その後、武蔵、上野などを周って他流試合を行い門弟数も増え、伊香保神社に奉納額を掲げることを企画したが、地元の馬庭念流がこれを阻止しようとする騒動が発生し、掲額は断念しました。この騒動で周作自身は名を挙げたが、北辰一刀流は事実上、上野から撤退し、上野(群馬県)では明治中期まで北辰一刀流を教える者はいない状態となりました。
江戸に帰り、文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館という道場を建て、後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、江戸に剣術の一流を興しました。この北辰一刀流は精神論に偏らず合理的な剣術であったため人気を得ました。それまでの剣術は習得までの段階が8段階で費用も時間も多くにかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は、主に竹刀を使用し段階を3段階と簡素化したことが特徴でした。
玄武館の人気は絶大なものとなり、「力の斎藤」(練兵館)、「位の桃井」(士学館)とならんで、玄武館は「技の千葉」と称され、この3道場は後に幕末江戸三大道場と称されました。
天保10年(1839年)に周作の盛名を聞きつけた水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、天保12年には馬廻役として100石の扶持を受けました。
弟の千葉定吉は京橋桶町に道場を持って桶町千葉と称されました。次男の栄次郎成之と三男の道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっています。千葉周作の門下から幕末の重要人物を多数輩出しています。主な人物として浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などが挙げられ、門弟の井上八郎、塚田孔平、海保帆平らは優れた剣客として名を上げました。
|