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さようなら氷川丸&マリンタワー (H18.12.23)

氷川丸


氷川丸



氷川丸

横浜港に隣接する山下公園をはさみ込むように、横浜のシンボル、氷川丸とマリンタワーがあります。

創業以来、「マリンタワー」に2526万人、「氷川丸」に2261万人、併せて4787万人もの来訪者があり、横浜のシンボルとして広く市民に親しまれてきました。

しかし、平成18年12月25日をもって、この2つの施設が45年間に亘る営業を終了しました。

最後の勇姿を見るために12月23日に両施設を訪問しました。



氷川丸は、日本郵船の社船として、三菱横浜造船所において建造され、昭和5年(1930年)4月25日に竣工、ただちにシアトルに向けて、処女航海につきました。

「氷川丸」の船名は、埼玉県の氷川神社から授かったそうです。


オーシャンライナー全盛期の優美な船型と、一流シェフの料理をはじめとする最高のサービスが相まって、氷川丸は、「北太平洋の女王」と呼ばれました。


氷川丸



氷川丸と白灯台

昭和7年(1932年)には、喜劇王チャーリー・チャップリン氏が、昭和12年(1937年)には、英国皇帝ジョージ6世の戴冠式に出席された秩父宮ご夫妻が、横浜港まで乗船されています。

昭和16年(1941年)の太平洋戦争勃発とともに氷川丸は、日本海軍に徴用され、主として南太平洋海域において、病院船としての使命を果たしました。

1945年、終戦を迎えた後も、大勢の同胞を家族の待つ日本へ送り届けるため、復員輸送に従事してしました。



昭和28年に(1953年)には、再び改装工事が行われ、太平洋を横断する唯一の本格的客船としてシアトル航路に復帰、母港横浜を出航しました。

このシアトル航路では、戦後の日本復興において、アメリカとの交流を促進するために始められた、フルブライト交換留学生の方々が、多数乗船しました。

また、「宝塚歌劇団」が北アメリカ、カナダ公演のため、氷川丸に乗船したのも話題となったそうです。


氷川丸



マリンタワーから見る氷川丸


戦前、戦後を通じて北太平洋を238回横断し、延べ25,000人余の乗客を運んだ氷川丸は、昭和35年(1960年)10月、現役生活を引退し、横浜市の「横浜港開港100周年記念事業」の一環として、昭和36年(1961年)生まれ故郷の横浜港・山下公園に係留されました。

係留後は、国際都市横浜を訪れる観光客に、船内を見学して、当時の豪華客船の優雅な船旅気分を味わってもらっているようです。



氷川丸のエンジンルーム



氷川丸の見学は、船内のエントランスホールで切符を購入し、エンジンルームからスタートです。

エンジンルームは船底から3層構造になっていて、10.5mの高さがあります。

エンジンは、デンマークのB&W社製ディーゼルエンジン2基を装備し、1930年当時としては最大級の出力11000馬力、最高速力は18.21ノット(時速約34km)です。


ディーゼルエンジン



ディーゼルエンジンの操縦ハンドル


ディーゼルエンジンは燃料効率が良く経済的で、前進、後進及び発停が容易であることから、現在では舶用機関の主役となっていますが、氷川丸が竣工した当時は世界の舶用機関としては蒸気機関が主力でした。

