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横浜散歩No1:神奈川宿歴史の道その1 (H22.8.21)


神奈川宿歴史の道全体図  拡大写真


神奈川宿は、東海道五十三次の日本橋より数えて3番目の宿場です。

この神奈川宿の地名が、県の名前や区の名前の由来となっています。
またここが、近代都市横浜の母体でもありました。
この神奈川が一躍有名になったのは、安政元年(1854年)の日米和親条約(神奈川条約)締結の舞台となってからです。

その4年後に結ばれた日米修好通商条約では神奈川湊が開港場に決められましたが、実際の開港は横浜になりました。
開港が神奈川に決まった当時、本覚寺がアメリカ領事館、長延寺がオランダ領事館になるなど神奈川宿付近の多くの寺が諸外国の領事館などに充てられました。
しかし、関東大震災と第2次世界大戦とによって、歴史的遺産の多くを失い、現在では地元の人でさえ、東海道がどこを通り、宿場町の様子がどうであったかを知る人は少なくなっているとのことです。

「神奈川宿歴史の道」は、「歴史や伝説の残る街は、その街そのものが生きた資料館なようなもの」との考えから、歴史や伝説を残す要所にガイドパネルを設けるとともに、道づくりと景観整備を行い、横浜市のルーツを楽しく訪ね歩くことができるようにした歴史の散歩道です。

ルートを示す案内板が設置されるとともに、主要ルートの歩道にはこげ茶色のレンガが敷かれ、この道に沿って歩くと自然にガイドパネルが立つ歴史的な場所に行くことができるようになっています。



横浜駅西口


ガイドパネルの前の歩道には「東海道」にちなんで青海波のシンボルマークがデザインされています。

また、パネル脇に立つ街路灯にも、この青海波のデザインが用いられています。

さらに、歩道に設置された車止めには、浦島伝説にちなんで亀がデザインされています。



「神奈川宿歴史の道」は、東は京浜急行神奈川新町駅近くの神奈川通東公園から西は横浜駅西口近くの上台橋に至るおよそ4.3キロの道のりです。


今回は、上台橋をスタート、神奈川通公園をゴールとするコースで歩きました。

コースの概要は次のとおりです。


ダイヤモンド街北9番出口と高速道路



高速道路の下


鶴屋3丁目のバス停



鶴屋3丁目の歩道橋


横浜駅西口→上台橋→神奈川台の関門跡→台町の茶屋→金比良羅神社→三宝寺→高島山公園→本覚寺(神奈川台の関門跡→かえもん公園→埋立と高島嘉右衛門→高島山公園→三宝寺→本覚寺)→青木橋→甚行寺→普門寺→洲崎天神→権現山→宗興寺→神奈川の大井戸→本陣跡→浄瀧寺→神奈川台場跡→慶雲寺→成仏寺→神奈川地区センター→高札場復元→熊野神社→金蔵寺→東光寺→神明宮→能満寺→良泉寺→笠のぎ稲荷神社→旧長延寺・土井跡→神奈川新町駅



横浜駅西口からバスターミナルを左手に見て進み、ヨドバシカメラの前を通り、高速道路の下を抜けると鶴屋町3丁目の交差点です。

この交差点には横断歩道がありませんので、歩道橋で交差点を渡ると50mほど先に、道路の上に橋が架かっています。

この橋が上台橋で、橋の上が旧東海道です。


上台橋 橋の上は旧東海道



上台橋傍の歴史の道スタート地点



歴史の道の経路案内図



上台橋から神奈川台関門跡方向を望む

上台橋(かみだいはし)

「神奈川宿歴史の道」は、この上台橋より始まります。

橋の袂に小さなスペースがあり、そこに「神奈川宿歴史の道」「上台橋」に関するガイドパネルが立っています。

また、ガイドパネルのそばに、神奈川宿歴史の道に関する散策経路の案内板があり、この案内板にしたがってスタートを切ることになります。



かつて上台橋付近は、潮騒の聞こえる海辺の道だったとのことです。


この場所に橋ができたのは、昭和5年(1930年)です。

横浜駅西口付近が埋め立てられ、開発が進み、切り通しの道路ができるとともに、その上に橋が架けられたのです。

橋の欄干は青海波をテーマに再整備されています。


橋の欄干の青海波



神奈川台関門跡



神奈川台関門跡


神奈川台関門跡

上台橋を渡り東にある緩やかな坂道を上りきったところに、神奈川台の関門跡で石碑が立っています。

石碑の立っている場所のやや西寄りに神奈川台の関門がありました。

開港後、外国人があいついで殺傷されましたが、その犯人はなかなか捕えられませんでした。



このためイギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは、幕府を激しく非難しました。そこで幕府は、安政6年(1859年)に横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化しました。


