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東京龍馬会第44回史跡探訪 その1 (H20.10.19)
『秋の世田谷:蘆花恒春園から松陰神社を歩く』


芦花公園駅から世田谷文学館に向かう街路



芦花公園駅 駅周辺は工事中でした


東京龍馬会の第44回史跡探訪に参加しました。


今回のテーマは、安政の大獄百五十周年『秋の世田谷:蘆花恒春園から松陰神社を歩く』です。

今年が安政の大獄百五十周年に当たることから、第43回に引き続き考えられたプランです。



今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。

京王線芦花公園駅→世田谷文学館(特別展『宮尾登美子展』見学)→蘆花恒春園→京王線八幡山駅→(京王線)→下高井戸駅→(昼食)→下高井戸駅→(世田谷線)→宮の坂駅→豪徳寺(井伊直弼墓、招き猫)→世田谷城址→松陰神社→松陰神社前駅→(世田谷線)→三軒茶屋駅→石橋楼跡地、大山道道標→田園都市線三軒茶屋駅(解散)


芦花公園駅から世田谷文学館に向かう街路



芦花公園駅から世田谷文学館に向かう街路


集合時刻の10月19日午前10時の15分ほど前に、京王線芦花公園駅に到着すると、東京龍馬会の幹事の方々が受付作業をされており、参加会費を支払うと、名前の書かれた名札と今回の史跡探訪に関する資料が渡されました。


東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。



芦花公園駅から世田谷文学館に至る道路には、幅広い歩道が整備されており、その周りの住宅街とも見事に調和し、ゆっくりと散歩を楽しむことができる感じの町並みです。


芦花公園駅からこうした町並みを楽しみながら、南に5分あまり進んだ左手に世田谷文学館があります。


芦花公園駅から世田谷文学館に向かう街路



世田谷文学館



世田谷文学館


世田谷文学館では10月4日から11月30日までの間、特別展「宮尾登美子展」が開催されています。


宮尾登美子は、今年のNHK大河ドラマ「篤姫」の原作『天璋院篤姫』を書かれており、「宮尾登美子展」は安政の大獄百五十周年という今回の史跡探訪のタイトルにふさわしい見学ポイントです。



宮尾登美子は、大正15年(1926年)に土佐の花街で芸妓娼妓紹介業を営む家に生まれました。

家業や複雑な家庭環境に少女時代の宮尾登美子は悩み続け、こうした心境が小説の世界に向かわせることになったといわれています。


その生い立ちに材をとった自伝的作品が『櫂』『春燈』『朱夏』『仁淀川』であり、作家の分身ともいえる主人公・綾子は、今や、多くの女性のヒロインとなっています。


世田谷文学館



世田谷文学館傍の民家?

宮尾登美子は、『天璋院篤姫』をはじめ、『櫂』『鬼龍院花子の生涯』『一絃の琴』など、時代の定めやその境遇に対して真っ向から挑み、ひたむきに生きる女性を書き続けている作家です。

創作活動を始めて以来一貫して、女性の行き方に真摯に向き合い、懸命に書いてきた宮尾登美子の姿は、運命に耐えながらも強く、時に烈しく生きるヒロインたちに重なるということもできるかと思います。

太宰治賞、女流文学賞、直木賞など多くの文学賞を受賞しています。



蘆花恒春園の竹林



世田谷文学館から南に500m程進み、芦花公園西の交差点を左折し、300mほど進んだところが蘆花恒春園です。


蘆花恒春園は、「不如帰」「自然と人生」「みみずのたはこと」などの名作で知られる明治・大正期の文豪、徳富蘆花の旧宅のある恒春園区域と、その周辺の開放公園区域(児童公園、花の丘区域など)からなっています。


母屋



母屋の傍にある井戸


徳富蘆花は明治40年(1907年)2月まで東京の青山高樹町に借家住まいをしていましたが、土に親しむ生活を営むため、当時まだ草深かった北多摩郡千歳村粕谷の地に土地と家屋を求め、「恒春園」と名付けて、昭和2年(1927年)9月18日に逝去するまでの約20年間、晴耕雨読の生活を送りました。



昭和11年(1936年)の蘆花没後10周年忌に際し、愛子夫人から当時の土地、建物、蘆花の遺品一切が東京市に寄贈され、市では昭和13年(1938年)、夫人の意向に沿って、武蔵野の風景を保存し、公園として公開を開始しています。

