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東京龍馬会第46回史跡探訪 その2 (H21.10.18)
『菊池明先生監修・龍馬を訪ねて古き江戸を歩く』


日本銀行



日本銀行


日本橋三越本店から日本銀行の傍を通り、常盤橋交差点を右折して100mほど進んだ左手が常磐橋です。


常磐橋は天正18年(1590年)の架橋といわれ、東京で最も古い橋のひとつです。



常磐橋 前方は日本銀行



当初は木造りでしたが、明治10年(1877年)に現在のような洋式石橋に架け替えられました。

その際に「盤」の文字には皿が使ってあり縁起が悪いので、石の字がある磐に変えたという説があります。

常磐橋



前方は常盤橋


常磐橋は老朽化が激しく、車道橋の役割は南側に建造された常盤橋に譲り、現在は人が渡るばかりとなっています。


常磐橋の下を流れる日本橋川を小さな船で観光することもできます。


常盤橋御門跡



常盤橋御門跡(大手町2丁目)

常磐橋のすぐそばに常盤橋御門跡があります。

この場所は江戸城大手外堀の正門にあたり,
江戸初期には浅草口または大手口といわれ、奥州街道に通じる重要な場所でした。

その後、門が設けられ常磐橋御門と呼ばれるようになりました。


常盤橋御門跡



常盤橋御門跡


この門は、敵が攻めにくく、味方が守りやすいように、枡形門に作られていました。


江戸御門の一つに数えられており、門跡は昭和3年(1928年)に国の史跡に指定されました。


福井松平家上屋敷跡(大手町2丁目)

徳川家康の次男、結城秀康に始まる福井松平家は、親藩・御家門であり血筋からも将軍家に近く、御三家・御三卿に続く家柄でもあったので、柳営に近い場所に藩邸は造られていました。

寛永10年に辰ノ口北角に上屋敷を拝領しました。

この3代藩主忠昌の時代の藩邸の様子は、江戸東京博物館に模型として展示されています。


常盤橋御門跡から福井松平家上屋敷跡方向を望む



大手町の高層ビル街



新丸の内ビルディング(新丸ビル)


明暦3年に霊岸島に上屋敷を移したあと、聖徳3年から常磐橋に上屋敷を拝領して明治維新まで続きました。

坂本龍馬も、16代藩主・松平春嶽に拝領するために何度かここを訪ねることがあったことと思われます。



常盤橋門跡を常磐橋とは反対方向に出て、右手に進むとJRのガードがあり、ガードを潜った右手一帯が福井松平家上屋敷跡です。

NTTビルなど多くのビルが建っています。


新丸の内ビルディング(新丸ビル)



東京駅丸の内駅舎



東京駅丸の内駅舎


JRガードから200
mほど進んだ大手町1丁目の交差点を左折しました。

左折して500mほど進んだ左手が東京駅です。

現在、東京駅丸の内駅舎を創建当時の3階建てに復元する工事が進められています。

また、駅前広場も再整備されるとのことです。



丸ビル


新丸ビル



駅前には有名な丸の内ビルディング(通称丸ビル)、新丸の内ビルディング
(通称新丸ビル)を初めとして、高層ビルが林立しています。

また、東京駅の丸の内南口には解体途中の東京中央郵便局がありました。

政権が変わりましたが、東京中央郵便局の行方は?


解体工事中の東京中央郵便局



三菱一号館



三菱一号館


東京駅から線路に沿って約500メートル進んだところが東京フォーラムです。

東京フォーラムの右手前が三菱電機本社です。

三菱電機本社を右に見ながら、東京フォーラム手前の信号を右折して、100mほど行ったところに三菱一号館美術館があります。

三菱一号館は東京駅、ニコライ堂、鹿鳴館などを設計したジョサイヤ・コンドルの設計により明治27年(1894年)に竣工した丸の内最初のオフィスビルです。

明治40年代には、三菱一号館を中心として一丁倫敦と呼ばれる町並みを形成するに至りました。



三菱一号館の復元に際しては、外観デザインはもちろんのこと、当初設計図、解体時実測図、内外装写真、保存部材などの資料を基に、現在の建築基準に適合させながらも、構造・材質まで可能な限り忠実に再現したとのことです。


