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東京龍馬会第45回史跡探訪『維新の人々を偲ぶ』 (H21.5.24)


椿山荘



集合場所は高速道路の下


東京龍馬会の第45回史跡探訪に参加しました。


今回のテーマは、維新の人々を偲ぶ『江戸川橋から雑司ヶ谷』です。

今回の参加しやすいようにとの配慮から、史跡探訪のコースが、『午前コース』『午後コース』の2つに区分して設定されました。


『午前コース』
東京メトロ有楽町線江戸川橋駅1a出口→椿山荘(山県有朋別邸跡)→新江戸川公園(肥後熊本細川藩邸跡)→焦雨園(旧田中光顕邸跡)→護国寺駅周辺で各自昼食

『午後コース』
東京メトロ有楽町線護国寺駅→護国寺(田中光顕、大隈重信、三条実美、清岡公張、山田顕義、山県有朋)→雑司が谷霊園(中浜万次郎、夏目漱石、岩瀬忠震、小泉八雲、千葉定吉・重太郎、小栗忠順)→鬼子母神→東京メトロ副都心線雑司ヶ谷駅(解散)


集合場所のそばを流れる神田川



椿山荘の庭園

集合時刻の5月24日午前10時30分の15分ほど前に、東京メトロ有楽町線江戸川橋駅の指定出口を出ると、東京龍馬会の幹事の方々が受付作業をされており、参加会費を支払うと、名前の書かれた名札と今回の史跡探訪に関する資料が渡されました。

資料は東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。



本日も生憎の雨でしたが、受付場所となった神田川に架かる橋の上を高速道路が走っており、雨宿りには最適でした。


今回は、午前コース、午後コースと2つにコースが区分されているため、午前のみ参加、午後のみ参加の方もおられたようで、午前の参加者はいつもよりやや少なかった感じです。


椿山荘の庭園



椿山荘の庭園



椿山荘の庭園

江戸川橋駅から神田川を渡り、2つ目の目白坂下の信号を左折して、目白通りに沿ってなだらかな上り坂を300mほど進むと、左手に最初の見学ポイント椿山荘があります。

武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置している椿山荘周辺は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「椿山(つばきやま)」と呼ばれていました。

江戸時代には上総久留里藩黒田家3万石の中屋敷がありました。



明治の元勲、山県有朋が西南戦争後の明治11年(1876年)に私財を投じて「つばきやま」を購入し「椿山荘(ちんざんそう)」と命名しました。


山縣は明治天皇をはじめとする当時の政財界の重鎮を招き、椿山荘で国政を動かす重要な会議を開いていたようです。


椿山荘の庭園



椿山荘の庭園


大正7年(1918年)には、当時関西財界で主導的地位を占めていた藤田組の二代目当主・藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、名園をありのまま残したいという山縣有朋の意志を受け継ぎました。

しかし、昭和20年の空襲で、山縣公爵の記念館や1千坪の大邸宅、樹木の大半が殆ど灰燼に帰してしまいました。



昭和23年(1948年)、藤田鉱業(旧藤田組)から藤田興業の所有となります。藤田興業の創業者となった小川栄一は「戦後の荒廃した東京に緑のオアシスを」の思想の下に、1万有余の樹木を移植し、名園椿山荘の復興に着手します。

昭和27年に結婚式場として営業を開始しました。


椿山荘の料亭「錦水」



椿山荘の庭園


昭和30年(1955年)に藤田興業の観光部門が独立して藤田観光が設立されると、椿山荘の経営は藤田観光に移管されました。

平成4年(1992年)にヨーロピアンスタイルのラグジュアリーホテル「フォーシーズンズホテル椿山荘東京」がオープンしています。

○ 昭和58年完成の新館

○ 昭和62年完成の料亭「錦水」


庭園内に丸型大水鉢がありました。

この丸型大水鉢は、京都府東山区粟田口から蹴上を経て山科に通じる日ノ岡峠にあったもので、木食上人養阿正禅(もくじきしょうにんようあしょうぜん)が旅人のために作ったものと伝えられています。

