散策スポット・北海道東北

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横浜・山手散策  (H16.5.29)



ブラフ18番館

山手居留地の誕生

山手地区は関内地区と並ぶ外国人居留地として知られています。開発されたのは1867年(慶応3年)に外国人に開放されて以来のこととされています。

明治初期には道路が整備され公園が開園するなど、現在に引き継がれているまちの骨格が出来上がりました。

明治中期になると煉瓦造りの本格的な西洋館が登場するなど山手の異国情緒は一段と高まりました。

復興期のまちづくり

関東大震災は山手に壊滅的な被害をもたらし、西洋館は殆ど倒壊してしまいました。

震災復興により学校や教会、住宅などが再建されましたが、それらは時代の影響を受け被災する前の姿に比べるとシンプルで合理的なデザインのものとなりました。

現在山手に残る西洋館は、大多数がこの時期に建築されたものです。


ブラフ18番館


ブラフ18番館館内・中央はチェスの盤面

山手ある横浜市所有の西洋館はいずれも『公園』に附属して保存されており、入場料は無料です。風来坊、西洋館を巡りながら山手を散策しました。

JR石川町駅から元町方向に30mほど進むと「山手イタリア山庭園」の案内があります。

案内にしたがって、やや急な大丸谷坂を200mほど進むと、右手に小さな階段があり、その上が「山手イタリア山庭園」「ブラフ18番館」「外交官の家」に通じる洒落た入口になっております。


「ブラフ18番館」は、大正末期に建てられた外国人住宅です。戦後は、カトリック山手教会の司祭館として平成3年まで使用されました。

平成5年に当地に移築復元され、現在は当時使用されていた横浜家具の復元展示をするなど、実際に当時の暮らしを体験することができます。

横浜市認定歴史的建造物に指定されております。

ブラフ18番館の庭からは、今日ではベーブリッジを望むことができます

ブラフ18番館からの光景


グラフ18番館から外交官の家を望む


「ブラフ18番館」から一段上に上がったところが「外交官の家」です。

「外交官の家」は、明治43年、東京渋谷の南平台に建てられた、明治政府の外交官・内田定槌の私邸です。

平成9年山手・イタリア山庭園に移築復原されました。設計はJ.M.ガーディナー。アメリカンビクトリア様式の建物は重厚で、内部のステンドグラスは当時の様式を映しています。



邸内は家具や調度類が復原され、当時の外交官の生活を感じることができます。

国の重要文化財に指定されております。


外交官の家


イタリア山庭園


山手イタリア山庭園は、イタリアで多く見られる庭園様式を模し、水や花壇を幾何学的にデザインした公園です。

明治13年(1880年)から明治19年(1886年)までイタリア領事館が置かれていたことから、「イタリア山」と呼ばれているこの場所は、みなとみらい21地区や関内周辺の市街地を一望することができます。

この山手イタリア山庭園に隣接して、「ブラフ18番館」と「外交官の家」があります。

「外交官の家」を出て、「港の見える丘」方面に向けて山手本通りを歩いていくと、右手にカトリック山手教会があります。美しいせん塔をもつこの教会は、洋館が建ち並び、異国情緒が漂う山手通りの中でも特に印象的です。

この教会の前身は1862年にフランス人神父が開き、日本最初のカトリック教会とも言われる横浜天主堂です。

明治39年(1906年)に山手44番館に移り、双塔を持つ煉瓦造りのゴシック風の教会堂は、「とんがりやそ」日本人の間で呼ばれ、親しまれておりましたが、関東大震災で崩壊し、昭和8年に再建されたのが現在の聖堂です。

横浜市認定歴史的建造物に指定されております。


カトリック山手協会



ベーリック・ホール


深い緑の中にプールや弓道場がある元町公園は、山手本通りに面し、周辺の歴史的建造物とともに、山手を象徴する絶好の景観をつくりだしています。

園内にはブラフ80メモリアルテラス、ブラフ溝など横浜の歴史を忍ばせる施設とともに、「ベーリック・ホール」「エリスマン邸」「山手234番館」があります。

「ベーリック・ホール」は、J.H.モーガンの設計により、昭和5年(1930年)に建てられたイギリス人貿易商・ベーリック氏の邸宅です。

1956年〜2000年までセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎としても使用されました。

戦前の山手の個人邸としては最も規模の大きいもので、多彩な装飾など建築学的にも充実した価値ある建物です。

横浜市認定歴史的建造物に指定されております。


ベーリックホール


エリスマン邸

平成2年、元町公園に移築された「エリスマン邸」は、大正15年(1926年)にスイス人貿易商エリスマン氏の私邸として建てられました。

木造2階建ての白く美しい洋館は、近代建築の父、アントニン・レーモンドの設計です。

1階各室には、彼の設計した家具が復元展示され、2階は「横浜山手地区」の資料館となっています。

木立に囲まれた眺めのよい喫茶室があります。

横浜市認定歴史的建造物に指定されております。


「山手234番館」は、関東大震災直後(昭和初期)に建設された外国人用の共同住宅として、横浜市に現存する数少ない遺構の一つです。

創建当初の施設は、4つの同一形式の住宅が中央の玄関ポーチを挟んで、左右対称に向かい合い、上下に重なる構成になっていました。

各住戸は合理的かつコンパクトにまとめられ、往時の「モダン」な生活様式が伺えます。また、洋風住宅の標準的な要素である上げ下げ窓やよろい戸、煙突などが、簡素な仕様で採用されており、震災後の洋風住宅意匠の典型といえます。


