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東京龍馬会第43回史跡探訪 その1 (H20.5.25)
『明治維新百四十年、安政の大獄百五十年』


国会議事堂


東京龍馬会の第43回史跡探訪に参加しました。


今回のテーマは『明治維新百四十年、安政の大獄百五十年』で、永田町から憲政記念館、桜田門、二重橋、赤坂、六本木を辿るというプランです。

今年が明治維新140年、安政大獄150年に当たることから考えられたプランです。



今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。

東京メトロ永田町駅(有楽町線国会議事堂方面改札口)→憲政記念館→桜の井戸→桜田門→二重橋→楠木正成像→東京メトロ二重橋前駅→(地下鉄)→東京メトロ赤坂駅→(昼食)→サン・サン赤坂→氷川神社→ソフトタウン赤坂→檜町公園→東京メトロ六本木駅(解散)


国立国会図書館



国立国会図書館本館

集合時刻の5月25日午前10時の10分ほど前に永田町駅の指定場所に到着すると、東京龍馬会の理事の方々が受付作業をされており、参加会費を支払うと、名前の書かれた名札と今回の史跡探訪に関する資料が渡されました。

東京龍馬会の理事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。


永田町駅の国会議事堂方面改札口から東の方向に進むと、右手が国会議事堂、左手が国立国会図書館です。

国立国会図書館は昭和23年(1948年)に設立され、今年で60周年を迎えます。

国会図書館は、国会法の「議員の調査研究に資するため、別に定める法律により、国会に国立国会図書館を置く」の規定にもとづき、設立されたもので、国会の立法活動を支える立法補佐機能と日本で唯一の国立図書館としての機能を持っています。


国立国会図書館新館



国会議事堂

国会図書館に、「納本制度」によって資料収集を行っています。

今年は国立国会図書館の開館60周年であるとともに、「納本制度」による資料収集を開始してからも60年です。

「納本制度」60周年を記念して、納本受付開始の日である、5月25日を「納本制度の日」と定めたそうです。


今回の東京龍馬会の史跡探訪は、「納本制度の日」が定められた最初の日に該当しました。


国立国会図書館を左手に見ながら進んだ、三叉路にあるのが憲政記念館です。

憲政記念館のある高台は、室町時代に太田道灌が「わが庵は松原つづき海ちかくふじの高根を軒端にぞ見る」と詠んだ松原の一角に連なっていた景勝の地です。

江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建て、その後彦根藩の上屋敷となり、幕末には大老井伊直弼もここに住んでいましたが、明治になってからは参謀本部・陸軍省が置かれていました。


憲政記念館



尾崎行雄像

昭和27年(1952年)にこの土地は衆議院の所管となり、昭和35年(1960年)には、憲政の功労者である尾崎行雄を記念して、尾崎記念会館が建設されました。

昭和45年(1970年)にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として、尾崎記念会館を吸収して、憲政記念館が設立され、昭和47年(1972年)3月に開館しました。



憲政記念館は、国会の組織や運営などを、資料や映像によってわかりやすく紹介するとともに、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を収集して常時展示するほか、特別展などを催しています。

1階展示室には、国会の仕組みコーナー、議場体験コーナー、情報検索コーナーが設けられています。


憲政記念館



国会議事堂



国会前庭から霞ヶ関官庁街をのぞむ

2階展示室には、「永年在職表彰議員肖像画展」コーナーがあり、戦後、国会となって表彰された衆議院議員の肖像画が逐次紹介されています。

また、2階の展示室には、憲政の歩みを見ることができる「憲政史シアター」「憲政史映像選択コーナー」「憲政の歩みコーナー」などがあります。

国会議事堂の前に国会前庭があり、国会議事堂に向かって右側が北地区、左側が南地区です。

憲政記念館は北地区にあります。


この時計塔は尾崎記念館(現 憲政記念館)建設時に、施設の一環として塔前面の噴水池、花壇とともに設計され、昭和35年(1960)7月に完成しました。

三面塔星型は、立法、行政、司法の三権分立を象徴したものです。

また、塔の高さは「百尺竿頭一歩を進む」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するとの意味から、百尺(30.3メートル)より高くした31.5メートルに設定されたとのことです。


