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皇居東御苑二の丸庭園
皇居東御苑は、東京都千代田区の皇居の東側に付属している広さ約21ヘクタールの庭園です。 江戸城の本丸、二の丸、三の丸に該当します。 本丸は将軍の居所や政務をつかさどる御殿が建ち並び、二の丸には将軍別邸や世継の御殿がありました。
大江戸
湖水の色
明治維新後の明治5年(1872年)に本丸、西の丸、吹上など旧江戸城内郭が皇居と定められました。 昭和35年(1960年)より皇居の付属の庭園として整備され、昭和43年(1968年)から一般開放されています。 苑内は緑豊かな雑木林に日本庭園や皇室関連の施設、江戸城の遺構などが残されており、国内のみならず海外からも多くの旅行者が訪れます。
皇居東御苑 右上赤字の現在地が北桔橋門の内側
北桔橋門
今回は、「お散歩写真隊」のオフ会で訪れることになりました。 北の丸公園でランチオフののち、北桔橋門から入苑し、苑内を散策したのち、大手門から出ました。 「お散歩写真隊」の多くのメンバーの、皇居東御苑の一番の狙いは、二の丸庭園の花菖蒲にあったようです。 皇居東御苑の略図です。
北桔橋門(きたはねばしもん)は、有事の際に橋を跳ね上げて往来を遮断できることから「桔橋(はねばし)」と呼ばれています。 北桔梗門ではありません。 本丸大奥に近い門で、北桔橋門を入ると正面に天守台(江戸城天守跡)が聳え立っています。 天守台の周りではあじさいが見頃を迎えていました。
北桔橋門から平川濠を望む
北桔橋門から北の丸公園を望む
天守台周辺のあじさい
北桔橋門(地図の現在地)から天守台を望む
天守台(江戸城天守跡)は本丸の北端に位置しています。 最初の天守は1607年に完成しました。3代将軍家光が大改修を行い、江戸幕府の権威を象徴する国内でもっとも大きな天守閣が完成しました。 外観5層、内部6階建てで、天守台を含めた高さが58mあり、天気が良ければ房総半島からでも見ることができたといわれています。
本丸跡から天守台を望む
しかし、完成わずか19年後の1657年、明暦の大火(振り袖家事)で、飛び火により全焼しました。 再建策もありましたが、家光の弟である保科正之(会津松平家藩主)の反対により再建は延期され、以後再建されませんでした。
天守台から丸の内方面を望む
天守台から北の丸公園を望む
天守台に上ると前方に広々とした芝生が広がっています。 ここが江戸城本丸跡です。 本丸御殿は、表・中奥・大奥の三つからなっていました。 表御殿は、諸役人の執務や将軍の謁見の場など公的な建物で、最も格式の高い「大広間」は正月などに諸大名が参集する場所でした。
江戸城本丸跡
明治維新の直後、本丸跡は焼け野原で、第2次大戦後も野菜畑や桑畑の時代もありました。 本丸跡は気象台発祥の地でもあり、明治期から昭和30年代まで気象庁の官舎もありました。 明治4年(1871年)正確な時間を知らせるために、ここに午砲台(ドン)が設置され、昭和4年(1929年)に廃止されるまで、「ドン」の愛称で東京府民に親しまれていました。
桃華楽堂
本丸跡傍らあじさい
天守台のすぐ隣に桃華楽堂があります。 香淳皇后の還暦を祝い、1966年に建てられた音楽堂です。
天守台から見て、本丸跡の右手の木立となっているところに、本丸大広間と白書院(将軍との対面所)とを結ぶL字形の廊下「松の大廊下」がありました。 ここが「忠臣蔵」で有名な元禄14年(1701年)3月4日、赤穂藩主の浅野匠頭長矩が高家筆頭の吉良上野介に斬りかかる刃傷事件が起きた場所です
本丸で二番目に長い廊下といわれ、西へ約19メートル、北へ約31メートル、幅は約5メートルであったと伝えられています。 障壁画に「松」を主題にした絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれていました。 なお、「忠臣蔵」に関連する、四十七義士墓所、大石内蔵助良雄の銅像、首洗井、義士館などは品川の泉岳寺に残っています。
皇居東御所は外国人にも人気です
本丸跡の天守台と反対側に石垣に囲まれた坂道があります。 この坂は、もともと江戸城東側に広がる低地と本丸の位置する台地との境にあたり、この坂の上に本丸正門の中雀門がありました。 中雀門は、文久3年(1863年)の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼しました。
中雀門と大番所間の坂道
大番所
坂道を下っていくと、坂の途中に大番所、坂を下ったところに百人番所があります。 番所は、警備の詰所のことです。 現在、百人番所、同心番所、大番所の三つが残っています。