山手234番館


山手89−6番館


1階は山手の総合案内所になっており、山手の移り変わりの資料などが展示されております。2階は展示や会議に使用されています。

横浜市認定歴史的建造物に指定されております。


山手234番館に向かって左側は横浜山手聖公会教会堂、右側は山手89−6番館と昭和初期の歴史的建造物が建ち並ぶ一角です。

山手234番館から港の見える丘方向に少し進むと、右手に「山手十番館」と「山手資料館」があります。

明治100年祭を記念して建てられた「山手十番館」は港ヨコハマを望む外国人墓地前にあるハイカラな明治情緒あふれるレストランです。

緑に囲まれた高台の眺めを背景に本格的なフランス料理を楽しむことができます。

旬の素材を使い、2ヶ月ごとにメニューが変わります。特に体にやさしい低農薬、有機肥料栽培の野菜の料理に定評があります。

春、秋のティーガーデン、夏のビヤガーデンも好評のようです。

庭内には、山手資料館が併設されています。


山手十番館


山手十番館ビアガーデン


山手ビアガーデンの由来

醸造技師ウィリアムス・コープランドは、明治初年、山手にわが国初めてのビール工場を作りました。

それが明治18年、ジャパン・ブルワリーに発展して、キリンビールの開源となりましたが、その頃彼は工場の隣地にビアガーデンを経営しました。

現在の「ビアホール」の先駆です。山手ビアガーデンは、そうした歴史をうけて開かれたそうです。ビアガーデンは、樹間はるかにビール工場跡地をのぞみ、コープランドの眠る外人墓地を眼前とするゆかりの深い地にあります。

山手資料館は、横浜に現存する明治時代の唯一の木造西洋館です。

この建物は、明治42年(1909年)に、横浜・戸部の大工によって中澤邸として本牧に建てられ、昭和4年(1929年)に横浜・諏訪町の園田邸に移された後、
昭和52年(1977年)に現在地に移築されております。

現在は、横浜開港当時の資料等が展示される資料館として公開されています。
また、敷地内には、日本最初の獅子頭の水道共用栓なども展示されています。


山手資料館(改装工事中)


外国人墓地


外国人墓地


港を望む斜面に異国の人達の墓が並んでおります。

ここ、横浜外国人墓地には40カ国以上、約4500人の人が眠っているそうです。


いつもは墓地内には入れませんが、今日は特別に寄付金を支払って入ることができました。

1853年、「黒船」4隻で開国を迫ったペリー提督は、翌1954年には開国交渉のために7隻の艦隊を組織して再び来日しました。その中の1隻ミシシッピ号の乗組員ロバート・ウイリアムズという2等水兵が墜落死し、この水兵の埋葬地と共にアメリカ人用の墓地をペリーは要求しました。

協議の後、幕府は横浜村の道徳院の境内の一部を提供することとしました。ペリーの示した海の見える地という条件にも合い、ウイリアムズは埋葬されました。これが横浜山手の外国人墓地の始まりだそうです。

日米和親条約によって、伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が設けられることとなり、ウイリアムズの遺体は3ヵ月後に玉泉寺に移されました。現在、玉泉寺にはペリー艦隊の日本遠征中に死亡した水兵らアメリカ人5名、ロシア人3名が埋葬されています。


開国が進み、来日する外国人が増加すると共に日本で亡くなる外国人も増えてきたため、道徳院の外国人埋葬地と日本人埋葬地の区別がつきにくくなり、1861年外国人専用の墓域を定めるため日本人墓地が移転されました。現在の元町側通用門付近の墓域がこのときに定められたもので、薩英戦争の原因となった1862年9月の生麦事件の犠牲者英国商人チャールズ・リチャードソンの墓地などがある外国人墓地の最も古い区域です。



1864年、横浜居留地覚書が、幕府とアメリカ、イギリス、フランス、オランダの各国公使との間で締結され、墓地の拡張が認められることとなり、道徳院の上の高台に一区域が設けられた。

さらに、1866年、横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書が締結され、ほぼ現在の墓域まで拡張されたそうです。


外国人墓地から約3分で港の見える丘公園に到着です。


外国人墓地の墓地内



港の見える丘公園・噴水広場

港の見える丘公園現在展望台になっている高台の周りには、幕末から明治の始めにかけてイギリス軍兵舎がおかれ、山の裾にはフランス軍が駐屯していた記録があります。この山は今でもフランス山と呼ばれ親しまれています。

