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東京龍馬会第49回史跡探訪 その2 (H23.10.15)
『岩崎家・新撰組ゆかりの幕末板橋・巣鴨を歩く』


本妙寺



本妙寺



本妙寺

「巣鴨空想時代絵図」の掲げられている広場から白山通りに沿って300mほど進んだ「豊島市場前」の信号で白山通りを横切って、東京都中央卸売市場豊島市場に沿って路地を真っ直ぐ200mほど進んだ正面が本妙寺です。

本妙寺は法華宗陣門流の東京別院です。

山号は徳栄山、院号は総持院で、本尊は十界勧請曼荼羅です。


元亀2年(1572年)日慶が開山。遠江国曳馬(現在の浜松市曳馬)に創建された寺です。天正18年(1590年)家康が関東に移った際に、武蔵国豊島郡の江戸城内に移ります。

その後寺地を転々とし、元和2年(1616年)小石川に移ったが、寛永13年(1636年)伽藍が全焼し、本郷丸山に移りました。

本郷時代は塔頭7院を有し、現在も本郷5丁目付近に「本妙寺坂」の地名が残されています。


本妙寺



明暦の大火供養塔

江戸の大半を焼失した明暦3年(1657年)の大火、いわゆる明暦の大火では、この寺でのお炊き上げから火が出たとも伝えられています(異説あり)。

現在墓地には明暦の大火でなくなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔があります。


本妙寺は明治43年(1910年)に現在地に移っています。


本妙寺には、史跡として「明暦大火供養塔、久世大和守歴代の墓、遠山金四郎景元の墓、千葉周作の墓、本因坊歴代の墓、天野宗歩の墓、森山多郎の墓」の表示があり、また境内には墓所の地図もあります。


本妙寺史跡



本妙寺鐘楼

千葉周作作政

千葉周作は江戸時代の剣術の北辰一刀流の創始者で、千葉道場の総師範です。

千葉周作の出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の2説があります。

曽祖父の道胤は相馬中村藩の剣術指南役であったが、御前試合で敗れたために役を辞して栗原郡長岡村荒谷(現宮城県大崎市古川荒谷)へ移り、その子の吉之丞常成は北辰夢想流剣術を創始したといわれています。

周作の父の成胤もいったんは指南役に推挙されたが、辞して松戸で馬医者を開業します。


周作は5歳の頃、父に連れられて宮城県栗原郡長岡村荒谷に移住しますが、その後松戸に戻り小野派一刀流の浅利又七郎義信の道場に入門します。さらに、江戸に出て浅利の師の中西子正の指南を受けて腕を磨きます。

一時は浅利又七郎の婿となって後を継ぐことを期待されます。

しかし、家伝の北辰流と一刀流を融合した新しい流派を創始することを目指したい周作は妻を連れて独立し、新たに北辰一刀流を創始しました。


千葉周作成政の墓


その後、武蔵、上野などを周って他流試合を行い門弟数も増え、伊香保神社に奉納額を掲げることを企画したが、地元の馬庭念流がこれを阻止しようとする騒動が発生し、掲額は断念しました。この騒動で周作自身は名を挙げたが、北辰一刀流は事実上、上野から撤退し、上野(群馬県)では明治中期まで北辰一刀流を教える者はいない状態となりました。

江戸に帰り、文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館という道場を建て、後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、江戸に剣術の一流を興しました。この北辰一刀流は精神論に偏らず合理的な剣術であったため人気を得ました。それまでの剣術は習得までの段階が8段階で費用も時間も多くにかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は、主に竹刀を使用し段階を3段階と簡素化したことが特徴でした。
玄武館の人気は絶大なものとなり、「力の斎藤」(練兵館)、「位の桃井」(士学館)とならんで、玄武館は「技の千葉」と称され、この3道場は後に幕末江戸三大道場と称されました。