大番所は大手中之門の内側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって整備されていたといわれています。 江戸城本丸へは最後の番所であり、警備上の役割はきわめて重要であったと考えられています。 大番所は再建されたものですが、背後の15段の射撃用の石段も古く風格のある立派な建物です。
百人番所
百人番所から二の丸庭園への散策路
百人番所は長さ50mを超える大きな建物です。 大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所です。 鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。各組とも与20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たりました。 同心が常時100人詰めていたところから百人番所と呼ばれるようになったといわれています。
二の丸庭園の花菖蒲
百人番所の反対側に案内図があり、そばが三叉路になっています。 案内図のある三叉路を大番所からきた場合は左に、大手門から入ってきた場合は右に曲がって少し進むと前方に広い庭園が拡がってきます。 そのまま進み、最初の三叉路を右手に道なりに進んでいったところが二の丸庭園です。
連城の壁
武蔵川
江戸時代、二の丸には、小堀遠州が造り、3代将軍の徳川家光の命で改修されたと伝えられる庭園がありましたが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃していました。
鳳台
煙夕の空
二の丸庭園
現在の回遊式の庭園は、昭和43年の皇居東御苑の一般公開の開始に当り、9代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られたものです。 二の丸庭園では、花菖蒲が見頃を迎えていました。
諏訪の茶屋は、昭和43年の皇居東御苑の一般公開開始に当たり、吹上御苑からここに移築されました。 様式は数奇屋風の書院茶屋です。 外観は切妻の棟から二つの入母屋の棟を突出させて、やや複雑な形を呈しています。 しかし、ごたごたした感じはまったく無く、典雅なたたずまいをしています。
ノリウツギ
昼顔
同心番所には大手三の門を警固する与力・同心がつめていました。 同心とは、江戸幕府の諸奉行・所司代・城代・大番頭などの配下に属し、与力の下にあって、庶務・警備の仕事をしていた下級役人を総称したものです。 同心番所の屋根瓦の一番高いところには、徳川家の葵御紋の妻瓦があり、軒先は普通の三巴紋の瓦となっています。
二の丸庭園 諏訪の茶屋
同心番所
大手三の門は、大手門から三の丸尚蔵館の前を過ぎた正面のところにあり内側には同心番所があります。 この門も本来は枡形門で、両側和水堀でした。 ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家だけで、それ以外の大名はここで降ろされ、検問を受けました。 このことから、この門は下乗門とも呼ばれました。
三の丸尚蔵館には宮内庁所管の美術品、絵画など貴重な品々を展示しています。 1993年に開館しました。 入館料は無料です。
三の丸尚蔵館
大手門
旧大手門渡櫓の鯱
大手門は旧江戸城の正門で、大名はここから登城していました。 大手門の高麗門をくぐって中に入ると、枡形と呼ばれる四角く囲まれた広場になっています。 この枡形は、敵が城内にまっすぐに侵入するのを防ぐとともに、攻撃の際には兵の集合場所にもなる施設で、周囲の白壁には「狭間」という銃を撃つための穴があります。 江戸城の城門の多くは、この形式でした。
大手門から中雀門までは、大名が城内に入る際の登城路にあたります。 実際に歩いてみると、大部分は高くそびえる石垣に囲まれた坂道で、大名はわずかばかりの供を連れていくつもの門や番所を通らなければならず、登城路それ自体が幕府の権力を見せ付けるための仕掛けであったとわかります。
大手門高麗門
平川門
平川門は家康の入国以前からこの門の前を平川が流れており、粗末な木戸門があったといわれています。 1635(寛永12)年桝形門と番所が築造されました。 関東大震災で被害にあい、再建されたものですが、江戸時代の桝形門の形式が残されています。 この門は三の丸の正門でしたが、大奥の女性たちの出入りする通用門でもありました。
開苑日
原則として月曜日と金曜日以外の各日に開苑しています。 月曜日及び金曜日が天皇誕生日以外の祝日の場合は開苑されます。 月曜日が祝日の場合は翌火曜日が閉苑となります。
平川橋
大手門から大手濠を望む
アクセス 皇居東御苑には、大手門、平川門、北桔橋門の各門より出入りできます。 大手門:大手町駅から徒歩5分。二重橋駅から徒歩10分。
平川門、北桔橋門:竹橋駅から徒歩5分。 風来坊