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することが東京府より認められ、14年に本堂が完成しました。

関東大震災、第二次世界大戦と2回にわたって本堂は焼失したが、ご本尊は奇しくも焼失を免れました。


深川不動堂



深川不動堂


昭和26年に当時千葉県印旛沼のほとりに建っていた龍腹寺(文久2年・1862年建立)を深川に移築して本堂が復興しましたが、この時の建物が現在の本堂になっています。

しかし、江東区最古の木造建築のため痛みが激しく、平成4年の興教大師850年御遠忌を記念して平成の大改修が行われました。

地名の「門前仲町」は「永代寺の門前町」という意味です。



富岡八幡宮

深川不動堂の東隣にあるのが富岡八幡宮です。

富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に創建されました。

周辺の砂州一帯を埋め立て、60508坪の社有地を得たとのことです。

江戸時代は、源氏の氏神である八幡大神を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、また、町民層にも「深川の八幡様」と親しまれている、東京都最大の八幡様です。


富岡八幡宮


日本最大の神輿と水かけ祭りが有名です。
富岡八幡宮の例祭は8月15日を中心に行われます。
俗に「深川八幡祭り」とも呼ばれ、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられています。

3年に1度、八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、大小あわせて120数基の町神輿が担がれます。
8月15日に最も近い日曜日には、大神輿ばかり54基が勢揃いして連合渡御が行われます。

各町の氏子が午前7時から午後5時まで江東区から中央区にかけて約10キロの道程を神輿を担いで歩くさまはまさに壮観であり、「勇壮なること天下無双」といわれています。
神輿のお清めと担ぎ手の暑さ対策のために次々に神輿に水がかけられることから、「水かけ祭り」とも呼ばれています。



神輿倉


富岡八幡宮の一の宮神輿は日本最大神輿として有名であり、神輿倉に展示されています。

あまりに大きいが故に交通事情から、平成3年(1991年)に初渡御が行われただけで、実用ではなく展示品としての扱いとなっています。

本祭りの翌年の例大祭では、一回り小さい本社の二の宮神輿が担がれます。



横綱力士碑



相撲と富岡八幡宮


富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名です。

江戸時代の相撲興業は京・大阪からはじまりますが、トラブルが多くしばしば禁令が出ていました。

その後禁令が緩み、貞享元年(1684年)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許されます。


石碑に刻まれている歴代横綱の四股名



不知火顕彰碑


横綱力士碑


明治33年(1900年)、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立されました。

この碑には初代明石志賀之助から45代若乃花関までの四股名が刻まれていますが、その大きさは高さ3.5m、幅3m、重量は20トンに及び、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑です。


その場所が富岡八幡宮の境内でした。

以降約100年間にわたって本場所が境内にておこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立されました。

そののち本場所は、本所回向院に移っていきますが、その基礎は富岡八幡宮において築かれ、現在の大相撲へと繋がっていくことになります。



陣幕顕彰碑



46代朝潮関から69代白鵬関は、名前を刻む場所がなくなり、右隣に建立された石碑に刻まれています。

新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納されます。

また両側には伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった賛同者の名が刻まれており、広く各界から協賛を得て建立されたことを物語っています。

横綱碑の傍には、陣幕・不知火顕彰碑があります。

また、横綱力士碑の左手前には、超五十連勝力士碑が建てられており、白鵬関の名も残ることになります。



大関力士の碑



大関力士の碑

表参道大鳥居をくぐってすぐ右手には、歴代大関を顕彰するために昭和58年に建立された 「大関力士碑」があります。

この碑は明治年間に、9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎により寄進されていた2基の仙台石を活用し、初代大関雪見山から最近では小錦関、霧島関まで、104人の歴代大関の四股名が彫り込まれています。


巨人力士身長碑


巨人力士手形足形碑


またその傍らには巨人力士身長碑、巨人力士手形足形碑、 強豪関脇碑、 釈迦ヶ嶽等身碑等一群の顕彰碑が立ち並んでおり、横綱力士碑とあわせて、相撲名所として相撲ファンに親しまれています。

巨人力士の身長は、何と7尺4寸5分(2m25)と刻まれていました。

巨人力士の手形は風来坊の手の2倍程度ある感じです。


花本社

花本社の御祭神は松尾芭蕉命です。

花本社は祖霊社に合祀されています。

芭蕉は深川に仮住居を設け、生涯でもっとも長い住まいであった縁から富岡八幡宮境内に祀られています。

例祭日は10月12日です。


祖霊社



伊能忠敬の銅像

伊能忠敬の銅像

江戸時代後期の測量家・伊能忠敬翁の銅像が平成13年境内大鳥居横に建立されました。

測量開始から200年を迎え、50歳を過ぎてから天文学、測量術を学んだ忠敬翁が注目を集めていますが、翁は深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住み、測量旅行出発にあたっては必ず富岡八幡宮に参拝していたことから、縁りの地であるこの八幡宮に銅像が建てられました。



また、銅像の横には新地球座標系に準拠した国内第1号の三等三角点「富岡八幡宮」も設置されています。


これはカーナビゲーシヨンなどに使われているGPSの基準点ともなる21世紀にふさわしい生きたモニュメントです。


GPSによる国家基準点(三等三角点)


八幡橋

富岡八幡宮の東隣りに八幡橋があります。

八幡橋(旧弾正橋)は、明治11年(1878年)東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した長さ15.2m、有効幅員2mの国産第一号の鉄橋です。

最初は京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称しましたが、大正2年新しい弾正橋が架けられたため、元弾正橋と改称しました。



関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和4年(1929年)現在地に移され、富岡八幡宮の東隣りということから八幡橋と改称して、人道橋として活躍してきました。

アーチを鋳鉄製とし、引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋であり、かつ独特な構造手法で施工されています。

橋には菊の紋章が取り付けてあります。


八幡橋



八幡橋


この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋であり、昭和52年(1977年)国の重要文化財に指定されました。

八幡橋から富岡八幡宮に戻り、永代通りを西に向かうと200mほどで東京メトロ東西線門前仲町駅です。





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      風来坊


門前仲町


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