天保10年(1839年)に周作の盛名を聞きつけた水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、天保12年には馬廻役として100石の扶持を受けました。
弟の千葉定吉は京橋桶町に道場を持って桶町千葉と称されました。次男の栄次郎成之と三男の道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっています。千葉周作の門下から幕末の重要人物を多数輩出しています。主な人物として浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などが挙げられ、門弟の井上八郎、塚田孔平、海保帆平らは優れた剣客として名を上げました。



遠山景元の墓の前で



遠山景元の墓

遠山景元

遠山景元は、ご存じ「遠山の金さん」です。

江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を務めた人物です。

下情に通じた江戸時代屈指の名奉行といわれ、「遠山の金さん」としてさまざまな伝説があります。


父は長崎奉行を務めた遠山景普です。
父・景普は永井家から遠山家に養子入りしましたが、3年後に養父・景好の実子景善が生まれ、その後景元が生まれたため、実父を祖父と呼び、景善を父と呼ぶ複雑な家庭環境で育つことになり、家で出て町屋で放蕩生活を送るが、後に帰宅します。

文政7年(1824年)に景善が亡くなったため、翌年幕府に出仕し、江戸城西丸の小納戸に勤務して役料300俵を支給され、当時世子だった徳川家慶の世話役を務めました。
文政2年(1829年)景普の隠居に伴い家督を相続、知行500石を相続します。

天保3年(1832年)に西丸小納戸頭取格に就任、その後出世街道を進み、天保11年(1840年)に北町奉行に就きます。
老中水野忠邦の手によって天保12年(1841年)に始まった天保の改革の実施にあたっては、最初は町人たちを奉行所に呼び出して分不相応の贅沢と奢侈の禁止を命令していて、風俗取り締まりの町触れを出したり、寄席の削減を実行するなど方針の一部には賛成していました。しかし、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対し、南町奉行の矢部定謙とともに老中水野忠邦や目付の鳥居耀蔵と対立しました。

天保12年9月に鳥居による策謀で矢部は過去の事件を蒸し返され、翌天保13年(1842年)に罷免・改易となり、その後伊勢桑名藩で死亡すると、鳥居が後任の南町奉行になり、景元は1人で水野・鳥居と対立することになりました。

寄席の削減についても水野と対立しました。
天保12年11月、水野が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して浅草猿若町への小屋移転だけに留めました。この景元の動きに感謝した関係者がしきりに景元を賞賛する意味で、『遠山の金さん』ものを上演しました。鳥居や水野との対立が「遠山=正義、鳥居=悪逆」という構図を作り上げたのです。

しかし天保14年(1843年)2月24日、鳥居の策略によって北町奉行を罷免され、大目付になります。栄転であり地位は上がったが、当時は諸大名への伝達役に過ぎなかったため実質的に閑職でした。
天保14年9月13日に水野が改革の失敗により罷免になります。鳥居は反対派に寝返って地位を保ちましたが、翌弘化元年6月21日に水野が復帰し、水野の報復によって鳥居が失脚し、水野の弟跡部良弼が後任の南町奉行となったが、弘化2年(1845年)に小姓組番頭に異動し、景元が南町奉行として返り咲きました。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは極めて異例のことです。


森山多吉郎

森山多吉郎は文政3年(1820年)、長崎に生まれます。

家は代々オランダ通詞を努めていました。

嘉永元年(1848年)、偽装漂着のアメリカ人ラナルド・マクドナルドから本格的に英語を学び、蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として活躍します。


森山多吉郎の墓


嘉永3年(1853年)には「エゲレス語和解」の編集に従事し、嘉永6年(1853年)のプチャーチン来航の際は川路聖謨の通詞として活躍します。また、オランダの地図に樺太の日露国境が北緯50度線となっていることを発見し、これが、日本の対露国境の根拠となります。