その後、高台にはイギリス領事官邸が、山側にはフランス領事館が建てられ、現在ではイギリス領事官邸がそのままイギリス館として市民に利用されています。

フランス領事館はなくなっていますが、フランス領事館跡、フランス橋、バルタールパビリオン等がいまでもフランスの名残を残しています。

海に臨んだ展望台や霧笛橋からは横浜港、山下公園、ベイブリッジが見え、晴れた日には房総の山々を眺めることができます。

園内にはカイズカイブキに囲まれた沈床花壇や、山手111番館などの洋館を取り込み、バラや四季折々の草花が咲くローズガーデンがあります。

イギリス館と山手111番館に挟まれた噴水広場には歴史的な横浜創設水道記念噴水塔の複製が設置され、異国情緒をかもしだしています。


港の見える丘公園・沈床花壇


イギリス館(旧横浜英国総領事公邸)

日本の開国はペリーの来航に端を発しましたが、最も中心的な役割を果たしたのは、オールコック駐日総領事を代表とするイギリスの外交団です。

イギリス館の立つ山手115番は、文久3年に横浜の居留地防衛のため軍隊が駐屯するなど横浜開港直後からイギリスにゆかりの深い土地です。


イギリス館は、昭和12年に英国総領事公邸として建てられ、昭和44年からコンサートや集会室に利用されてきました。

平成14年にリニューアルを行い資料展示室等が設けられ、一般見学できるようになりました。

建物の周りにはローズガーデンも整備され、バラの季節には特に美しい景観が楽しめます。


平成2年に横浜市指定文化財に指定されております。


イギリス館(旧横浜英国総領事公邸)


山手111番館

「山手111番館」は、J..モーガンの設計により、大正15年(1926年)アメリカ人 J.. ラフィン氏の住宅として建てられました。

赤瓦の屋根と白い壁が美しいスパニッシュスタイルの洋館です。

5月と10月には、館の周りは色とりどりの美しいバラで彩られます。喫茶室があります。


平成11年に横浜市指定文化財に指定されております。

港の見える丘公園の展望台の右に広がる沈床花壇の奥にアーチ型の屋根と赤レンガの外観が一際目立つ瀟洒な館があります。

横浜ゆかりの偉大な作家「大佛次郎」の業績と生涯を様々な資料で紹介している「大仏次郎記念館」です。


大佛次郎は横浜に生まれ、横浜を愛し、そして横浜を最も多く描いた作家です。


山手111番館


大佛次郎記念館

中でも「霧笛」「幻橙」は開化期の横浜を愛惜をこめて描いた名作として今も多くの人々を魅了しつづけています。

代表作には「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」などがあり、「鞍馬天狗」の作者としても親しまれています。

大仏次郎記念館と県立神奈川近代文学館を結ぶ橋が霧笛橋です。霧笛橋という名前は大仏次郎の名作「霧笛」からの命名ですが、横浜港を見下ろす「みなとの見える丘公園」にある橋にはぴったりの名前といえます。

この橋の上から眺めるベイブリッジも格別なものがあります。しかし、本日はビルを建築中のクレーンに絶景を邪魔されてしまいました。

県立神奈川近代文学館では開館20周年記念のイベントとして「芥川龍之介展」が開催されていました。


霧笛橋


神奈川近代文学館

今日の山手

ブラフと呼ばれた山手の地形

山手は海から見ると切り立った崖の上にあることから外国人には、THE BLUFFと呼ばれてきました。

山手は、海抜10〜40m程度の丘陵上に位置するため丘の北端からは横浜の都心部や新山下の景観が、南側からははるかに広がる根岸の市街地と本牧の緑が、遠くには富士山も展望することができます。

明治期につくられたまちの構造

山手のまちの構造は、丘陵の上を東西方向に走る山手本通りと南北方向に走る谷戸坂(ワシン坂)の2本の尾根道を骨格として、これに交差する多くの坂道から構成されています。

このまちの構造は、明治初期につくられたもので住宅の更新が進んだ現在においても継承されています。


港に見える丘公園・展望台


港の見える丘公園からの展望

緑豊かな山手

山手は、緑豊かな土地です。

丘の斜面を彩る斜面林、港の見える丘公園、元町公園など自然地形を上手く生かした公園、歩道沿いの並木や家々の植裁などの多くの緑が存在します。

大きく枝を広げたヒマラヤ杉やシイの木などは、我々に豊かな緑を感じさせるだけでなく、山手の景観を特徴づける重要な役割をもっています。

山手の土地利用

山手は、人口約4,000人、約1,900所帯が生活する閑静な住宅街ですが、地区内には明治期に開校を誇るミッションスクールなど小学校から大学までが多数立地する文教地区という性格も持ち合わせています。

昭和初期に建築された歴史的建造物も数多く残されており、これらを活用した資料館や公園等の公共施設も集積しています。

このため、地域の住民だけでなく観光客も数多く訪れる文化・レクレーション地区でもあります。


港に見える丘公園からの展望・豪華船はサファイア・プリンセス


ブラシの木

ビンを洗うブラシそっくりの赤い花が「ブラフ18番館」「山手111番館」など散策路のあちこちに咲いていました。

花の姿そのままにブラシの木といいます。白いブラシの木もあるようです。

下記をクリックすると、ブラシの木のスライドショウをご覧いただけます。

   ブラシの木のスライド



             風来坊

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