この時、神奈川宿の東西にも関門がつくられ、そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門です。

明治4年(1871年)に他の関門・番所とともに廃止されました。


神奈川台関門跡から下り坂に



台町のガイドパネルの右前方が田中家

台町の茶屋

神奈川台の関門跡から東の方向に坂道を100mほど下った道路脇に建っているガイドパネルに、次のように書かれています。

「ここ台町あたりは、かつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝に地であった。
弥次さん、喜多さんが活躍する『東海道中膝栗毛』にも、『ここは片側に茶屋軒をならべ、いずれも座敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし』とある。『「おやすみなさいやァせ』茶屋女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄り、鯵をさかなに一杯ひっかけている。」



このガイドパネルの右前方に、料亭田中家があります。


神奈川宿がにぎわった当時から続く唯一の料亭が、文久3年(1863年)創業の田中家です。

田中家の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名で、ガイドパネルにも絵が紹介されています。

高杉晋作やハリスなども田中家を訪れたとのことです。


田中家



田中家


田中家



田中家


坂本龍馬の妻「おりょう」の田中家で働いています。

「おりょう」が田中家で働き始めたのは明治7年で、勝海舟の紹介で働いたと伝えられています。

英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていたとのことです。



大綱金刀比羅神社と一里塚



大綱金刀比羅神社と一里塚


田中家の前をさらに下ると、大綱金刀比羅神社の前に出ます。

大綱金刀比羅神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、今の境内後方の山上にありました。


大綱金刀比羅神社



大綱金刀比羅神社


その後、現在地に移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となりました。


かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入する船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られています。



江戸時代には、この神社前の街道の両側に、一里塚が置かれていました。

この塚は、日本橋より7つ目にあたり、土盛の上に樹が植えられた大きなものでした。

現在の鳥居横の駐車場あたりではないかと推察されています。


大綱金刀比羅神社



三宝寺



三宝寺


三宝寺


一里塚の先が三宝寺です。

三宝寺の案内板は道路わきにありますが、お寺は山の中腹にあり、ガイドパネルも本覚寺の山門前の急な坂道を登った、坂道の途中に建てられています。

三宝寺は、慶長2年(1597年)に草創された浄土宗のお寺です。



弘法大師の作と伝えられる薬師如来像を本尊としていましたが、関東大震災で被害を受け、第2次世界大戦で焼失しました。


現在の本尊は、その後、東京芝の大本山増上寺から遷座したものです。

第21世住職の弁玉和尚は、江戸末期から明治初期に活躍した歌人としても知られており、文明開化の新事物を詠ったとのことです。


三宝寺



神奈川宿歴史の道の案内図では田中家からUターンとなっています



急な坂道 車道も茶色のレンガ敷き


道路の半分は茶色のレンガ敷き



かえもん公園


「歴史の道」には、神奈川台の関門跡から旧東海道を離れ、この街道と平行して丘の上を通り青木橋に至る、もう一つのルートがあります。

関門跡から急な坂道を登り、最初の四叉路を右折してこげ茶色のレンガ敷きの道を200mほど進むと右側にかえもん公園があります。

公園にも青海波マークが!


