散策スポット・北海道東北

散策スポット目次

HOME

前ページ

次ページ

東京龍馬会第46回史跡探訪 その1 (H21.10.18)
『菊池明先生監修・龍馬を訪ねて古き江戸を歩く』


ニコライ堂



JR御茶ノ水駅聖橋口


東京龍馬会の第46回史跡探訪に参加しました。

今回のテーマは、『菊池明先生監修・龍馬を訪ねて古き江戸を歩く』です。

来年のNHK大河ドラマが「龍馬伝」となり、その内容が「岩崎弥太郎の視線から描くドラマ」ということですので、それに対応して考えられたプランです。



今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。


JR御茶ノ水駅聖橋口→ニコライ堂→岩崎弥太郎別邸跡→玄武館跡→お玉ヶ池種痘所→お玉ヶ池稲荷→十思公園→千葉定吉道場跡→日本橋三越周辺昼食→常盤橋御門→福井藩上屋敷跡→三菱一号館→土佐藩上屋敷跡→千葉定吉桶町道場跡→土佐藩中屋敷跡→佐久間象山塾跡→解散


ニコライ堂



ニコライ堂


集合時刻の10月18日午前10時の15分ほど前に、JR御茶ノ水駅聖橋口に到着すると、東京龍馬会の幹事の方々が受付作業をされておりました。

参加会費を支払うと、名前の書かれた名札が渡されました。

資料の到着が少し遅れましたが、最初の探訪ポイントのニコライ堂で配布されました。

この資料は東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。

また、今回は江戸時代に作成された絵図が4枚配布され、史跡探訪コース監修の菊池明先生から、要所要所において絵図を資料として詳しい説明がありました。

参加者は絵図を眺めながら、昔を偲ぶ史跡探訪となりました。



聖橋口から正面方向に100mほど進んだ右手がニコライ堂です。

ニコライ堂の正式名称は東京復活大聖堂です。

自治正教会:日本ハリストス正教会(日本正教会)の本部である全日本の府主教座・東京大主教座聖堂です。


岩崎弥太郎別邸跡・建て替え工事中です



岩崎弥太郎別邸跡の隣りに!


「ニコライ堂」の名前は日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライにちなんでいます。


ニコライ堂の建築面積は約800平方メートル、緑青の高さ35メートルのドーム屋根が特徴です。

日本で初めてでかつ最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築といわれています。



聖橋口の左前方に岩崎弥太郎別邸跡があります。

日立本社ビルがあった場所で、日立本社ビルが売却されて、現在は御茶ノ水セントラルビルとして立替工事中で、高い塀が巡らされており、内部は見ることができませんでした。

この高い塀の外側の御茶ノ水駅に一番近い場所に、「蜀山人終焉の地」の案内板が立っていました。



この坂の左が岩崎弥太郎別邸跡


この案内板の右前方が岩崎弥太郎別邸跡



岩崎弥太郎別邸跡を左に見ながらニコライ堂のほうに進み、最初の交差点を左折して地獄坂を下って200mほど進むと外堀通りにぶつかります。

正面に神田郵便局があります。



神田の町並み


神田の町並み



外堀通りを横切って神田郵便局の南側の路地を入り、正面のビルの脇を抜けると丁字路になります。

そこを右折して神田の古い町並みを眺めながら道なりに進んでいくと、靖国通りにぶつかります。


左折して靖国通りに沿って少し進むと須田交差点です。


右が靖国通り、右前方青信号が須田交差点



須田交差点から秋葉原方面を望む



東京メトロ神田駅入口



岩本町交番:「玄武館」は左前方


須田交差点で靖国通りを横切り、中央通りを神田駅の方向に100mほど進むと東京メトロ神田駅の入口があります。

その先にある鰻屋の先を左折し、靖国通りの脇道を岩本町交差点に向かって進んでいくと、右手に「玄武館跡」があります。

岩本町交差点の50mほど手前です。



鰻屋の先を左折です



須田交差点から靖国通りに沿って進むと、岩本町交差点の手前右側に岩本町交番があります。

この岩本町交番を右に見てUターンする形で脇道に入ると30m程進んだ左側が「玄武館」です。

岩崎弥太郎邸跡から玄武館までは約1キロメートルです。



玄武館跡



玄武館跡・右文尚武の碑(神田東松下町25番地)