使用した赤レンガ230万個は、当時に近い製法で生産されたとのことです。

また、旧三菱一号館の保存部材についても一部を修復・再利用しています。


三菱一号館



三菱パークビルディング


岩崎弥太郎は、言わずと知れた三菱財閥の創立者で、来年のNHK大河ドラマの準主役です。
土佐国安芸郡井ノ口村の地下浪人の岩崎弥次郎の長男です。

伯父・岡本寧浦の塾「紅友社」で歴史と漢詩を学び、次いで江戸の儒官である安積良斎の私塾、さらに高知城外の吉田東洋の「少年塾」で治国経世の理論を学びました。

後藤象二郎の知遇を得て慶応3年(1867年)長崎の土佐商会に派遣され、艦船、武器の買い付けと土佐物産の輸出について欧州の各商社と渡り合い、事業家としての腕を磨いたとのことです。

この間、海援隊の金庫番を務め、坂本龍馬ともおおいに付き合いがあったといわれています。


明治元年に土佐商会が閉鎖されると、大阪の大阪商会に移り、海運業に従事します。

明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝いりで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手して海運業を始め、三菱商会を設立します。

この三菱商会は弥太郎が経営する個人企業で、この時点で弥太郎の経営権と所有権が確立します。


この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて、三菱のスリーダイヤのマークを作ったといわれております。


三菱パークビルディング



三菱パークビルディングへの入口


岩崎弥太郎とその弟・岩崎弥之助(三菱の2代目総帥)から始まる岩崎家は経済界の代表的な名門家系として知られています。

三菱の3代目総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男であり、4代目総帥の岩崎小弥太は弥之助の長男で、岩崎弥太郎の甥にあたります。



岩崎弥太郎物語(坂本龍馬と弥太郎のことも書かれています)


 岩崎弥太郎物語



三菱電機本社ビル前



三菱電機本社ビル


新撰組屯所跡(丸の内2−7)

慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いで幕府は大敗します。

そして将軍慶喜は大阪城を密かに出て、江戸へ向かいます。新撰組も多くの負傷者、戦死者を出したのち、海路、江戸へ引き上げることになります。


品川に上陸した新撰組は、重傷の近藤勇、重病の沖田総司や軽傷者を除いて品川宿の釜屋へと停泊します。



20日に幕府は、新撰組に江戸の屯所を用意します。

江戸城鍛冶橋門内の、日向高鍋藩主秋月種殷の実弟、若年寄秋月種樹の役宅だった屋敷に入ることになります。

現在、三菱電機本社ビルが建っている場所です。

そして、ここで負傷入院していた隊士たちと合流し、3月、新たに甲州鎮撫隊を組織して江戸から出撃しますが敗戦します。


三菱電機本社ビル



東京フォーラム

土佐藩上屋敷(丸の内3−5)

現在、東京フォーラムの建っている場所が、かつて土佐藩上屋敷のあった場所です。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では、坂本龍馬はここ上屋敷に寄宿して桶町千葉へ通ったと書かれていますが、鍛冶橋御門内にあって、現在の大使館にも等しいような上屋敷に一般の藩士が寄宿していたのであろうか。

まして、御門を通るときには鑑札が必要で、一郷士の倅がそのようなものを手にしていたのかは疑問符の残るところです。


千葉定吉道場跡(八重洲2−7)

東京フォーラムからJR線の下を通過して東に進んだ最初の交差点が鍛冶橋です。

坂本龍馬は、嘉永6年3月、19歳で剣術修行のために江戸に出て、北辰一刀流の千葉定吉道場に入門しています。

日本橋堀留町の「千葉定吉道場跡」で述べたように、嘉永6年の切絵図を見ると新材木町に千葉定吉の名前が記載されています。


鍛冶橋交差点



鍛冶橋交差点


さらに、翌年の嘉永7年の切絵図には鍛冶橋前の狩野屋敷の一角にもまた千葉定吉の名前が記載されており、移動したのではないかと思われます。


しかしながら、この2つの道場とも、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に書かれている桶町千葉とは必ずしもいえないようです。

さらにその後、桶町に移ったのではないかという説もあるようです。



京橋親柱、煉瓦銀座の碑、ガス燈


京橋親柱

鍛冶橋の交差点を右折して200mほど進み、高速道路を潜った先を左折すると、銀座桜通りとなります。銀座桜通りを400mほど進んだところが京橋です。

京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。

橋は、昭和34年(1959年)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見ることができませんが、その名残をとどめるものとして、3本の親柱が残っています。


京橋親柱(南詰西側)


京橋親柱(北詰東側)



橋北詰東側と南詰西側に残る2本の親柱は、明治8年(1875年
)当時の石造りの橋のものです。

江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形で、詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれの橋の名が彫られております。



