散策スポット・北海道東北

散策スポット目次

HOME

前ページ

次ページ

東京龍馬会第49回史跡探訪 その1(H23.10.15)
『岩崎家・新撰組ゆかりの幕末板橋・巣鴨を歩く』


出発前の会長代行挨拶



JR板橋駅東口

東京龍馬会の第49回史跡探訪に参加しました。

今回のテーマは、『岩崎家.新選組ゆかりの幕末板橋・巣鴨を歩く』です。

今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。

JR板橋駅東口改札口→近藤勇の墓→旧中山道を巣鴨へ「とげぬき地蔵」などを通って散策→徳川慶喜巣鴨屋敷跡→各個に昼食→巣鴨商店街前広場→本妙寺(千葉秀作、森山多吉郎の墓ほか)→染井霊園勝(土方久元、下岡蓮杖、松平家、岩崎家の墓ほか)→津藩藤堂家・下屋敷の裏門→木戸孝允駒込別邸跡→六義園(元・岩崎家所有)→解散


受付開始時刻の10月15日午前10時の10分ほど前に、JR板橋駅東口に到着すると既に多くの方が集まられていました。

早速に会費を支払うと名札と今回の史跡探訪の資料が渡されました。

この資料は東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。

写真は10月15日と10月26日に撮影したものです。


会長代行挨拶



近藤勇墓所の大きな案内板

JR板橋駅東口の左前方の「板橋駅東口前」の交差点の傍に「近藤勇と新撰組隊士供養塔」があります。

慶応4年(1868年)4月25日、新撰組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。

その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。(胴体埋葬場所には異説あり)



近藤勇墓所



近藤勇墓所


本供養塔は没後の明治9年(1876年)5月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉新八が発起人となり、旧幕府御典医であった松本順の協力を得て建立されたものです。

高さ3.3m程ある独特の細長い角柱状で、四面すべてにわたり銘文がみられます。

正面には近藤勇と久方歳三の名前が、右側面と左側面には110名の新撰組の隊士の名前が刻まれています。


近藤勇・新撰組供養塔



近藤勇像

戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分かった永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。

本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新撰組ゆかりの者たちが祀られているので、新撰組研究を行う基礎資料とされ、学術的も高く貴重な文化財です。


近藤勇は天保5年(1835年)に武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)の豪農、宮川久次郎の三男にとして産まれました。

寛永元年(1849年)、15歳で多摩地方に門人の多い天然理心流剣術道場.試衛館に入門。盗人を退治するなどして近藤周助に認められ、周助の実家である嶋崎家の養子となり、嶋崎勝太と名乗ります。

その後、正式に近藤家と養子縁組し、万延元年(1860年)に松井つねとの結婚を機に近藤勇を名乗るようになります。


文久元年(1861年)には、天然理心流4代目宗家を襲名し、試衛館道場主となります。


近藤勇肖像



幹事の説明を熱心に聞く参加者


文久3年(1863年)2月の14代将軍家茂の上洛にあわせて、清河八郎の発案で将軍警護のための「浪士組」が結成され、近藤勇を始めとして試衛館から8人が参加しました。
2月8日に江戸を出発した浪士組は中山道を進み、2月23日に京都壬生村に到着した。
浪士組に帰還命令が出され、清河八郎が率いる浪士組は3月13日に京都を出発して江戸に向かいますが、清河に反対した近藤や水戸浪士・芹沢鴨など24人は京都に残留し、壬生浪士組を結成します。

長州藩を京都政局から排するための会津藩、薩摩藩主導の八月十五日の政変に出動したのを機に、会津藩主松平容保より「新撰組」の隊名を授けられます。
その後、会津藩の命により、芹沢一派を暗殺して、近藤は新撰組の実権を手中にします。

幕末、京都は政治の中心地になり、諸藩から尊王攘夷、倒幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化しました。
従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、最高治安機関として京都守護職を新設し、会津藩主の松平容保を就任させました。
その配下で治安維持にあたった臨時警察部隊が新撰組です。

同様の組織に京都見廻組がありました。
新撰組が浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規部隊でありのに対し、京都見廻組は幕臣で構成された正規部隊です。

新撰組は、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件で勇名を馳せ、会津藩から絶大な信頼を置かれることとなります。
しかし、慶応元年(1865年)からの長州征伐では、近藤は広島まで赴きますが殆ど成果を得ることができず、さらに慶応4年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦いに敗れた新撰組は幕府の軍艦で江戸に落ち延びることになります。