この水鉢は牛車の轍が刻まれた敷石とともに保存されていますが、日ノ岡峠を越える人々が水鉢に溢れる清水で肌を、冷やし喉を潤した往時がしのばれます。


直径約1m、高さ約58cmです。



蕉雨園入口で幹事からの説明を聞く参加者



蕉雨園


椿山荘を出て左に約150
m進むと左側に道幅の狭い路地があります。

目白台3丁目の信号の一つ手前の路地です。


この路地を200mほど進むと左手に蕉雨園があります。



蕉雨園は宮内大臣を10年にわたり務めた田中光顕伯により、明治30年に建設されました。施工は、三重県桑名の棟梁大河喜十郎と言われています。

大正8年、田中光顕伯は、この邸宅を当時の財界人、渡辺治右衛門氏(渡辺銀行総裁)に譲り、その後昭和7年に講談社初代社長野間清治が購入しました。


蕉雨園園内です



蕉雨園入口ではお茶会参加者のチェックが

園内にある松尾芭蕉ゆかりの芭蕉庵、五月雨庵にちなみ、蕉雨園と名付けられています。

松尾芭蕉は、江戸時代初期に、深川芭蕉庵に移るまでの4年間、芭蕉庵に住んでいました。

蕉雨園は椿山荘に隣接して約6000坪の敷地をもち、涌き水のあふれる大池と回遊式庭園に囲まれた明治の貴重な建物です。


普段は非公開です。この日は園内で茶会が開催されるため門は開いていましたが、入り口でチケットの確認が行われていました。


蕉雨園からそのまま路地を100mほど進むと右手に永青文庫があります。

永青文庫から山の斜面を降りたところが新江戸川公園です。

永青文庫・新江戸川公園の周辺は、肥後熊本藩54万石の大名であった細川家の下屋敷跡です。

細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪でしたが、その後少しずつ拡張し、新江戸川公園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地でした。


永青文庫



永青文庫


永青文庫は、南北朝時代から現在に至る歴代細川家25代の間に蒐集された細川家の歴史資料や文化財、及び24代護立氏が蒐集した近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以って昭和25年に設立されました。


昭和47年に登録博物館となり一般に展示公開されています。


新江戸川公園は、細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした回遊式泉水庭園です。

目白台台地が神田川に落ち込む斜面地を活かし、変化に富んだ景観をつくり出しています。

湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。

池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。


新江戸川公園



新江戸川公園

その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。

山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。所々に開けた空き地があり、ベンチが置かれています。

もともとそこからは、木々の梢の間から池や低地の町並みを見渡せるようになっていたようですが、木の生長とともに森の中にいるような雰囲気となっています。


永青文庫から路地を目白通りまで戻り、左に100mほど進んだ目白台3丁目の信号で目白通りを横切って、狭い路地を300mほど進むと丁字路となります。

ここを右折して500mほど進むと広い道路との交差点に出ます。交差点の左手前が大塚警察署です。


この交差点を左折して、500mほど進んだところが護国寺です。

大塚警察署の前で解散、各自で昼食をとった後、護国寺に集合することになりました。


永青文庫の傍の急な坂道



護国寺境内



仁王門

午後のスタートは護国寺です。

護国寺は東京都文京区大塚5丁目にある真言宗豊山派の別格本山で、豊山派の関東における中心です。

徳川綱吉の生母桂昌院の発願により天正元年(1681年)に創建されました。


開山は亮賢僧正です。

本尊は如意輪観音で、江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所でもあります。



享保2年(1717年)護持院が焼失後、護国寺本坊を護持院、観音堂を護国寺と改称。明治の初めに護持院を廃止し、護国寺に統合されました。


明治天皇の王子の死去に伴い、境内の東半分が皇族の墓地、豊島ヶ岡墓地となっています。



不老門

不老門

仁王門を潜り石畳をまっすぐに進むと石段があり、石段を登ったところの門が不老門です。

三尾邦三氏の寄進により、昭和13年4月、亀山茶碗の記念として建立されました。

鶴は千年亀は万年と、いわれるようにこの門を潜ると病気にならず、長寿でいてほしいという願いが込められた門です。

形式は天狗や牛若丸で有名な鞍馬山の山門を模しものです。



観音堂(本堂)



