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豪徳寺三重塔
豪徳寺境内への入口
宮の坂駅から東方向に200mほど進んだ左手が豪徳寺です。 豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480年)になくなった叔母の弘徳院のために城内に創建した小庵で、初めは臨済宗に属し、弘徳院と称したと伝えられています。 その後、天正12年(1584年)に曹洞宗に転じています。
豪徳寺は彦根藩主井伊家の墓所となっていますが、次のような経緯があります。 井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川家の配下にありました。 井伊家24世とされる直政は天正3年(1575年)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)の関が原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献しました。
総門
理事の説明は熱心に聞く東京龍馬会会員
仏殿
合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築きました。 続く2代直孝も大阪夏の陣で功績を挙げ、近江国、下野国、武蔵国世田谷に併せて30万石を有する譜代大名の筆頭格となりました。 以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍を近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与しました。
豪徳寺境内
木立の奥は仏殿
寛永10年(1633年)頃、世田谷が井伊家の所領となったのを機に、領地視察に訪れた2代藩主井伊直孝が、山門前に通りかかったところ、一匹の猫に招かれて中に入ると、さっきまで自分と供たちが居た場所に雷が落ちました。 このことはきっかけで和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に弘徳院を井伊家の菩提寺に取り立てられたといわれています。
本殿
招猫殿
これが招き猫発祥と言われ、豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置いています。
招福猫奉納所
招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されています。 ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫です。
井伊家墓所全体図
中央が2代藩主直孝の墓
直孝の没後には、その法号にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られました。 墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代井伊直弼の墓があります。 直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(直孝長女)墓がその中央西側に位置しています。
整然と並ぶ井伊家の墓
一番奥が井伊直弼の墓
井伊直弼の墓
桜田門殉難8士の碑
世田谷城址公園
世田谷城址公園 豪徳寺から宮の坂駅と反対方向に100mほど行ったところが、世田谷城址公園です。 世田谷城は、14世紀後半に、清和源氏の流れをくむ足利氏と同族である奥州吉良氏によって築かれた平山城です。 世田谷城は武蔵野台地の一角、経堂台地から南に突き出た舌状台地の先端に立地し、西・南・東の3面に烏山川が蛇行して、天然の堀を形成していました。
開発が進み旧態は詳らかでありませんが、豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられています。 吉良氏は関東に北条氏が台頭してくると、これと姻戚関係を結び、その庇護の下に入りますが、豊臣秀吉の小田原攻攻略により、世田谷城も廃城となりました。 その後、徳川家康が江戸に入ると、世田谷城の石垣は江戸城改修のために再利用されたとのことです。
勝國寺
世田谷区役所
世田谷城址公園の信号を左折し、約300m進んだほっとスクール城山の信号を右折し、城山小学校、勝国寺を左手に見ながら500mほど進むと、右手に世田谷区役所、左手に国士舘大学があります。 国士舘大学には箱根駅伝出場決定の垂れ幕が掲げられていました。
桂太郎墓所 国士舘大学の隣にある若林公園に隣接して桂太郎の墓所があります。 桂太郎は山口県萩の出身で、長州藩士として幕末諸戦に参加、維新後、ベルリンに留学してプロシアの兵学を学びます。 山県有朋、大山巌を輔けて軍制の改革を図り、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を行い、明治陸軍建設に大きな役割を果たしました。
国士舘大学
桂太郎の墓
明治37、年首相として日露開戦の大事を決し、挙国一致これに対処、しかも戦争の終結を深謀、戦勝を機に、外相小村寿太郎を全権として講和条約を結ばせた功績は大である。 吉田松陰を敬慕、自らも明治33年に台湾協会学校(現拓殖大学)を創立して、校長として育英に尽くした。 遺言により、松陰霊域に接して、当初に葬られている。
松陰神社社殿
松陰神社 桂墓所から100mほど進んだ左手が松陰神社です。 松陰神社は幕末の思想家・教育者である吉田松陰を祭神とする神社です。
松陰神社
吉田松陰像
松陰の墓がある世田谷区若林と、松陰の生誕地である山口県萩市にあります。 どちらも、学問の神として崇敬を受けています。
松陰墓所
吉田松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作、伊藤博文など松陰の門人は、松陰の亡骸を小塚原の回向院よりこの世田谷の若林大夫山の楓の木の下に改葬し、松陰先生の御霊の安住の所としました。
徳川氏奉納石燈籠
徳川氏奉納水盤
長藩第4大隊戦死者招魂碑
禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸光允等の手により明治元年(1868年)に松陰以下の墓を修復しました。 墓域には木戸孝允が寄進した鳥居が残っています。 その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から松陰墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込めて寄進されました。
明治15年(1882年)11月21日、門人によって墓の側に松陰を祀る神社が創建されました。 現在の社殿は、昭和2年から3年にかけて造営されたものです。
石燈籠
石燈籠奉納者
境内に立ち並ぶ32基の石燈籠は、松陰の50年祭に際して、毛利元昭公をはじめ、松陰先生門下の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂太郎などの縁故者により奉献されたものです。 燈籠にそうそうたる名前が刻まれておりびっくりしました。
吉田松陰の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842年)寺小屋を開いて、松下村塾の看板を掲げたのが、村塾の名前の起こりです。 吉田松陰が実際に塾生を教育したのは、安政3年8月頃から安政5年末に投獄されるまでの、2年半程度だったようです。
松下村塾
松下村塾で薫陶を受けた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄端、高杉晋作、木戸光允、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させています。 松陰神社にある松下村塾は、萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。
江戸末期の三軒茶屋
三軒茶屋 松陰神社から商店街を200m進んだところが、世田谷線の松陰神社前駅で、ここから電車で三軒茶屋駅まで移動しました。 三軒茶屋には昔、その名前のとおり3軒の茶屋がありました。 江戸時代の中頃から丹沢の大山阿夫利神社へお参りに行く人が増え、静かな田園の道(矢倉沢往還)は大山道として賑わうようになります。
現在の三軒茶屋
道標の位置から渋谷・赤坂方面を望む
やがて近道(現玉川通り・国道246号線)が作られ、本道(現世田谷通り)との分岐点に三軒の茶屋「信楽(のちに石橋屋)」「角屋」「田中屋」ができ、大山詣や玉川行楽の人々の休み処として、いつか三軒茶屋と呼ばれるようになりました。 どの店も座敷にお膳をととのえ、茶屋娘をおく立派な構えの料理茶屋(料亭)でしたが、店の前に床机(縁台)を並べ、よしずを立てて道行く人々に茶菓の接待もしていました。 周りには髪結床や煙草屋などもあったようです。
3軒の茶屋は、明治時代にまず角屋が店をたたみ、田中屋は火災で焼失。 橋屋は石橋楼という名の料亭旅館に変わり、関東震災後は舶来のおもちゃを売る喫茶店、次いで洋食喫茶・宴会場を営業し、戦時中の強制疎開により廃業しました。
石橋楼跡地と道標
大山道道標
三軒茶屋にある道標は、旧大山道(現世田谷通り)と新大山道(現玉川通り)の分かれ道にあった石橋楼の角に建てられていました、 この道標は、玉川電車の開通や東京オリンピックの道路拡幅などにより、転々と移されたが、昭和58年5月に三軒茶屋町会結成50周年記念行事の一つとして、元の位置近くに復されたものです。 東京龍馬会 第44回史跡探訪その1へ 風来坊