一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正11年(1922年)に架けられた橋のものです。

石及びコンクリート造りで、照明装置を備えたものです。




築地警察署銀座一丁目交番


京橋親柱(南詰東側)


京橋の親柱は、明治、大正と2つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に指定されています。

旧京橋の親柱を見て、ふと高知のはりまや橋を思い出しました。


煉瓦銀座の碑(中央区銀座1−11)

旧京橋の親柱の横に煉瓦銀座の碑があります。

明治5年に銀座、京橋、築地に及ぶ大火があって、焼失面積は28万8千坪にも及びました。

当時、東京府知事だった由利公正は欧米型の不燃都市を目標に復興を計画し、銀座から着手、従来の8間幅を15間の街路に広げて、沿道の町並みを煉瓦建築としました。


ガス燈


煉瓦銀座の碑



また、街路照明には、ガス燈が用いられました。

「銀座煉瓦の碑」は明治時代に実際に使われていた煉瓦を当時と同じ「フランス積み」に敷き詰め、煉瓦の街を照らしたガス燈の燈火も復元しています。



旧京橋の橋の袂に警察博物館があります。

警視庁創立120年を記念して、旧「警視庁広報センター」の一部を改修し、平成6年に開設しました。

館内の1階から4階において、警察の草創期から現代に至るまでの歴史的資料約800点を展示しています。


警察博物館 白バイに乗車して記念撮影



赤バイ(白バイの前身)


3階の武器・凶器の展示コーナーに江戸末期・明治初期のピストルが展示されていましたが、残念ながら撮影禁止でした。



日曜日の銀座は歩行者天国です



銀座通り口の交差点に、白色の銀座テアトルビルが建っていますが、このビルに沿って進み、新京橋の交差点で昭和通りを横切って100
mほど進むと京橋プラザビルがあります。

京橋プラザビルを過ぎた交差点を右折して300mほど進むと左手に三吉橋があります。

三吉橋を渡ったところが中央区役所です。


銀座テアトルビル



中央区役所

土佐藩築地中屋敷跡(中央区築地1−1−6)

この中央区役所のある場所が、土佐藩築地中屋敷跡です。

坂本龍馬は、安政3年9月29日の相良屋源之助あての手紙に「(前略)築地屋敷に罷在候。」と書いている。この場所で一時期を過ごしていたのは間違いないようです。

ここから程近い京橋蜊(あさり)河岸、現在の新富1−4には鏡心明智流桃井春蔵道場「志学館」があり、武市半平太、岡田以蔵、山本卓馬など多くの土佐藩士が通っていました。



また、ここからならば、最初新材木町にあった千葉定吉の道場もそれほど遠くありません。

坂本龍馬は、武市半平太、大石弥太郎の二人と同部屋だったとのことです。

土佐藩は、鍛冶橋御門内に上屋敷、そしてここ築地中屋敷。そして砂村と品川に下屋敷と、同じく品川に抱屋敷を持っていました。


中央区役所



歌舞伎座



歌舞伎座


中央区役所から高速道路に沿って西の方向に500mほど進むと万年橋交差点で晴海通りと交差します。

ここを右折して200mほど進むと右手が歌舞伎座です。

歌舞伎座の先の三原橋の交差点を左折して200mほど進んだ、電源開発ビルのある場所が、佐久間象山邸跡です。


嘉永5年5月、佐久間象山はそれまでお玉が池にあった塾を、木挽町の浦上四九三郎方に移しました。

嘉永6年3月付の「及門録」門人名簿には、勝海舟、河井継之助、吉田松陰、宮部鼎蔵らの名前が見られます。

坂本龍馬も、嘉永6年12月朔日に象山の門下生となっています。


歌舞伎座



電源開発株式会社のビル


翌7年4月6日、象山が松陰の踏海未遂に連座して投獄、国許に蟄居を命ぜられるまでの短い期間でしたが、その影響は計り知れないものはあります。

ちなみに、坂本龍馬が江戸に出たのは、黒船対策として。砲術修行のためだったのではないのかという話もあります。



銀座4丁目から銀座1丁目方向を望む



銀座4丁目から銀座8丁目方向を望む



史跡探訪のあとはいつものとおり懇親会がありました。

銀座6丁目の居酒屋での懇親会を終えて外に出ると、銀座通りのネオンが綺麗に輝いていました。

銀座4丁目界隈の夜景です。


銀座4丁目 銀座三越



銀座4丁目


銀座4丁目


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関連するホームページ

 東京龍馬会

          風来坊


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