観音堂(本堂)


元禄10年(1697年)に徳川5代将軍綱吉公の命により建てられた観音堂は、熱心な仏教徒であった、綱吉公の生母である桂昌院の願いによるもので、自身の信仰する念持仏の奉納・祈願を目的として建立されたものです。

名前の如く如意輪観世音菩薩という観音様を本尊として奉っていますが、本尊は桂昌院念持仏の天然琥珀観世音菩薩である故、御前立として木像の如意輪観世音菩薩像(平安時代の作)が本堂の須彌壇に安置されています。


多宝塔



護国寺は徳川家に所縁の深い寺でしたが、明治になって三条実美がここに墓を建てると、以後顕官、軍人、実業家が競ってここに墓所を定めました。


このため、数多くの著名人のお墓がありますが、今回は明治維新に関連する人々のお墓に参拝しました。


田中光顕(みつあき)

護国寺本堂から向かって右側に田中光顕(みつあき)の墓があります。

田中光顕は、土佐高岡郡佐川村の出身で、武市瑞山に師事し勤王同盟に加わり、土佐勤王党に加盟して元治元年(1864年)に脱藩。慶応3年(1867年)に中岡慎太郎を首領とする陸援隊に加入し幹部となる。

明治維新後は新政府の要職を歴任し、明治末期には10年にわたって宮内大臣を務めた。


田中光顕墓



大隈重信墓

大隈重信

田中光顕の墓の隣りに大隈重信の墓がある。

墓前には早稲田や憲政党から贈られた石燈篭が立ち並んでいる。

大隈重信は佐賀藩の出身で、維新政府成立直後、徴士参与職、外国人事務局判事に任ぜられた。

キリスト教禁令について、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮して評価され、その後も外交、財政に手腕を発揮した。


しかし、開拓史官有物払い下げを巡り、かつての盟友である伊藤ら薩長勢力と対立し、明治14年に政界を追われることとなる。

明治15年(1882年)3月に立憲改進党を結成してその党首となり、10月には東京専門学校(現早稲田大学)を開設した。

明治31年(1898年)に板垣退助らと憲政党を結成し、薩長以外から初の内閣総理大臣を拝命し、日本初の政党内閣を組閣した。しかし、旧自由党と旧進歩党の内部対立により僅か4ヶ月で総辞職した。

さらに、大正3年に(1914年)には2回目の内閣を組閣したが、大正5年(1916年)に総辞職し、政界からも引退した。


大隈重信墓



三条実美墓

三条実美

三条実美の墓の前には、鳥居と二つの顕彰碑が建てられている。

安政元年(1854年)、兄の三条公睦の早世により家を継いだ。

安政の大獄で処分された父・実万と同じく尊攘派の公家として、文久2年(1862年)に勅使として江戸に赴き、14代将軍徳川家茂に強く攘夷を迫った。



文久3年の政変により朝廷を追われて、京都を逃れて長州に移る。これがいわゆる七卿落ちです。

慶応3年(1867年)の王政復古で表舞台に復帰し、成立した新政府で議定となる。

その後、右大臣、太政大臣という最高の官職を歴任したが、明治6年(1873年)の征韓論を巡る政府内の対立で、西郷隆盛らの征韓派と、岩倉具視や大久保利通らの征韓反対派の板挟みとなり、岩倉具視を代理として事実上一線から退いた。