嘉永7年(1854年)のペリー来航の際も通訳を務め、その後江戸小石川に英語塾を開きます。文久2年(1862年)には開港延期問題で渡欧した竹内保徳遣欧使節団の通訳としてオールコックと同船でイギリスに赴き、使節一行とロンドンで合流します。その後、各国を巡り帰国。帰国後は通弁役頭取、外国奉行支配調役などを歴任すると共に、万延元年(1860年)の大統領への英文書の作成にも活躍する。しかし、維新後は新政府に仕えることはありませんでした。

なお、彼の英語塾の門下生には津田仙、福地源一郎、沼間守一などがおり、福澤諭吉も短期間ではあったが学んでいます。



染井霊園



染井霊園 この右手が高村光太郎の墓地

本妙寺を出て、左手に200mほど進んだところが染井霊園です。

明治政府の神仏分離政策により神式の葬儀が増えたものの、既存の墓地の多くは寺院の所有であり埋葬する場所が確保できませんでした。

また、キリスト教会も墓地を持っていませんでした。このため寺院の所有でない墓地を造る必要にせまられていました。


このため明治政府は1872年に播州林田藩建部邸跡地を神葬墓地として開設しました。

1874年に東京府の管理下に置かれ宗教によらない公共墓地となります。


都立霊園の中では最も規模が小さい霊園です。
園内には約100本のソメイヨシノが植えられ、遊歩道の一部は桜の名所として親しまれています。
染井霊園には幕末から明治にかけて活躍した大名や活動家、学者などが多く眠っています。

また、染井霊園周辺には寺院が多く、それぞれに墓地があります。
このため慈眼寺にある芥川龍之介や谷崎潤一郎、本妙寺にある千葉周作、遠山景元の墓が染井霊園にあると紹介されることがあるようです。



土方久元の墓所


土方久元

土方久元は、天保4年(1833年)、土佐藩士土方久用の長男として生まれる。

安政4年(1857年)江戸に出ている儒者大橋訥庵の門に学び、尊王攘夷思想に傾倒します。

帰国後、文久元年(1861年)に土佐勤王党に参加します。

文久3年(1863年)藩命により京都に上り、尊攘派の牙城であった長州藩を始め諸藩の勤王の志士と交流します。


土方久元の墓所



土方久元の墓所

山内家の縁戚でもある三条実美の知己を得て、徴士に選ばれて学習院御用係となります。

ところが八月十八日の政変により、久元は三条実美や沢宣嘉など「七卿落ち」に従って長州に下り、さらに幕府による第一次長州征伐の際には、三条らに従い太宰府まで逃れます。

元治元年(1864年)、三条の命により上京し、薩長和解に奔走。ちょうど吉井幸輔の宿舎に居合わせた坂本龍馬と時勢を論じます。

また、太宰府への帰路、下関の白石正一郎宅において再び龍馬と巡り会い、中岡慎太郎とともに薩長和解に向けて周旋中であることを説いて協力を要請します。


この時、西郷は、薩摩に向かった中岡が説得して上京途上に下関に立ち寄る手はずになっているので、桂小五郎の説得に龍馬と当たりました。何とか桂小五郎に承諾させるまでにこぎつけたので、土方は三条への報告のために太宰府に帰りました。
しかし、西郷が下関に立ち寄ることを承知せず、下関での薩長和解は不発に終わりました。

明治維新後は新政府に仕え、内閣書記官長、元老院議官、農商務大臣、宮内大臣などの要職を歴任します。宮内大臣は11年間に渡って務めています。

晩年は帝室制度取調係総裁心得、皇典講究所長などを経た後、教育関連の仕事に従事。聖徳講話などを行い国民の教化に尽力し、國學院大學長、東京女学館長などを務めました。また、明治天皇が崩御し、大正の世となると、臨時帝室編修局総裁の職に就き『明治天皇紀』の編纂に尽力しています。