近藤勇埋葬当初の墓石

慶応4年(1868年)3月、幕府の命を受けた近藤は大久保剛と改名し、甲陽鎮撫隊として隊を再編して甲州へ出陣しましたが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走し、その際、意見の対立から試衛館時代からの同士の永倉新八、原田佐之助らが離別します。

その後、大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬4丁目)で募集し、4月には下総国流山に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷の政府軍本営に出頭します。


しかし、大久保が近藤勇と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行されます。

近藤は大久保の名を貫き通しますが、御陵衛士の生き残りの加納鷲尾によって正体を暴かれ、捕縛されます。

その後、土佐藩と薩摩藩との間で、近藤の処遇を巡り対立が生じたが、結局4月25日、武士としての切腹は許されず、斬首の刑処せられることになりました。

首は3日間晒され、その後焼酎付けにされ京都に送られ四条河原に晒されましたが、3日後に行方不明となっています。


近藤勇、土方歳三、永倉新八の肖像画



永倉新八の墓

近藤の遺体は、東本願寺法王自ら受け取り埋葬されたとされていますが、一説に同士により奪還されて岡崎市の法蔵寺に葬られたともいわれています。

また、胴についても、板橋駅前の墓があるところに埋められたという説や、夜陰に紛れて家族が取り戻して三鷹市の龍願寺に埋葬されたとする説があります。

諸説が入り乱れていて近藤勇の首や胴体の場所はわかりません。



滝野川銀座



滝野川銀座


近藤勇の墓所に向かって左手方向に100mほど進んだ信号を左右に走っているのが旧中山道で、右折すると滝野川銀座の商店街となります。

滝野川銀座はすぐ左手の埼京線の踏切から明治通りの手前までほぼ一直線に伸びている商店街です。


滝野川銀座



滝野川銀座



滝野川銀座

戦前から続いている歴史のある商店街で老舗も多いようです。

殆ど歩道のない二車線の道路ですが、北側200mほどを国道17号線(白山通り)が並行して走っているためか、比較的車の量も少なく、明治通りと交差する「掘割交差点」まで約500mの間には信号がありません。



滝野川銀座


滝野川銀座



庚申塚昭栄会


明治通りを横切ると「庚申塚昭栄会」の商店街に入ります。

この町並みも信号がなく、500mほど進んだところに都電の踏切があり、踏切の傍が「庚申塚駅」です。

都電の踏切を渡って50mほど進んだ信号が「庚申塚交差点」で、傍らに「猿田彦大神庚申堂」があります。


都電庚申塚駅



都電


都電



猿田彦大神



猿田彦大神

巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷近在に聞こえる名所でした。

江戸と板橋の間にあり、行き交う旅人で賑わっていたと伝えられ、その様子は広重の「江戸名所図会」にも描かれています。

現在でも、庚申の日ともなると、近くの「とげぬき地蔵」の縁日(毎月4の日)と同様に多くの参拝者があります。


「江戸名所図会」の中の茶店の屋根の葦簀(よしず)の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。

現在、この石塔は祠の中に納められており、銘文によれば明暦3年(1657年)に造立されたものです。

巣鴨の庚申塔として全国的に有名な、文亀2年(1502年)に造立の高さ8尺の石碑は、この塚の下に埋められていると伝えられています。


猿田彦大神庚申堂



江戸名所図会に描かれた巣鴨庚申塚



庚申塔に彫られた猿

また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、これは、巣鴨近辺の有志が、明治初期、銚子市にある猿田神社から猿田彦大神を分祀したという歴史的事実によるものです。


庚申塔に彫られる像や文字はさまざまですが、「申」は干支で「猿」に例えられることから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講参加者の名前を記したものが多いとのことです。

また、同様の理由で庚申の祭神が猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもあるようです。


庚申塔に彫られた猿



巣鴨地蔵通り商店街 庚申塚からの入口



巣鴨地蔵通り商店街

庚申塚のある交差点から「巣鴨地蔵通り商店街」となります。

「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる巣鴨地蔵通りは、旧中山道であり、江戸の中期から現在にいたるまで、商業や信仰の場として栄えてきました。

