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横浜散歩No1:神奈川宿歴史の道その3 (H22.8.21)


神奈川宿歴史の道は茶色のルートです。赤線はわが町かながわ50選散歩道ルートです。



慶雲寺



慶雲寺(浦島寺)



慶雲寺はJRのガードの手前で、JRと京浜急行の路線に囲まれた場所にあります。


慶雲寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観によって開かれました。

開港当時はフランス領事館に充てられました。

慶雲寺

神奈川台場から元の道を第一京浜の滝の川交差点まで戻り、交差点を渡って右折して滝の橋を渡ります。

最初の路地を左折して道なりに進み、京浜急行のガードをくぐった右手にあるのが慶雲寺です。



慶雲寺



慶雲寺・浦島太郎関連


慶雲寺


浦島丘にあった観福寿寺が慶応年間の大火で焼失したため、浦島伝説に関わる記念物がこの寺にもたらされました。

それ以来、慶雲寺は浦島寺と呼ばれています。

浦島太郎が竜宮城に行った時、乙姫様からいただいたという菩薩像などが伝わっているといわれています。


成仏寺



成仏寺

慶雲寺から元の道を戻り、京浜急行のガードをくぐって2つ目の通りを左折して100mほど進んだところが成仏寺です。

成仏寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺です。

徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移されたとのことです。


成仏寺



成仏寺


開港当初はアメリカ宣教師の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裏にすんだといわれています。


ヘボンが友人に宛てた手紙の中に「広い本堂を襖で仕切り、大小8つばかりの部屋を作り、その結果、随分住みよくなった。広い庭も美しく気に入っている」と書かれています。

ブラウンは聖書や賛美歌の翻訳に尽力した人です。



神奈川地区センター

成仏寺から100m程度進んだ右手に神奈川地区センターがあります。

歴史の道のルートは、この建物の前を通り、さらに東の熊野神社や金蔵院へと続いています。


神奈川地区センター



神奈川地区センターの青海波


神奈川地区センターの広場の床面には「神奈川宿歴史の道」のシンボルマークとなった「青海波(せいがいは)」がデザインされています。


高札場

高札場は、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた施設です。



宿場の施設として重要なものでしたが、明治に入り情報伝達の手段が整うにつれて、やがて姿を消しました。

神奈川宿の高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にありました。

その規模は、間口約5m、高さ3.5m、奥行1.5mと大きなものでした。

神奈川地区センター前の高札場は、資料をもとに復元したものです。


高札場



熊野神社



熊野神社


熊野神社

神奈川地区センターを過ぎると、右手に東神奈川公園があります。

この公園のすぐ隣りに熊野神社があります。

熊野神社は、もとは権現山にありました。

平安末期に紀伊の熊野権現を招いたことによるといわれています。



その後、江戸時代の中頃に金蔵院の境内に移され、明治初めの神仏分離令により金蔵院から分かれました。


鳥居の左右に、石工・飯島吉六が嘉永年間(1848年〜1854年)に造ったという大きな狛犬が置かれています。

現在の社殿は戦後の再建ですが、境内には公孫樹(いちょう)の古木が残っています。


熊野神社




金蔵院



金蔵院


金蔵院

金蔵院は熊野神社の北側にあります。

金蔵院は、京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹です。

その後、徳川家康から十石の朱印地を許されています。



「神奈川駅中図絵」によると、金蔵院の境内は現在よりも広く、門の位置も熊野神社と並んでいました。

そして、この門まで、街道から参道が延びていました。

現在の表門は、昭和45年(1965年)に造られたものです。


金蔵院



金蔵院


金蔵院



東光寺

東光寺

金蔵院から東に進むと首都高速道路公団の建物があり、その先で広い道路にぶつかります。

少し右手にある信号で道路を横断した左手に駐車場があります。

駐車場の先の路地を左に入り、最初の辻を右に曲がると左手に東光寺があります。