下岡連杖

下岡連杖は文政6年(1823年)、伊豆下田の桜田惣右衛門の三男として生まれます。

13歳で江戸に出て、狩野菫川の門に入ります。

ある日、オランダ船のもたらした銀板写真を見て驚嘆し、以来、写真術を学ぼうと決心しました。

写真術をアメリカ総領事ハリスの通訳ヒュースケンや写真家ウンシンに学び、文久2年(1862年)横浜にわが国最初の写真館全学堂を開業します。


下岡連杖の墓



横浜馬車道の下岡蓮杖顕彰碑 最上部にカメラが

長崎の上野竜彦とともに職業写真家の先駆とされています。

門下からは、横山松三郎、臼井秀三郎、鈴木真一、江崎礼二など、日本写真史に名を残す著名な写真家達を輩出しています。


松平定敬

松平定敬は4代目桑名松平家の藩主です。

美濃国高須藩(現在の岐阜県海津市)藩主松平義建の八男として生まれます。
兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主一橋茂栄、会津藩主松平容保などがおり、いわゆる高須4兄弟の末弟です。

安政6年(1859年)に桑名藩主・松平定猷が死亡すると、長男・万之助(後の桑名藩主・松平定教)が3歳と幼少で、かつ妾腹の庶子であったため、14歳の時に定猷の正室の間に儲けた娘・初姫(当時3歳)の婿養子として迎えられ藩主となります。


松平定敬と初子の墓


元治元年(1864年)に京都所司代に任命され、実兄で京都守護職の松平容保(会津藩主)、朝廷から新設の禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任命された元将軍後見職徳川慶喜(一橋徳川家当主)と連携し、幕府から半ば独立して朝廷を援護する勢力を形成します(近年では一橋・会津・桑名の頭文字をとって一会桑権力と呼ばれています)。
同年の禁門の変では会津藩とともに長州藩の兵を撃退し、水戸天狗党の乱にも出兵しています。

慶応4年(1868年)に戊辰戦争がはじまると、徳川慶喜に従い江戸の霊巌寺(江東区)にて謹慎しました。江戸城では抗戦派と恭順派が争い、大久保一翁と勝海舟により恭順工作が進められていました。さらに桑名藩は会津と並んで新政府側からは敵視されており、国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から先代当主の遺児・万之助(後の定教)をかついで恭順することを家老達が決めていました。そのため、徹底抗戦派と見られていた定敬の帰国は困難な状況となった。定敬は一翁から桑名藩の分領である越後国柏崎へ赴く事を勧められ、横浜からプロイセン船「コスタリカ号」で柏崎へ渡ります。その後は会津若松城で兄の容保と再会し、仙台から榎本武揚の艦隊で箱館へ渡りました。

明治2年(1869年)に横浜へ戻り降伏し、明治5年(1872年)に赦免され、同年2月に許嫁の初子と結婚しています。
明治10年(1877年)の西南戦争には旧桑名藩士を率いて遠征しました。



杉享二の墓

杉 享二

杉享二は文政11年(1828年)に長崎で生まれ、大村藩の藩医村田徹斎の書生を経て、嘉永元年(1848年)大坂の適塾に入門するも病のため同年帰国します。

翌年には江戸に出て中津藩江戸藩邸の蘭学校に入門します。

嘉永6年(1853年)に勝海舟と知り合い、勝塾の塾長を勤めた後、勝の推挙により老中阿部正弘公の侍講となります。


明治維新後は静岡藩に仕え、明治2年(1869年)には「駿府国人別調」を実施したが藩上層部の反対で一部の地域の調査でとどまりました。

明治4年に太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長にあたる)を命じられ、ここで近代日本初の総合統計書となる「日本政表」の編成をおこないます。
明治12年(1879年)には日本における国勢調査の先駆となる「甲斐国現在人別調」を実施しました。