しかし、日本郵船はディーゼルエンジンのこの優位性に着目して、デンマークのB&W社製のものを採用しました。

世界でも唯一現存する第1世代の大型ディーゼルエンジンで、大変貴重なエンジンです。



見学経路に沿ってエンジンルームを出たところに調理室があります。

就航当時は乗客331名、乗員126名、合計457名の食事を一手に引き受けていた大型キッチンです。


調理室



三等船客室


調理室を過ぎると各種の展示コーナー、氷川丸の歴史を紹介するコーナーなどがあります。


また、就航当時に三等船客室として使われていたモデルルームも見ることができます。

この三等船客室は昭和36年から昭和48年までは修学旅行の学生用宿泊施設としても活躍したそうです。



氷川丸の船首部分と揚錨機



船内の各種展示コーナーを見学して外にでると氷川丸の先端部分です。

そこには重さ約5.3トンの錨と錨鎖を毎分9m以上巻き上げることができる、揚錨機が設置されていました。

氷川丸の揚錨機は英国製直流電動モーターが採用されたそうです。


揚錨機



操縦室から船首を展望


映画「タイタニック」で有名になった、主人公が巨大船の最先端(船首)で両手を大きくあげるシーン。

現在でもあの名場面を真似するカップルがここを訪れて、それぞれの名場面をカメラに納める姿が後を絶たないようです。



見学コースに沿って階段を登ったところが操縦室です。


ここは氷川丸のコクピット、乗組員の頭脳が集中し、あらゆる判断と命令がくだされる場所です。

北太平洋の荒波を238回も横断するに必要な、当時としては最新鋭の装置が備え付けられていました。


操縦室



舵輪と羅針盤


電信室



船長室


操縦室のすぐ後部側の区画が電信室です。

操縦室から一段下がった区画に船長室が設けられています。

緊急時にすぐ対応できるように、船長室は操縦室の近くに設けられているのです。



一等ダイニングサロン



操縦室から階段おりて、見学コースに沿って船内にはいると、贅を尽くした客室などのエリアに到着です。

一等ダイニングサロンでの晩餐は、男性はタキシード、女性はイブニングドレスがマナーでした。

ディナーには船長以下高級船員も同席したそうです。

また、子供は30分前には育児係が食事をさせ、ナースは隣の児童室で一日中子供の世話をしていたそうです。


特別室



特別室


特別室は、今でいうスイートルームです。

一つ一つの素材から加工まで、贅沢の本質に触れることができるレトロな最高級客室です。

この特別室には秩父宮両殿下やチャップリンをはじめ各国の有名人が乗船したそうです。



特別室に続いて一等船室のエリアがあります。


さらに一等船室に続くエリアに、一等喫煙室があります。


一等船客室



一等スモーキングルーム


一等喫煙室は就航当時、一等船客だけに入室を許可された喫煙室です。

今でも室内装飾が大切に保存され、誰でも気軽に休憩できるスペースとして解放されています。

しかしながら、装飾が立派すぎて、気軽に休憩できるような雰囲気ではありません。



氷川丸ボートデッキからのみなとみらい21の展望



一等客室から外に出たところがボートデッキです。


ボートデッキはその名前の通り救命ボートが目の前に見えるデッキです。

素敵な横浜の景色を楽しみながら軽食を楽しめる喫茶もあります。

ボートデッキ後部



オープンデッキ


ボートデッキの上には、エントツデッキ(ファンネルデッキ、5階相当)があり、ここも見学することができます。

遠くで見るとは違う氷川丸の煙突の大きさに驚かされます。



ボートデッキの下側がオープンデッキです。


約1000平方メートルのある広いデッキで、自由に利用できる椅子とテーブルが用意されています。

夏の夜には船上ビアホールになるエリアです。


          風来坊

氷川丸船尾からの展望


マリンタワー


マリンタワーからの「みなとみらい21」及び大桟橋の展望



マリンタワー


マリンタワー


マリンタワーは、横浜開港100周年記念行事の一環として、横浜港や市内を一望の元に見渡せる展望塔の建設という壮大なプランが発議されました。

そして、山下公園という理想的な場所に、約13ヶ月の工期をもって、高さ106mの偉容を誇る横浜のシンボルが完成しました。



塔のデザインは横浜らしさを表現するために灯台の容姿を模しており、実際に正式の灯台の機能を持っています。

このため横浜港を行き来する船舶にとって心強い安全な航海のための明りが一つ増えた結果になりました。


この灯台は地上高としては世界で一番高く、現在でもギネスブックに「世界最高の灯台」として掲載されているそうです。


山下公園と氷川丸 大桟橋は飛鳥U



