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円山公園の桜
円山公園の枝垂れ桜
円山公園、八坂神社 高台寺から人の流れに沿って北の方向に300mほど進むと円山公園及び八坂神社です。 円山公園は東山をバックに敷地面積約8600平方メートルの回遊式日本庭園です。 元々は八坂神社の一部でしたが、明治維新以降に国に納めるという形で分離されました。
広々とした園内には野外音楽堂、坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像、有名な枝垂れ桜などがあります。 園内にある回遊式の日本庭園は小川治兵衛が作庭したものです。 京都の桜の名所として有名であり、池を中心に茶店等が点在する園内に、祇園の夜桜として有名な枝垂れ桜が咲き誇ります。
そのほか、ソメイヨシノ、ヤマザクラ、ヤエシダレザクラなど約680本が植樹されており、ライトアップも行われます。 桜の季節には昼夜を問わず多くの人が花見に訪れます。
円山公園の枝垂れ桜は一重白彼岸枝垂れ桜という品種で、初代の枝垂れ桜は昭和22年(1947年)に枯死したため、現在は2代目が植えられている。 二条駅前に植えられている枝垂れ桜は円山公園の枝垂れ桜3代目とのことです。
坂本龍馬・中岡慎太郎の像
八坂神社の創建は、平安遷都の約150年前の斉明天皇2年(656年)と伝えられています。 八坂神社は、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)、クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)、ヤハシラノミコガミ(八柱 御子神)を祀っています。
八坂神社
都の発展とともに、日本各地から広く崇拝を集め、現在の約3千の分社が日本各地にあります。 八坂神社はながらく、「祇園社」「感神院」などと称していましたら、明治維新の神仏分離にともない「八坂神社」と改称しています。
円山公園
舞妓姿の観光客
八坂神社といえば祇園祭が有名です。 祇園祭は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年(970年)頃から八坂神社の祭礼として毎年行われるようになりました。 1384年に比叡山から独立した後は、祇園祭は経済的に力をつけていた京の町衆により行われるようになり、現在に至っています。
知恩院三門
知恩院 知恩院は東山三十六峰のひとつである華頂山の麓に、大小106棟に及ぶ伽藍がひろがる、浄土宗の総本山です。 本尊は阿弥陀如来で、開基は法然です。 承安5年(1175年)に、浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降だそうです。
知恩院三門と桜
円山公園から北方向(平安神宮・南禅寺方向)に出ると、すぐ右手に大きな知恩院の三門が見えてきます。 この三門は、元和7年(1621年)、徳川二代将軍秀忠公によって建立されたもので、高さ24m、横幅50m、使用されている屋根瓦は約7万枚だそうです。 その構造・規模において、わが国現存の木造建築として最大の楼門です。
三門をくぐり、急な石段を登ると広い台地があり、左手に本堂があります。 宗祖法然の像を安置することから、御影堂とも呼ばれています。 寛永16年(1639年)、徳川三代将軍家光公によって再建されたもので、建築様式は唐様を取り入れた和様です。
知恩院三門付近の桜
知恩院の三門と桜
奥行35m、間口45mで、周囲に幅3mの大外縁がめぐらされているというスケールの大きな建物です。 江戸幕府造営の仏堂としての偉容を示している。
知恩院本堂
御影堂の西側に建つ阿弥陀堂は、明治年間に建てられた唯一の建造物です。 その昔、阿弥陀堂は、知恩院第二世勢観房源智上人によって勢至堂の前に創建されました。 その後、宝永7年(1710年)に現在の位置に移築されましたが、明治にはいって荒廃が進み、いったん取り壊され、明治43年(1910年)に再建されたのが現在の阿弥陀堂です。
知恩院の桜
知恩院の境内にはソメイヨシノ、ヤマザクラ、シダレザクラ、シキザクラ、カンザクラなど約130本の桜が植樹されています。 なかでも日本一の高さを誇る山門付近のソメイヨシノが見所といえます。
琵琶湖疎水
インクライン 知恩院から北方向に進み、青蓮院を右手に見て更に200m程進むと「三条神宮道交差点」になります。ここから右手に700m程進むと地下鉄「蹴上駅」です。 「三条神宮道交差点」の左300mの「東山駅」から「蹴上駅」まで地下鉄を利用する方法もあります。 駅の傍の階段を登ったところがインクラインです。
琵琶湖疎水とインクライン
琵琶湖疎水の水力発電所
京都は平安京以来千年の間,わが国の首都として栄えてきましたが,明治2年に東京へ都が移り,産業も急激に衰退し,人口も急減していきました。 この衰退していく京都を復興させるため,特に産業の振興を図ろうと計画されたのが疏水事業でした。
インクラインの桜並木
琵琶湖疏水は種々の困難や障害を克服して、着工から5年後の明治23年(1890年)に完成しました。 琵琶湖疎水の水は発電にも利用され、インクラインの近くには日本で最初の水力発電所が建設されました。 特徴的な赤レンガ造りの建物は現在も残されている。
水力発電を採用したことにより、新しい工場が生まれ、路面電車も走り出し、京都は活力を取り戻しました。 それから20年後、さらに豊かな水を求めて第2疎水を建設し、同時に水道と市営電車を開業したことにより、今日の京都の町づくりの基礎ができあがったのです。 琵琶湖疏水は現在も京都に琵琶湖の水を供給し続けています。
琵琶湖疎水の完成により、琵琶湖より京都への水運が可能になりました。 九条山より蹴上にかけては、582mに36mの標高差があり、勾配が15分の1と急であるため、インクライン(傾斜鉄道)により三十石船をそのまま台車に乗せて上下させました。
現在ではインクラインは廃止されていますが、 琵琶湖から山科を経て、南禅寺から鴨川への本流、そして南禅寺から哲学の道、北白川に至る分線は上水道、防火用水として、 また、インクラインの桜並木、哲学の道を始めとする水辺に親しめる憩いの場として、 さらに、南禅寺水路閣は文化財として、竣工110年を超えた現在でも琵琶湖疎水は機能しています。
インクラインには、現在は使用されなくなった線路と記念に残された台車と船が、明治時代に京都を水上輸送都市にしようとした技術者達の夢の名残を伝えています。 また、インクラインには約90本のソメイヨシノが植樹されており、見事な桜並木を楽しむことができます。
インクラインの模型
インクラインの最も下流に琵琶湖疎水記念館があります。 琵琶湖疎水記念館の「南禅寺前」の交差点を東方向に200m程進むと南禅寺です。
京都の桜その1へ 京都の桜その3へ 風来坊
インクラインの終点 前方は京都市動物園