巣鴨地蔵通りは江戸時代、中山道の出発地点日本橋から出発して最初の休憩所が、江戸六地蔵尊 眞性寺から巣鴨庚申塚の間に点在し、町並みが作られました。



巣鴨地蔵通り商店街


巣鴨地蔵通り商店街



巣鴨地蔵通り商店街 巣鴨駅側入り口付近



巣鴨地蔵通り商店街 とげぬき地蔵尊付近


明治24年(1891年)には、とげぬき地蔵尊 高岩寺が上野から巣鴨へ移転し、現在の巣鴨地蔵通りは「とげぬき地蔵尊」と「江戸六地蔵尊」の2つのお地蔵様と巣鴨庚申塚に守られて、商業の街、信仰の街としてお年寄りを中心に若い人達にも親しまれています。

巣鴨地蔵通りは全長約780mあり、約200の店舗が建ち並んでいます。


巣鴨地蔵通り商店街 とげぬき地蔵尊本堂入口



とげぬき地蔵尊本堂



とげぬき地蔵尊 高岩寺

とげぬき地蔵尊 高岩寺

曹洞宗萬頂山高岩寺は「とげぬき地蔵尊」の名前で親しまれています。

慶長元年(1596年)に江戸湯島に開かれ、約60年後に下谷屏風坂に移り、巣鴨には明治24年(1891年)に移転してきました。

ご本尊は「とげぬき地蔵」として霊験あらたかな延命地蔵菩薩です。


高岩寺の地蔵菩薩は秘仏ですので残念ながら拝見することはできませんが、そのお姿を元に作られた御影に祈願してもご利益があるとされています。

とげぬき地蔵尊御影は、縦4センチ横15センチの和紙の中央に尊像が描かれています。

痛いところに張ったり、喉に骨が刺さった時に飲んだりすると治るといわれ、高岩寺本堂で授与しています。


とげぬき地蔵尊 高岩寺



洗い観音

大岩寺に洗い観音があります。

江戸時代最大の火事であった1657年の「明暦の大火」で、当寺の檀徒の一人屋根屋喜平次は妻をなくし、その供養のため、聖観世音菩薩を高岩寺に寄進しました。

この聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしか生まれました。これが「洗い観音」の起源です。


その後、永年に渡ってタワシで洗っていた聖観世音菩薩は、顔などもしだいにすりへってきたので、平成4年11月27日に、この仏像にご隠退をいただき、あたらしい聖観世音菩薩の開眼式を執行しました。

新しい仏像の製作者は彫刻家の八柳尚樹氏、寄進者は仲堀義江氏です。

同時にタワシを廃止し布で洗うことになりました。


洗い観音



徳川慶喜巣鴨屋敷跡の説明を聞く参加者



徳川慶喜巣鴨屋敷跡の説明を聞く参加者



巣鴨空想時代絵図

とげぬき地蔵から100mほど進むと国道17号(白山通り)に合流します。

この合流点に広場があって、ここの広場には、巣鴨地蔵通り商店街の過去・現在・未来・空想の4つの風景をひとつにまとめて描いた「巣鴨空想時代絵図」が掲げられていました。

広場のすぐ先の右手が江戸六地蔵尊の眞性寺です。

白山通りに沿ってそのまま進み、JR山手線の上を通過し、さらに100mほど進んだところに「徳川慶喜巣鴨屋敷跡」の石碑があります。


徳川15代将軍徳川慶喜が、巣鴨の地に移り住んだのは明治30年(1897年)10月19日で61歳の時でした。

大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことです。

翌年3月には皇居に参内し、明治35年には公爵を授けられるなど復権への道を歩みました。


巣鴨空想時代絵図



徳川慶喜巣鴨屋敷跡の石碑

巣鴨邸は、中山道(白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれて親しまれていたとのことです。

慶喜が巣鴨に居住していたのは明治34年12月までの4年間で、巣鴨邸のすぐ隣を、目白〜田端間の豊島線(現在のJR山手線)が開通することになると騒音を嫌って、小日向第六天町(茗荷谷駅近く)に移り、そこで大正2年に生涯を終えるまで過ごすことになります。


午前の史跡研修は「徳川慶喜巣鴨屋敷跡」で終了し、巣鴨で昼食休憩となりました。

午後は巣鴨地蔵通り商店街と白山通りの分岐点にある広場がスタートです。


関連するホームページ

 東京龍馬会



東京龍馬会第49回史跡探訪その2へ


          風来坊


色の濃い部分が徳川慶喜巣鴨屋敷跡


目次  TOP  HOME