愛子夫人は昭和22年(1947年)熱海で亡くなり、園内の蘆花の墓地に一緒に埋葬されています。


母屋の五右衛門風呂



廊下と火鉢


徳富蘆花旧宅は、母屋、梅花書屋、秋水書院の3棟の茅葺き家屋からなっており、これらは渡り廊下によって連結されています。


「美的百姓」として生きた徳富蘆花の20年間にわたる文筆活動の拠点であり、主要な建物は旧態を良くとどめているといわれています。



オルガン


電話機


母屋

蘆花はこの母屋を茅屋(ぼうおく)と呼び、「僕の家は出来てまだ10年位、比較的新しいものだが、普請はお話にならぬ。・・・・」と安普請を伝えていましたが、現在では武蔵野の木立にしっとりとなじんで建っています。

母屋は生活の場であり、五右衛門風呂も設置されています。


梅花書屋



秋水書院

梅花書屋

明治42年(1909年)に松沢町北沢(現在の世田谷区)の住宅を購入して移設したものです。

梅花書屋の名称は、この家に掲げられてある薩摩の書家鮫島白鶴翁(西郷隆盛の書道の師)の筆になる横額によるものであり、この額は蘆花の父徳富一敬から譲られたものです。

母屋との間は、当初は踏み石を渡って往復しました。廊下は秋水書院完成後に作られました。



秋水書院


秋水書院

秋水書院は書斎と寝室にあたり、明治43年に起きた幸徳秋水事件の、政府の対応に対する抗議の気持ちを表すために、「秋水書院」と蘆花が名付けたと言われています。

蘆花の望んだお地蔵さんが立っています。

この地蔵尊は、大正12年9月1日の関東大震災の時は倒れたが無事でした。しかし、大正13年1月15日の余震でまた、倒れて頭が落ちた。蘆花は、これを自分の身代わりになったようなものだとして「身代わり地蔵」と名付けたと案内板に記されています。

秋水書院・書斎と寝室


愛子夫人居宅

この建物は、昭和12年に蘆花夫人愛子さんが、蘆花没後10年を期して、東京市に土地、建物、遺品等の一切を寄付し、昭和13年に蘆花恒春園が発足するに際して、夫人の要望に基づき、夫人の当面の住まいとして、当時東京市が新築したものです。

現在は、公園施設の集会場として公開されています。



夫妻の墓所

恒春園の東に小径を辿ると夫妻の墓があります。

長兄の徳富蘇峰氏が銘を刻んだ自然石の墓碑で、クヌギの木立に囲まれています。


徳富蘆花夫妻の墓所



蘆花記念館


蘆花記念館

邸地とともに寄贈された身辺具、作品、原稿、手紙、農工具などの遺品を収めるために昭和34年に建設しました。

遺品の一部を展示し、一般に公開しています。


竹林

園内にはすがすがしいモウソウチクの林があります。

これは、蘆花が植えたものです。

また、クヌギ、コナラ等の雑木が目につきます。

これらが、茅葺きの母屋や秋水書院、梅花書屋と相まって、蘆花が愛した武蔵野の面影をしのばせます。


竹林



世田谷線の電車

蘆花恒春園から環状8号線に沿って北に約800m進んだところが京王線八幡駅です。

今回は、京王線八幡山駅から京王線下高井戸駅まで電車で移動し、下高井戸にて各人で昼食を摂った後、今度は東急世田谷線で下高井戸駅から宮の坂駅まで移動しました。

東急世田谷線は三軒茶屋駅と下高井戸駅の5kmを結ぶ、路面電車形式の軌道線で、都内では世田谷線と都電荒川線のみです。


世田谷線の併用軌道は環状7号線との交差部分の「若林踏切」のみで、ほぼ全線が専用軌道です。車両は路面電車タイプの電車を使用しています。

環状7号線と交差する若林踏切では、鉄道と道路の信号が同期しています。

すなわち、電車が来たら環状7号線の交通を止めるのではなく、道路の信号が変わるまで電車を待たせる仕組みになっています。


世田谷線の電車



世田谷線の電車


こうした交通整理が行われていますので、この踏切では道路交通側に一旦停止の義務はありません。


元々は遮断機があり、電車優先の踏み切りだったため、若林踏切という名前が残っています。


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          風来坊


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