明治18年(1885年)統計院大書記官を最後に官職を辞し、以後は民間にあって統計の普及に努めました。明治43年(1910年)には国勢調査準備委員会委員となり、統計学者の呉文聰や衆議院議員の内藤守三らとともに長年の念願であった国勢調査の実現のため尽力しましたが、第1回の国勢調査が行われるのを見ずして病没しました。



岩崎家の墓所


岩崎弥太郎は当初染井墓地に葬られましたが、後に隣接する三菱社宅の敷地に移されました。

岩崎弥太郎が葬られている墓地には、弥太郎以外の岩崎家本家の者も葬られているとのことです。

ただし、岩崎家の分家の中には染井霊園に葬られている方もおります。

例えば、岩崎弥太郎の孫の岩崎勝太郎などです。


岩崎弥太郎の墓はこの林の中に



花吹雪広場

岩崎家の分家の墓の隣が「花吹雪広場」です。

花吹雪広場から染井霊園と東京スイミングセンターの間の道路を100mほど進んだ左手が染井霊園事務所です。

左手に真っ直ぐ進むと慈眼寺です。


染井霊園事務所を右折し東京スイミングセンターに沿って染井通りを進むと、信号のある交差点の次の三叉路の左手に「染井駐在所」があります。

「染井駐在所」の手前を左折して、路地を100mほど進んだところが「染井よしの桜の里公園」で、その隣に「染井稲荷神社が」あります。


染井霊園事務所



染井駐在所

豊島区駒込3・6・7丁目付近は、昔、染井村と呼ばれており、江戸時代から植木の一大生産地として知られていました。

江戸時代から明治初期に、染井村の造園師や植木職人達によって育成され「吉野桜(ヤマザクラ)」として売り出されていた桜が、藤野寄命の調査によってヤマザクラとは異なる品種の桜であることが判明し、1900年に「日本園芸雑誌」で染井村の名を取り「染井吉野」と命名されました。


ソメイヨシノはエドヒガン系の桜とオオシマサクラの交配で生まれた桜の園芸品種です。

「染井よしの桜の里公園」という名前は、ここ駒込の地が「染井よしの」の発祥の地であることを世界に発信するために名付けられたものです。

「染井よしの桜の里公園」から桜並木を道なりに進むと丁字路で正面が駒込小学校です。

ここを右折して50mほど進んだところが「門と蔵のある広場」です。


染井よしの桜の里公園



染井稲荷神社

この広場の所有者である丹羽家は、天明年間(1780年代)から明治後期まで、この染井を代表する植木屋として活躍していました。

代々「茂右衛門」を襲名して、造り菊、石菖、蘭、ツツジなどを得意とした植木屋でした。

津藩藤堂家や尾張藩などの大名屋敷にも出入りするなど、武家にも信用を得ていました。

八代目茂右衛門の代で植木屋をやめましたが、当地域の旧家として知られています。


旧丹羽家腕木門

旧丹羽家の門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが、格式の在る門です。

この門の建築年代を明らかにする記録はありませんが、古い伝えによれば、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれています。

当初の部材と考えられる親柱には和釘が使用され、親柱、冠木、扉などの風蝕もかなり進んで木目が深く浮き出ています。


旧丹羽家腕木門



旧丹羽家腕木門

また、都内の類例と比較して大名家の裏門として使われも不思議はない規模と構造といえます。

解体工事の過程で墨書が発見され、弘化4年(1847年)、嘉永6年(1853年)、安政6年(1859年)の3回修理が行われていたことが判明し、江戸末期の建築と推定されます。


豊島区の有形文化財に指定されています。



旧丹羽家住宅蔵


旧丹羽家住宅蔵

この蔵は、丹羽家に残されていた記録から、昭和11年(1936年)の建築であることがわかっています。

もとは主屋の北側に木造2階建ての蔵が建っていましたが、八代目茂右衛門が九代目の結婚の際に主屋の増改築とあわせて、鉄筋コンクリート造りのこの蔵に建て直したものです。