みなとみらい21


「マリンタワー」という名前は、昭和35年の公募に際し、2470名という多くの市民の応募の中から、採用されたものです。


平成元年から、微妙な色彩とタワーならではのトラス構造を美しく演出するライトアップが開始され、横浜の夜のデートコースの名所ともなりました。



横浜港、ベイブリッジとつばさ橋 ベイブリッジの右側は東京湾



マリンタワーの展望台は2層になっており、エレベーターで展望台1階に降りた後、階段で展望台2階に登ります。

マリンタワーの360度見渡せる展望台からは、半分が港の風景、半分が市街地の風景と絶妙なバランスでパノラマが広がっています。


右の丘が「港の見える丘公園」



横浜の中心街


マリンタワーの北の方向には、山下公園と氷川丸、MM21にそびえるランドマークタワーやコスモロック(観覧車)が広がります。

そして風来坊の訪問した12月23日には世代交代を告げるかのように大桟橋に「飛鳥U」が入港していました。


氷川丸と飛鳥Uを同じ画像に収めることができてラッキーでした。



また、東にはベイブリッジ、鶴見つばさ橋が、南には外人墓地、港の見える丘公園、遠くには房総、三浦半島が展望できます。

西には中華街や横浜スタジアムが広がり、天気がよければ霊峰富士も展望できるようですが、残念ながらこの日は霞んでいました。


         風来坊


ビルの左側が中華街、ビルの谷間が横浜スタジアム


帆船模型展示


パピルス船

船内に帆船模型展示室がありました。いくつかを紹介します。

パピルス船

古代エジプトでは、パピルス(葦・水草の一種)を束ねたものをいくつも結びつけ、その浮力を利用して海上を移動していましたが、その後、波を防げるように真ん中部分をへこませ、前後を高くするなど改良されました。

しかし、強度が弱いため、オール受けの支点を設けられないことや、長時間の使用に耐えられないことなどから、外洋の航海には向かない船でした。


古代ギリシャ船

作品は二段オールのカレー船を再現したものです。

古代地中海の海戦では、敵船への体当たりが主な戦術でした。このため敵船よりも優れたスピードが必要となることから、このような多段櫂船が発達しました。


多段櫂構造の船の場合、漕ぎ手も多数乗り込むため、船内は戦士と漕ぎ手でぎゅうぎゅう詰めの窮屈さだったようです。


古代ギリシャ船



紅海のサンパック船

紅海のサンパック船

海のシルクロード時代にはイスラム教と共に紅海を帆走した船です。

船姿は13世紀頃より現代に至るまであまり変わらず、現在もアラビアの海等で活躍しています。


紅海、アラブ諸国、アジア、西欧へと物資の橋渡しをしている船です。


地中海穀物運搬船

作品は西暦50年頃のローマの銅貨に浮き彫り細工で描かれている商船です。

ローマ帝国が陸や海を支配した時代、その文化を広める上で、ローマの商船隊が地中海で果たした役割は大きかったようです。

中でも穀物運搬船は小麦船と呼ばれローマの貨物船のうち最も大型で、アテネで必須とされる穀物の1年分の量を、北アフリカからローマまで1ヶ月で運搬することができたと伝えられています。


地中海穀物運搬船



サンタ・マリア号

サンタ・マリア号

1492年にコロンブスが第1回の探検航海の際に乗り込んだ旗船です。「ニーニャ」「ピンタ」を加えた3隻の編成でアジアを目指しました。大航海時代の先駆けとなった歴史的に大変有名な船ですが、船体に関しては不明な点が多いようです。

コロンブスはこの船に不満を持っていたようで、その帆走性能が悪く、また、喫水が深いため探検船としては不向きであると航海日誌の中に綴っています。

「サンタ・マリア」は1492年12月24日にハイチ沖で強風のため座礁し、コロンブスは「ニーニャ」に移乗して帰国しました。



メイフラワー号


メイフラワー号は、180トン余りの平凡な貨物船でしたが、1620年に英国から宗教上の自由を求めて清教徒102名が新大陸アメリカへ66日間の航海を行い、歴史に名を残すこととなりました。

99名が新大陸に到着しました。


メイフラワー号



遣唐使船

遣唐使船

遣唐使は、唐の先進文化を吸収するために、欽明天皇時代の630年から894年までの264年間に15回派遣されました。

遣唐使船は2本のマスト船で、折り畳みのできる網代の帆を装備していました。

約120人ぐらい乗船可能な千石積みぐらいあり、当時としては大型の船でしたが、外洋航路に耐えうるには未熟な船で、後期には遭難を繰り返したようです。


網代帆:薄くそいだ竹の皮を編んで矩形にし、その2枚の間にむしろを挟んでつなぎ合わせた帆。

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