明治25年(1891年)に55歳で死亡した。


三条実美墓




清岡公張墓

清岡公張

清岡公張は、安芸郡田野浦の郷士で野根山殉難二十三士の首領清岡道之助の弟です。

文久年間に上京して諸藩の志士と交わり、藩命により三条実美の衛士となった。

文久3年(1863年)八・十八の政変後、七卿に従い、長州に赴き種々画策した。

王政復古により五郷の罪が許されるに及んで入京した。維新後、東山道鎮撫府大監察に任じられ、ついで司法省に出仕し、明治16年(1883年)に元老院議官、更に宮内省図書頭を歴任した。

23年に貴族院議員となり、明治34年61歳で死亡。

山田顕義

山田顕義は、長州藩士で藩の海軍頭を務めた山田顕行の長男で、松下村塾の門下生です。

第2次長州征伐では高杉晋作の下で「丙寅丸」の砲隊長として幕艦を撃破、戊辰戦争では東征大総督参謀として活躍した。

小ナポレオンと称されるほどの用兵家で、西南戦争でも活躍した。


第1次伊藤博文内閣では司法大臣を務めている。


山田顕義墓



山田顕義墓

山県有朋

安政5年(1858年)に松下村塾に入熟し、吉田松陰から大きな影響を受けといわれており、松下門下となったことが出自の低い山県が世に出るための大きな助けとなったようである。

文久3年(1863年)高杉晋作の騎兵隊創設とともにこれに参加して頭角を現し、明治10年に(1877年)に勃発した西南戦争では総指揮を執り、尊敬する西郷と対決しこれを鎮圧した。



山県有朋は二度の内閣総理大臣を経験し、明治33年(1900年)に辞任後は、陸軍・内務省・宮内省・枢密院などにまたがる「山県系官僚閥」を形成して、陸軍では桂太郎や寺内正毅、官僚では清浦奎吾や平田東助らの後ろ盾となって、政界に影響を及ぼした。

山県有朋の墓は、塀に囲まれ扉には施錠されているため、そばには近付くことができません。


山県有朋墓



雑司ヶ谷霊園



雑司ヶ谷霊園案内図

雑司が谷霊園は、豊島区南池袋4丁目にある都営の霊園で、面積は11万5400平方メートルと広大です。

江戸時代(安政4〜1857年)の絵図では、将軍の御座所として御用屋敷や御鷹部屋(お鷹狩りのための居留地)があった所です。

この地域は東京市街地の郊外にあたり、墓所を持たない東京を故郷とする市民のために、共同墓地として造営し、明治7年(1874年)に開設されました。



明治22年(1889年)に東京市の管轄となり、現在は東京都公園協会が管理しています。

夏目漱石、永井荷風、泉鏡花、竹久夢二ら多くの文化人の墓があるほか、岩瀬忠震や小栗上野介ら幕臣出身の政治家やジャーナリストの墓が多くあります。

霊園管理事務所(霊園の東端、中央)に、雑司が谷霊園に眠る著名人の紹介パンフレットが用意されています。


雑司ヶ谷霊園



中浜万次郎墓

中浜万次郎

土佐国中浜村(現在の土佐清水市中浜)の漁師の次男に生まれ、幼いころから良く働き家族を養った。天保12年(1841年)15歳の時に漁に出て遭難し、5日半漂流後、無人島の鳥島に漂着。143日後にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された。

船長に気に入られた万次郎はアメリカに渡り、船長の養子となって英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学び首席で卒業する。


帰国後はアメリカの知識を必要とした幕府に召還されて直参の旗本となる。万延元年(1860年)には日米修好通商条約の批准書を交換するための通訳として、咸臨丸でアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いだったため、万次郎が船内の秩序維持に努める。

維新後は開成学校(現東京大学)の教授として活躍。明治31年(1898年)71歳で死亡。


夏目漱石

明治38年(1905年)、高浜虚子のすすめで「吾輩は猫である」を雑誌「ホトトギス」に発表して大好評を博す。

「猫」の連載、「坊ちゃん」などの作品を発表。

明治40年(1907年)に朝日新聞社に入社し、以後は朝日新聞を舞台に「虞美人草」「三四郎」「それから」「行人」「こころ」などを発表した。


夏目漱石墓



岩瀬忠震墓

岩瀬忠震(ただなり)