蔵は出入口を東西に設け、増築した六畳間と廊下で主屋とつながっていました。出入口の観音開きの鉄製扉の内側に家紋(五三桐)が付いています。また扉上部と両脇の柱に大理石が貼られるなど、装飾に気を使っている点が注目されます。


旧丹羽家住宅蔵



旧丹羽家住宅蔵

旧丹羽家蔵は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りでありながらも、細部には職人の技術や建築主のこだわりが見られます。

建築後70年以上が経過していますが、昭和初期の建築当時の姿を残しています。


これらの点が評価され、平成20年(20008年)に国の登録有形文化財建築物になりました。


「門と蔵のある広場」から道なりに50mほど進むと丁字路があり染井通りに戻ります。

「染井駐在所」から100mほどの処です。


丁字路を左折して500mほど進むと染井橋でJR山手線の上部を通過します。

さらに200mほど進んだところが六義園の染井門です。


染井通り



六義園染井門

染井門の傍の「駒込橋」の信号で本郷通りを横切り、2つ目の筋を右方向に300mほど進んだところが「木戸孝允別邸跡」です。

木戸孝允は晩年、皇居にも近い富士見町の本邸のほかに、ここ本郷丹後守の屋敷跡を別邸とし、心許せる友を招き、時には六義園を散策するなどして心と体を癒していました。

胃癌だったといわれています。


明治天皇は、この地で療養していた木戸を2度見舞っています。

明治10年1月、天皇の大和・京都行幸に随行しますが、京都に到着した途端に持病を発病します。

2月25日に西南戦争が勃発し、征討総督有栖川宮仁親王に従い、鎮圧に行きたいと願い出ますが、許可されませんでした。


木戸孝允別邸跡の石碑



木戸孝允別邸跡

夜中に「西郷もまた大抵にせんか。予今自ら赴きて之を説諭すべし」と怒鳴ったという逸話も残っています。

そして明治10年5月26日に死亡します。

遺言により遺骸は、京都の霊山に先に逝った多くの志士たちとともに眠っています。

本郷通りに戻り六義園に向かいました。




六義園


六義園

六義園は5代将軍・徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保が元禄15年(1702年)に築園した、和歌の趣味を基調とする「回遊式築山泉水」の大名庭園です。

池をめぐる園路を歩きながら、移り変わる景色を楽しむことができる、繊細で温和な日本庭園です。

造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられておりました。


六義園



六義園

明治時代に入って、三菱の創業者である岩崎弥太郎の別邸となりました。

その後、昭和13年(1938年)に岩崎家より東京市(都)に寄付されて、一般公開されることになりました。

昭和15年8月、史蹟名勝特別記念物保存法によって名勝の指定を受け、昭和28年3月に国の特別名勝に指定されました。



六義園


柳沢吉保は作庭にあたり、吉保自身の培った文芸趣味の思想に基づき、自分から設計、指揮し、7年余りの歳月を費やして、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、流れを見せて、「回遊式築山泉水庭園」を作り上げました。

園内には、紀州和歌の浦の景勝を、あるいは「万葉集」や「古今集」から名勝を選び、88個所の景勝地を設定しております。


六義園



六義園

庭園の中央に池を設け、中島を置き、島には妹背山があり、東南部に平坦な芝生、その他の部分には大小多数の築山が起伏しています。

庭園の北部に最大の築山、藤代峠を設け、各所に桃の茶屋、滝口の茶屋、吟花亭、熱海の茶屋、つつじの茶屋、芦辺の茶屋等のあずまやを配しています。



六義園


「六義園」という名前は、中国の古い書物である毛詩に配されている、賦・比・興・風・雅・頌の六義に由来する和歌の六体によるものです。

「六義園」を「むくさのその」と呼ばせ、館を「六義館」と書いて「むくさのたち」と読ませています。


六義園



六義園の枝垂れ桜


写真は10月15日と10月26日に撮影したものです。



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