散策スポット目次
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鐘楼と梅
本堂
英勝寺からJR横須賀線に沿って北鎌倉の方向に進むと、JR横須賀線のガードがあります。 このガードをくぐると、亀ヶ谷切通しを抜けて北鎌倉方面に行くことができます。 ガードを右に見てそのまま道なりに焼く300m程進んだところが海蔵寺です。
境内の梅
海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺です。 海蔵寺は建長5年(1253年)に鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立しましたが、鎌倉幕府滅亡の際の兵火により全焼しました。 その後、鎌倉公方足利氏満の命を受けた上杉氏定が室町時代の1394年に再建しました。
本道裏 右下が心字池
海蔵寺は、季節の花に彩られる花の寺として有名です。 また、本堂裏の心字池、山門脇の底脱(そこぬけ)の井、薬師堂裏の十六の井に清らかな水を湛える水の寺でもあります。 現在の本堂は、関東大震災後、大正期に再建されたものです。 薬師堂は、江戸時代に浄智寺から移されたもので、堂内には別名「蹄き薬師(なきやくし)」と呼ばれる薬師三尊像が安置されています。
底脱(そこぬけ)ノ井 鎌倉十井の一つで、海蔵寺山門手前の右側にあります。 中世の武将の安達泰盛の娘・千代能が、ここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、 千代能がいただく桶の底抜けて 水たまらねば月もやどらず
底脱(そこぬけ)ノ井
と詠ったことから、この名前がついたといわれています。 井戸の底ではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です。
十六ノ井 底脱ノ井と同じく鎌倉十井の一つです。海蔵寺仏殿裏のやぐら内に湧水をたたえた16個の穴があります。 直径約50cmの穴は弘法大師が掘ったとも、納骨穴の跡ともいわれています。 洞窟の中央に石造りの観音菩薩像が安置され、その下に弘法大師像が安置されている。 海蔵寺の拝観料は無料ですが、十六ノ井を見学する場合は100円です。
十六ノ井
雲華殿(仏殿)と枝垂れ梅
浄智寺境内
海蔵寺から元来た道を戻り、JR横須賀線のガードをくぐり、亀ヶ谷切通しを抜けて坂を下ると建長寺から北鎌倉に向かう道路にでます。 坂を下って左折し、道なりに進み、JR横須賀線の踏切を渡った左手が浄智寺です。
浄智寺は、鎌倉五山の四位に列せられる格式の高い寺です。 浄智寺は、1281年に29歳の若さで没した、北条時頼の三男宗政の菩提を弔うため、宗政夫人が亡父宗政と幼少の師時を開基として建立したと伝えられています。 現在の建物は関東大震災後に再建されたものですが、自然林に囲まれた静かな境内は国の史跡に指定されています。
参道入り口の石橋のほとりにある「甘露ノ井」は鎌倉十井の一つに数えられています。 石段を登ると正面に、上部に鐘を吊り下げた楼門が建っていますが、今回は修理中のため、残念ながら白いテントに覆われていました。 奥に進むと雲華殿と呼ばれる仏殿があり、本尊の三世仏座像が祀られています。
さらに裏庭の隧道を抜けると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊が祀られています。 体格の良い布袋尊は、一寸お腹を突き出して立っていますが、このお腹をさすると元気になるとか! 風来坊も黒ずんでいるお腹をさすりました。 浄智寺の拝観料 150円
東慶寺境内
本堂と書院(手前)
浄智寺から北鎌倉方向に3分ほど進んだ左手に東慶寺があります。 東慶寺は、1285年に北条時宗の妻、覚山尼(かくざんに)が夫の菩提を弔うために創建した尼寺です。 封建時代は今とは逆に女性の立場は弱いもので、とてもじゃないが女性から離婚することなどできませんでした。
そんな時代に覚山尼は、高僧・無学祖元のもとで修行をし、やがて女性の救済のために「縁切寺法」を創始しました。 それは、夫から逃れたいと願う女性がお寺に駆け込み、そこで3年間修行を積めば離縁できるというものです。
鐘楼
その代表的なお寺がこの東慶寺です。 それゆえ東慶寺は別名、縁切寺(えんきりでら)、駆込寺(かけこみでら)と呼ばれています。 覚山尼以降も、後醍醐天皇の皇女用堂尼(ようどうに)や、豊臣秀頼の娘天秀尼など名門の女性が代々住職を務めている格式の高いお寺です。
黄梅
そのようなわけで東慶寺は男子禁制の尼寺だったわけで、たとえ親でも寺内に入れませんでした。 そんな男子禁制の尼寺だった東慶寺も、明治時代になってから普通の男僧寺に改められ、現在に至っています。
また、境内には四季折々の花が咲きますが、参道奥の墓地には西田幾太郎、鈴木大拙、高見順、小林秀雄など多くの文人が眠っていることでも知られています。 東慶寺の拝観料 100円 関連するホームページ 東慶寺
明月院は、臨済宗建長寺派に属する寺です。 境内に多くのあじさいが植えられ、「あじさい寺」として全国的に知られています。 明月庵(明月院の前身)は、この地の住人で平治の乱で戦死した首藤刑部大輔俊道の菩提供養として、俊道の子の山ノ内徑俊が創建しました。
時頼廟
宗猷堂(開山堂・そうゆうどう)
その後、北条時頼がこの地に最明寺を建立しましたが、時頼の死後廃絶となりました。 時頼の子・北条時宗がその跡に禅興寺(ぜんこうじ)を建てました。 明月院は、この禅興寺の塔頭(たっちゅう、子院)として上杉憲方が建てた寺で、名前も明月庵から明月院とあらためられました。
その後禅興寺は衰え、明月院に付属したような形となり、結局明治時代の初めに廃寺となってしまいました。 現在では、明月院のみが残っているということになります。 宗猷堂(開山堂・そうゆうどう)には、密室守厳の木像を安置しています。 開山堂のそばには鎌倉十井の一つ「瓶ノ井(つるべのい)」があります。
あじさい
鎌倉散策・梅を求めての今回のコースは、鎌倉宮から北鎌倉駅まで18000歩の散策でした。亀ヶ谷切通し以外は平坦なコースです。 鎌倉エリアと北鎌倉エリアに分けて散策する方法もあろうかと思います。 鎌倉散策・梅を求めて その1へ 風来坊