鉄道用地の埋め立てに力を尽くした横浜の実業家が、高島嘉右衛門(かえもん)です。

高島嘉右衛門は、請負業を始め、学校、ガス会社、芝居小屋などを経営し、高島易断を創始するなど多彩な活動をした人物です。

かえもん公園から歴史の道は幅1m程度に狭くなりますが、こげ茶色のレンガ敷きの道をそのまま100mほど進むと急に視界が広がり、すぐ下に旧街道を見下ろす丘の上に出ます。


神奈川宿歴史の道



旧街道を見下ろす丘の上の広場


明治2年(1868年)、政府は新橋・横浜間(現在の汐留・桜木町間)の鉄道建設を計画しました。

現在の横浜駅から桜木町にかけての一帯は、当時は海で、鉄道を通すために青木町から野毛にかけて、全長1400m、幅76
mの築堤を造る必要がありました。



高島嘉右衛門がこの難工事を請け負い、この山の上から埋め立てを指揮し、後年この地に住みました。


このため埋め立てられた場所は高島町(現在の西区高島1丁目・2丁目)、この山は高島山と呼ばれるようになりました。


丘の上の広場からの展望



高島山公園


広場の片隅に「鉄道の開通と埋立」のガイドパネルが立っており、明治初めの風景の写真が掲載されています。


手前に旧街道の宿場町が、その向こうに鉄道用の埋立地が入り江を横切り、現在の桜木町まで続いている様子がわかります。

現在は高層ビルが乱立しており、この高台から残念ながら海辺を望むことはできません。



展望の利く高台の裏手に高島山公園があります。


鉄道用地埋め立てなどの事業の後、高島嘉右衛門がこの丘に閑室を設け、港内の繁栄と事業の功績を望み、欣然として心を癒したことから望欣台と名付けられました。

公園には、明治10年(1877年)に建てられた高島嘉右衛門を顕彰する「望欣台の碑」が現在も残っています。


望欣台の碑



弁玉歌碑


高島山公園の西の隅に「弁玉歌碑」があります。


この碑は、幕末から明治初期にかけて、三宝寺の住職であった歌人弁玉の歌碑兼顕彰碑です。

文明開花期の横浜を知るうえで貴重な史跡といえるものです。



また、公園のすぐ西方の住宅地の中に「高島嘉右衛門顕彰の碑」が立っています。


高島嘉右衛門はこの近くに住んでいたとのことです。

高島嘉右衛門顕彰に碑は、かえもん公園のすぐ近くです。


高島嘉右衛門顕彰の碑



本覚寺



本覚寺


高島台から右手に横浜の街並みを眺めながら坂道を下がると、右に三宝寺があり、次に本覚寺の山門前に出ます。


本覚寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられています。

もとは臨済宗に属していましたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(1532年)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めました。



本覚寺


開港当時、アメリカ領事館にあてられたのが本覚寺です。

ハリスは自ら現地を見て廻り、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことのできる本覚寺を領事館に決めたと伝えられています。


アメリカ領事館跡の碑



岩瀬忠震の石碑


神奈川領事であったドーアは、庭の松の枝を払い落とし、この木の上に星条旗を掲げたといわれています。

また、この寺の本尊を板囲いで覆い、山門を白ペンキで塗り、日本人の立ち入りを禁じたといわれています。

安政5年(1858年)日米修好通商条約締結に際し、アメリカ公使ハリスとの交渉に当たった全権委員・岩瀬忠震を記念する石碑が境内に建てられています。


本覚寺のある山と向かい側の幸ヶ谷公園のある権現山とは元来ひと続きでした。

この丘を切り開き、明治5年(1872年)に新橋〜横浜間の鉄道が開通したのです。

この工事に伴い、鉄道をまたいで旧東海道を結んで架けられた橋が青木橋です。

現在も青木橋の上を国道1号線が走っており、交通量が多いです。

当時、神奈川の停車場は、青木橋のすぐ南側に造られていました。


本覚寺から権現山を望む



本覚寺から青木橋を望む


明治37年(1904年)には、後に横浜市電となる横浜電気鉄道が神奈川〜大江橋間に、明治38年(1905年)には京浜電気鉄道が川崎〜神奈川間に、大正15年(1926年)には東京横浜電気鉄道が丸子多摩川〜神奈川間に電車を走らせ、青木橋付近は交通の要衝として栄えました。


しかし、昭和3年(1928年)に横浜駅ができるとともに、交通機関の中心性は失われていきました。



関連するホームページ

 東海道神奈川宿




 神奈川宿歴史の道その2へ


 神奈川宿歴史の道その3へ



        風来坊

青木橋から横浜駅方面を望む 左が青木橋


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