散策スポット・北海道東北

散策スポット目次

HOME

前ページ

次ページ

東京龍馬会第47回史跡探訪 その1 (H22.5.30)
『幼少の勝海舟を訪ねて〜両国から浅草を巡る・・・・東京スカイツリーを眺めながら』


東京江戸博物館 特別展龍馬伝開催中



JR両国駅西口


東京龍馬会の第47回史跡探訪に参加しました。


今回のテーマは、『幼少の勝海舟を訪ねて』(両国から浅草を巡る 東京スカイツリーを眺めながら)です。

NHK大河ドラマ「龍馬伝」の真っ最中であり、これに関連したプランです。



今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。

JR両国駅西口改札口→江戸東京博物館・特別展見学→各個に昼食→江戸東京博物館前→江川太郎左衛門終焉の地→勝海舟誕生の地→勝海舟揺籃の地→能勢妙見堂→隅田公園・藤田東湖正気の歌碑→勝海舟像→解散


両国駅から江戸東京博物館までの通路



通路の各所に!


集合時刻の5月30日午前10時の30分ほど前に、JR両国駅西口に到着すると早くも東京龍馬会の幹事の方の姿が見えました。

今回は、受付場所が両国駅西口ではなく、江戸東京博物館の入口ということで、幹事の方々が交代で両国駅西口と江戸東京博物館の間の案内をされていました。

龍馬伝の人気は相当なもので、今回の参加者は98名、そのうち38名が初参加とのことでした。



会費を支払うと名札が渡さ、概ね参加者が揃ったところで、今回の史跡探訪の資料が渡されました。

この資料は東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。


通路の各所に!



おや! ここにも


今回の史跡探訪のメインは、江戸東京博物館の「2010年NHK大河ドラマ 特別展 龍馬伝」の見学です。

特別展は4月27日から6月6日までの間、開催されておりあと1週間を残すのみとなっていました。


「特別展 龍馬伝」のパンフレットに

坂本龍馬は、天保6年(1835年)、土佐藩の郷士坂本家の次男として生まれました。



東京龍馬会会長の挨拶を聞く本日の参加者


商家才谷屋の系譜を引く坂本家の自由で合理的な気質に触れながら育った龍馬は、窮屈な土佐藩を飛び出し、幕臣勝海舟の門弟となり、航海術を習得します。その後、長崎で貿易会社を兼ねた政治結社・亀山社中、そして海援隊を組織します。対立していた薩摩藩と長州藩の間を調停し、薩長同盟の締結に尽力、さらには大政奉還の実現を目指して奔走し、明治維新を大きく推し進める原動力となりました。

しかし、慶応3年(1867年)11月15日、何者かによって暗殺され、「世界の海援隊を作る」という夢半ばにして33年の短い人生の幕を閉じました。

江戸東京博物館入口 切符売り場は長蛇の列



館内には龍馬関連の書籍等が・・・


館内には龍馬関連の書籍等が・・・



江戸東京博物館の隣は両国国技館です


この展覧会では、2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」放映と連動して、高知や京都などに伝わる龍馬の遺品や書簡類、幕末の騒乱を伝える歴史資料などで構成しながら、坂本龍馬の波乱に満ちた生涯を浮き彫りにしています。

と書かれているように、各地から資料が豊富に集められており見応えのあるものでした。



しかし、会場内は大変な混雑で、展示品の前には三重、四重の人垣ができており、しかも多くの方が資料を熱心に読まれるために、なかなか移動ができない状況です。

特別展会場に入場してから次の集合まで2時間30分の時間的余裕がありましたが、展示資料をゆっくりと見ることができないため、ポイントとなるところを見学した後、両国駅前の「霧島」でちゃんこ鍋をいただくことにしました。