玄武館は、北辰一刀流で知られる千葉周作が開いた剣術道場で、斉藤弥九郎の新道無念流「練兵館」、桃井春蔵の鏡心明智流「士学館」と並んで江戸の三大道場と呼ばれました。

文政8年に日本橋品川町からお玉ヶ池に移転しました。

坂本龍馬の師匠、千葉定吉の桶町千葉を小千葉。お玉ヶ池の玄武館を大千葉と称しています。


玄武館跡



玄武館跡


隣には幕末の漢学者として知られる東條一堂の漢学塾「瑶池塾」があり、互いに塾生が通ったので並んで隆盛したとのことです。

さらに近所には梁川星巌の「玉池吟社」、佐久間象山の「象山書院」があり、昔ながらに武芸と学問の盛んなところだったようです。



玄武館は、最盛期には門弟数3000人、敷地面積3600坪で、道場の広さだけでも8間四方もあったとのことです。


坂本龍馬も安政5年以降には、一時期この玄武館で学んだという話もあります。

跡地にある碑文「武尚之右」は千葉周作と東條一堂両名の偉業を讃えるものです。


玄武館跡



水天宮通りの標識


路面の標示



お玉ヶ池種痘所記念碑


玄武館跡のすぐそばにある岩本町交差点は変則的な大きな交差点で、ここで靖国通りと昭和通り及び水天宮通りと交差する形になっています。

靖国通りに沿って昭和通りを横切り、次の交差点を右折して水天宮通りに入り、100mほど進んだところが岩本町3丁目の交差点です。

この交差点に東京大学医学部が作った碑があります。



この碑には、「お玉ヶ池種痘所は東京大学医学部のはじめにあたるので、その開設日安政5年(1858年)5月7日を、医学部の創設の日と定め、昭和33年(1958年)5月7日に創立百周年記念式典をあげた。いまこのゆかりの地に、由来を書いた石をすえまた別に種痘所跡にしるしを記念とする」ことが記載されています。

碑は1961年11月3日に建てられたものです。


お玉ヶ池種痘所記念碑



お玉が池稲荷



お玉が池稲荷


お玉が池稲荷(岩本町2丁目5番地)

岩本町3丁目の交差点から水天宮通りを70mほど進んだ最初の路地を、右に30mほど入ったところが、お玉が池稲荷です。

かつてこの地には、石神井川に注ぐ、不忍池よりも大きな桜が池がありました。

池の畔の茶屋の看板娘お玉は美人で有名で、二人の男の間で悩み、桜ヶ池に身を投げたという言い伝えがあって、池の畔にお玉の霊を鎮めるためにお玉が池稲荷が建てられました。



このことから桜が池はお玉が池といわれるようになりました。

そのお玉が池も安政の頃には小さなものにあり、現在ではその跡形もなく、史蹟としてお玉が池稲荷を祀ってあるのみとなっています。


お玉が池種痘所跡



お玉が池種痘所跡



お玉が池種痘所は、牛痘接種の普及が名目でしたが、蘭方医の団結と医学の教育、研究、普及が真の目的であったようです。

ところがわずか半年後に類焼にあい、下谷和泉橘通りに移転し幕府直轄となりました。

慶応4年には明治新政府に接収されて、大病院、ついで医学校兼病院となりました。

東大医学部の前身です。

種痘所跡(岩本町2丁目)

お玉が池稲荷から水天宮通りに戻り、100mほど進んだ2つ目の路地の入り口に、お玉が池種痘所跡の標柱があります。

天然痘予防のための牛痘接種の普及を図ることを目的として、安政5年(1858年)に伊東玄朴、大槻俊斎らの呼びかけで、82名の江戸在住の蘭方医が資金を出しあって神田お玉が池にあった川路聖謨の下屋敷に種痘所を開設しました。

これがお玉が池種痘所で、その場所に標柱が立てられています。


お玉が池種痘所跡



十思公園



十思公園


十思公園
(日本橋小伝馬町5−2)

お玉が池種痘所跡から水天宮通りを100mほど進んだ岩本町1丁目で神田金物通りを横切り、さらに300mほど進むと、右手に大安楽寺があり、そこの路地を50mほど入ったところが、十思公園です。



十思公園はいまでこそ非常にのどかな公園ですが、十思公園に隣接する大安楽寺、十思スクエアを含む地域には、慶長年間から明治8年に市ヶ谷監獄が設置されるまでの約270年間、伝馬町牢屋敷が置かれていました。