岩瀬忠震は、老中阿部正弘に登用された「幕臣三傑」の一人で、異例の抜擢を受けた開国に積極的な開明派の外交官でした。

安政5年(1858年)、下田奉行兼外国奉行の井上清直とともにハリスと前後14回に及ぶ会談を重ね、日米修好通商条約締結にこぎつけた。

しかし井伊直弼が大老に就任すると永蟄居を命ぜられ、やがて病に冒され文久元年(1861年)44歳で死亡した。


小泉八雲

ギリシャ生まれで、2歳のときに父母が離婚、19歳でアメリカに渡り24歳で新聞記者になる。

明治23年(1890年)39歳のときに記者として来日、その後尋常中学校や師範学校の英語教師となる。その後、帝国大学(東大)、早稲田大学などに勤務する。


1891年小泉セツと結婚、1896年に帰化して日本名小泉八雲となる。

著作に「知られざる日本の面影」「怪談」などがある。


小泉八雲墓



千葉定吉・重太郎墓

千葉定吉
北辰一刀流流祖千葉周作の弟。

長男に千葉重太郎、娘に坂本龍馬の婚約者(妻)となった千葉さな子がいる。

幼少時代から兄の周作とともに、父から剣の教えを受け、兄周作とともに玄武館の創設と運営に尽力した。

玄武館の運営が軌道に乗ったのを見計らって、自身も桶町に道場を構えた。このため、定吉は「桶町千葉」「小千葉」と称され、周作は「お玉が池千葉」「大千葉」と呼ばれた。


剣の腕においては「兄にわずかに劣るだけ」と評されたが、周囲からも定吉の剣の腕は高く評価され、鳥取藩江戸屋敷の剣術師範役に任ぜられている。

門弟には坂本龍馬がいる。

龍馬は安政5年(1858年)1月、定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられている。

これは長刀の目録であり、剣術の免許皆伝ではありません。


千葉定吉・重太郎墓



小栗忠順(小栗上野介)墓

千葉重太郎

坂本龍馬と勝海舟を結果的に引き合わせたとも言われている。

父定吉が鳥取藩の剣術師範に就任し江戸屋敷詰となったため、道場は重太郎に任されることになる。

この頃、土佐から江戸に出てきた坂本龍馬が千葉道場に入門しているので、龍馬に剣術指南したのは主に重太郎であったと考えられる。


小栗忠順(ただまさ)

安政6年(1859年)に目付に登用され、万延元年(1860年)34歳にして日米修好通商条約批准のため渡米する。

文久3年(1863年)上野介に遷任、小栗上野介とも称される。

その後、勘定奉行、軍艦奉行などを務め、財政再建や横須賀製鉄所の建設などを行う。


徳川慶喜の恭順に反対し、大政奉還後も薩長への主戦論を唱えるも受け容れられず罷免され領地で隠遁する。薩長軍に逮捕されて斬首される。


都電荒川線



鬼子母神堂



鬼子母神堂


鬼子母神堂(きしもじんどう)は法明寺の飛地境内にある堂で、本尊は鬼子母神です。

室町時代の永禄4年(1561年)に雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の付近で鬼子母神像を掘り出し、東陽坊(後に大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたのが始まりとされています。

天正6年(1578年)に村の人々が堂宇を建て今日に至っています。


鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となっていますが、もともとの来歴には深いいわれがあります。

その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産みました。

しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。


鬼子母神堂



大公孫樹

お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は、

「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。

そこで帝母ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。

境内の大公孫樹(おおいちょう)は樹齢約600年といわれ、今も樹勢は止まることを知りません。

さらに本堂北側には、山岡鉄舟の雄渾な書体で描かれた碑もあります。




関連するホームページ

 東京龍馬会


         風来坊

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