両国国技館です



史跡探訪のコースの途中に


午後は13時30分に江戸東京博物館入口に再度集合したのち、史跡探訪のスタートとなりました。


江戸東京博物館から両国駅とは反対方向に出て、「江戸東京博前」の信号を真っ直ぐに200mほど進むと右手に墨田区緑町公園があります。

緑町公園の手前を右折して30mほど進んだところに、「江川太郎左衛門終焉の地」の標札があります。



この場所は、韮山代官江川太郎左衛門の屋敷跡です。


韮山代官江川家は、中世以来の名家であり、始祖が清和源氏源経基の孫であることもはっきりしています。

源満仲の次男頼親の宇野氏に始まり、伊豆には平安末期に移住しています。

宇野治長が源頼朝の挙兵を助けた功で江川荘を安堵されたことにより、領域支配が確定しました。


緑町公園



江川太郎左右衛門英龍終焉の地


その後鎌倉幕府、後北条氏など、その時代の支配者に仕え、北条早雲の伊豆進出の際には真っ先に臣下となり、伊豆平定に力を尽くし、本領を安堵されています。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、江川家28代英長は寝返って徳川家康に従い、代官に任ぜられました。

以後、享保8年(1723年)〜宝暦8年(1758年)の間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領5万4千石分(後に26万石)の代官として、民生にあたりました。

太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称で、中でも36代の江川英龍が有名です。

江川英龍は江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山の代官で、号の坦庵(たんなん)です。


英龍は、洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させました。

地方の一代官でしたが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、
幕閣入を果たします。

しかし、黒船来航以来、韮山と江戸を往復する生活が続き、激務のため安政2年(1855年)に病死しました。

また、江川は中浜万次郎を保護し、英語の本の翻訳家として屋敷内に居住させていました。


ハンドマイク片手に熱心に説明する幹事さん



緑2丁目西交差点付近の光景


江川英龍は、国防上の観点から、パンの効用に着目して日本で初めてパンを焼いた人物です。


このため、日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれており、江川邸の庭には「パン祖の碑」が建てられているとのことです。

第1回の兵糧パンの試験焼きを行ったのが天保13年(1842年)4月12日のことで、パンの業界ではこの日を記念して4月12日を「パンの日」としています。



緑町公園を左手に見て、「江川太郎左衛門終焉の地」の標札から真っ直ぐ200mほど進んだ「緑2丁目西」の信号を右折し、200mほど進むと「緑1丁目」の信号です。


この信号を左折し、清澄通りに入り、最初の路地を右折して150mほど進んだ左手が両国公園です。


緑1丁目の交差点



清澄通り


ライオン道の手前を左折



「勝海舟生誕の地」に関する説明を聞く参加者



「勝海舟生誕の地」の碑


江戸無血開城や咸臨丸での日本人初の太平洋横断など、幕末から明治の激動期に活躍した勝海舟は、文政6年(1823年)に父小吉、母のぶの長男として、本所亀沢町(現在は墨田区両国4丁目)の父の実家である男谷家で生まれました。


男谷邸は両国公園となり、公園内に「勝海舟生誕の地」の石碑があります。

石碑は、西郷隆盛の孫で法務大臣の西郷吉之助の筆によるものです。



両国公園から元の道路を「緑1丁目」経由「緑2丁目西」の交差点まで戻り、そのまま真っ直ぐに京葉道路に沿って600mほど進んだ「緑4丁目」の交差点を右折して、50mほど進んだ左手に「勝海舟揺籃の地」の碑があります。

勝海舟の父・小吉は、海舟4歳の時に男谷邸を出て、南割下水の天野右京の地内に転居し、ついで文政12年(1829年)7歳の時に山口鉄太郎の地内に移っています。

さらに、海舟9歳のとき本所入江町(現在の墨田区緑4丁目21番地)の旗本・岡野孫一郎の地内へと転居しました。

勝海舟は、赤坂に転居する24歳までの青少年期を墨田で過ごしました。


勝海舟揺籃の地



五柱稲荷神社(勝海舟揺籃の地の傍)


この岡野孫一郎の地所のあった場所に「勝海舟揺籃の地」の碑があります。


現在は建設会社の敷地になっており、建物の外壁に沿って碑が建てられています。

また、勝海舟の妻たみは、砥目氏の娘で深川芸者をしていましたが、岡野孫一郎の養女となって勝海舟と結婚しています。



写真は5月30日及び6月6日に撮影したものです。


東京龍馬会第47回史跡探訪その2へ



関連するホームページ

 東京龍馬会



         風来坊


緑4丁目からの展望


目次  TOP 前ページ 次ページ HOME