吉田松陰の石碑



吉田松陰終焉の地


面積は2618坪の広大なものであり、さらにこの敷地の四方を堀でめぐらしていました。


獄舎は、揚屋敷、揚屋、大牢および女牢部屋に別れ、明暦3年(1657年
)の収容囚人は130人であったとのことです。

江戸時代の刑法では、現代で言う懲役、禁固に類するものが存在せず、伝馬町牢屋敷は、刑務所というよりも未決囚を収監し、死刑囚を処断する拘置所に近いものでした。

よく時代劇で耳にする「江戸市中引廻しのうえ討ち首」の台詞の意味は、この伝馬町牢屋敷を出て、江戸市中を見せしめのためぐるりと廻り、伝馬町下屋敷に戻り、死刑にするという意味なのです。



幕末期の安政の大獄では、橋本佐内、頼三樹三郎、吉田松陰など多数が収監され、所内の刑場において処刑されています。

つまり、十思公園は「吉田松陰終焉の地」であり、公園内には吉田松陰の石碑があります。

その石碑には辞世の句が刻まれています。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂


吉田松陰辞世の句



大安楽寺



大安楽寺


大安楽寺は高野山真言宗の準別格本山です。

山号は新高野山と称し、本尊は弘法大師です。

この場所が小伝馬町の牢獄・刑場跡であったことから、霊を慰めるために、明治8年に建立されました。




延命地蔵尊

境内には、慰霊のための地蔵尊があり、死を遂げた人々を慰めています。


江戸伝馬町処刑場跡



椙森神社では恵比寿祭りの準備が!



椙森神社


椙森神社(日本橋堀留町1丁目10番地2)

十思公園から水天宮通りに戻り、50mほど進むと小伝馬町交差点です。

ここで、江戸橋通りを横切りますが、通りの名称も水天宮通りから人形町通りに変わります。

人形町通りを400mほど進み、堀留町交差点の50mほど手前の狭い路地を右手に入り、50mほど進んだところが、椙森神社です。



椙森神社は、江戸が未だ武蔵野の原と言われた時代の創建で、2009年で創建1078年を迎えます。

江戸時代には、神田の柳森、新橋の烏森とともに江戸三森の一つであり、また江戸商人の発祥の地としても栄えてきておりますが、さらに神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つに数えられるほど数多くの富籤が興行されました。


椙森神社



富塚


この富興行は、江戸庶民の楽しみの一つでもあり、庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができます。


富塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されましたが、関東大震災で倒壊しました。

現在の富塚は昭和28年に再建されたものです。

この富塚は、他に類を見ないといわれ、日本で唯一のものです。

今日では、宝くじの元祖として多くの人々が、心中祈願しているようで、今回の史跡探訪と参加された方の多くが、宝くじの当たることを祈願されていました。



掘留公園 この公園の右方向に千葉定吉道場跡があります



椙森神社を反対方向に出て左折して30
mほど進んだ最初の交差点を右折すると、左前方に日本橋保健センターの高いビルがあります。

このビルの下を通過したところの公園が堀池公園です。

千葉定吉道場跡(日本橋堀留町1−5)

坂本龍馬は、嘉永6年3月に剣術修行のために江戸に出て、土佐藩邸へ寄宿して千葉道場に通ったとされています。

この時、入門したのは「大千葉」といわれる、お玉が池の千葉周作の道場ではなく、「小千葉」と呼ばれる千葉周作の弟である千葉定吉の道場であったといわれています。


日本橋保健センター



日本橋堀留町1丁目5番地


「小千葉道場」の場所は定かではありませんが、現在では少し離れた2ヶ所が定説となっているようです。


その一つは、嘉永6年の板切絵図には、新材木町、現在の日本橋堀留町1丁目5番地に「千葉定吉」の名前があることから、ここが道場跡ではないかと推定されている。

跡碑などはありませんが、堀留公園のすぐ隣に堀留町1丁目5番地がありました。

また、1年後の嘉永7年の板切絵図には、鍛冶橋付近の狩野屋敷の一角に「千葉定吉」が刻まれている。このため、この間に、道場の移転が行われたのではないかと推定されています。


三越日本橋本店



堀留公園から日本橋保健センターを背にして右手に200mほど進むと昭和通りです。

上を高速道路が走っています。

右折して100mほど進んだ本町2丁目の信号で昭和通りを横切って、真っ直ぐ300mほど進んだ左手が日本橋三越本店です。


日本橋保健センターの前から公園に入らずにそのまま進むと本町2丁目の信号です。


三越日本橋本店



日本橋三越本店前で昼食休憩となりました。


 第46回史跡探訪その2へ



関連のホームページ

 東京龍馬会


       風来坊


目次  TOP 前ページ 次ページ HOME