「神奈川宿歴史の道」の案内図で四角に囲まれている場所で、ややわかりにくいです。



東光寺は、平尾山と号し、新義真言宗に属しています。

東光寺の本尊はもと太田道灌の守護仏でしたが、道灌の小机城攻略後、平尾内膳がこの仏を賜り、この寺を草創したといわれています。


東光寺



神明宮


神明宮


東光寺から神奈川小学校に沿って狭い路地を東に進み、神奈川小学校を過ぎた先に、神明宮と能満寺が並んでいます。

神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かではないとのことです。

江戸時代の神明宮は隣の能満寺に所属していましたが、明治初めの神仏分離令により独立したとのことです。



神明宮


神明宮



能満寺


能満寺

神明宮の隣にあるのが能満寺です。

能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属し、鎌倉時代の創立とされています。

正安元年(1299年)この地の漁師が海中より虚空蔵菩薩を拾い上げ、これを祀るために建てたのが能満寺と伝えられています。

本尊は高さ15cmの木造座像の虚空蔵菩薩です。


能満寺



能満寺の芭蕉句碑


能満寺の芭蕉句碑



能満寺


山門の右手前に芭蕉句碑があります。


右側に「はせを翁」、2行目から「父母の しきりにこいし 雉子の声」と刻まれています。

文字は、江戸中期の南画家の池大雅とのことです。



良泉寺



良泉寺

能満寺から東に進み神奈川通公園を過ぎたところで良泉寺の壁に突き当たります。

入口は突き当たりを右に進んだ第一京浜(国道15号線)沿いにあります。

良泉寺は海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属します。


良泉寺



良泉寺


本願寺第8世蓮如上人に帰依した連誉が、小机付近の旧街道に草創、第4世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受けて、現在地に移転したと伝えられています。


開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快しとしない住職は、本堂の屋根をはがして修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれています。



良泉寺



また、墓地の一番奥に、幕末から明治前期にかけての豪商である田中平八・通称「天下の糸平」の大きな墓があります。


良泉寺



笠のぎ稲荷神社



笠のぎ稲荷神社


笠のぎ稲荷神社

元に道に戻り、良泉寺の壁に突き当たった場所から左に進み京浜急行のガード下をくぐり抜けたところが笠のぎ稲荷神社です。

笠のぎ稲荷神社は、社伝によると天慶年間(938年〜947年)に稲荷山の中腹に創祀され、元寇に当たっては北条時宗より神宝を奉納されています


この神社の名前には、次のような由来があります。

笠をかぶった人がこの前を通ると、不思議に笠が脱げ落ちたそうです。

そのため笠脱稲荷と呼ばれるようになり、その後笠脱を笠のぎに改めたといわれています。


明治2年に現在地に遷座されています。

また、この神社に土団子を供えると病気が治るという特殊信仰もあります。


笠のぎ稲荷神社



神奈川通東公園


長延寺、土居跡


笠のぎ稲荷神社を出て京浜急行のガード下をくぐり抜けてすぐ左折し、京浜急行の線路に沿って進むと京急神奈川新町駅です。

駅の右側にある道を線路に平行に進むと左手に神奈川通東公園があります。

ここが「神奈川宿歴史の道」の終点です。


昭和40年(1965年)に移転するまで、ここに長延寺が建っていました。

長延寺は開港当時オランダ領事館に充てられました。

江戸時代の宿場町の入口には、しばしば枡形(土居)が造られました。本来、枡形は城郭の一の門と二の門の間の方形の地ですが、宿場町では街道の両側から土居を互い違いに突き出すだけの場合もあります。

神奈川宿の江戸方の入口に当たる長延寺前にも土居を互い違いに突き出した枡形がありました。
旧本陣の石井家に伝わる「神奈川宿入口土居絵図」には、街道両側に高さ2.5mほどの土居が築かれ、その上には75cmほどの竹矢来が設けられています。

このあたりは区画整理により大きく変わったとのことで、長延寺のあったあたりは公園となっています。


オランダ領事館跡



オランダ領事館跡


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        風来坊


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