文久3年(1863年)2月の14代将軍家茂の上洛にあわせて、清河八郎の発案で将軍警護のための「浪士組」が結成され、近藤勇を始めとして試衛館から8人が参加しました。
2月8日に江戸を出発した浪士組は中山道を進み、2月23日に京都壬生村に到着した。
浪士組に帰還命令が出され、清河八郎が率いる浪士組は3月13日に京都を出発して江戸に向かいますが、清河に反対した近藤や水戸浪士・芹沢鴨など24人は京都に残留し、壬生浪士組を結成します。
長州藩を京都政局から排するための会津藩、薩摩藩主導の八月十五日の政変に出動したのを機に、会津藩主松平容保より「新撰組」の隊名を授けられます。
その後、会津藩の命により、芹沢一派を暗殺して、近藤は新撰組の実権を手中にします。
幕末、京都は政治の中心地になり、諸藩から尊王攘夷、倒幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化しました。
従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、最高治安機関として京都守護職を新設し、会津藩主の松平容保を就任させました。
その配下で治安維持にあたった臨時警察部隊が新撰組です。
同様の組織に京都見廻組がありました。
新撰組が浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規部隊でありのに対し、京都見廻組は幕臣で構成された正規部隊です。
新撰組は、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件で勇名を馳せ、会津藩から絶大な信頼を置かれることとなります。
しかし、慶応元年(1865年)からの長州征伐では、近藤は広島まで赴きますが殆ど成果を得ることができず、さらに慶応4年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦いに敗れた新撰組は幕府の軍艦で江戸に落ち延びることになります。
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