時計は、当初は、時間を厳守した尾崎行雄を称えてスイスから贈られたものでしたが、現在は国産のものに改修されています。


チャイムは、10時・13時・17時・22時の4回鳴動します。

これは、衆議院、参議院の会議開会時刻と退庁、就寝時を標準にしたものだそうです。


時計塔



アメリカ・ハナミズキ 上は時計塔地区


また、北地区には約170本のアメリカ・ハナミズキが植えられていますが、このハナミズキには日米間の歴史があります。


ワシントンのポトマック河畔の桜並木は有名ですが、この桜はアメリカのタフト大統領夫人の要望に対して、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたもので、日米友好交流の象徴ともなっています。



国会前交差点付近



最初に送った桜の苗木2000本は害虫が付いていて焼却処分されました。


送った苗木すべてが焼却処分されたことを知った尾崎東京市長は、約束を果たすために専門家に桜の苗木を育成させ、明治45年(1912年)に害虫の付いていない3000本の苗木を送り、その桜が成長して、世界的な桜の名所となりました。


井伊直弼邸跡付近から半蔵門方面を望む



桜の井戸

この桜の御礼として大正4年(1915年)にハナミズキの苗木40本が、アメリカから送られてきました。

日本にアメリカ・ハナミズキが渡来したのはこのときが最初だとのことです。

さらに2年後にピンクの苗木12本が送られてきています。

国会前庭では4月下旬から5月上旬にかけて、ハナミズキが咲き誇ります。



国会前庭の北地区に、江戸時代の初めに肥後熊本藩主加藤清正が居住し、寛永年間に近江彦根藩主伊井家の居住となり、井伊直弼もここに住んでいました。

伊井家上屋敷の正門左脇にあったのが桜の井戸です。

桜田壕下にある柳の井戸とともに江戸の名水として有名でした。


井伊直弼邸跡



井伊直弼邸跡付近から桜田門を望む


桜の井戸の前が、江戸城の内堀です。

桜田門は内堀に造られた門の一つで、桜田堀と凱旋堀の間にあります。

江戸城には内桜田門と外桜田門の2つがありますが、内桜田門は桔梗門とも呼ばれ、単に桜田門という場合は、外桜田門のことです。



桜田門は、当初は、小田原街道の始点として小田原口と呼ばれていました。


寛永13年(1636年)にそれまでの柵戸仕立の門を現在のような桝形門に改築、桜田門と呼ぶようになりました。

外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)の二重構造になっており、間に桝形とよばれる四角形の広場があります。


桜田門から井伊直弼邸跡方向を望む



桜田門・正面は高麗門



桜田門から有楽町方面を望む


この広場は門から打って出る兵の待機場所であり、また敵に攻められた時はこの場所に敵兵を引き入れ周囲から弓、鉄砲などで攻撃する仕組みになっています。


1923年の関東大震災で一部が破損し、鋼鉄土蔵造に改修されました。

桜田門は1961年に国の重要文化財に指定されています。



桜田門外の変

桜田門外の変は、水戸浪士などによる大老井伊直弼の暗殺事件です。

井伊直弼は、嘉永3年(1850年)、第15代彦根藩主となり、掃部頭(かもんのかみ)に選任されます。

彦根藩時代は幕政改革を行い、名君だったといわれています。


外側の高麗門



内側の渡櫓門

ペリー来航では開国・和平を主張、将軍継嗣問題で血統によるという伝統に従い、紀州藩の徳川慶福(家茂)を推して南紀派の中心となり、一橋慶喜を推す改革的な一橋派と対立しました。

安政5年(1858年)大老となると、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また徳川家茂の将軍継嗣を決定します。

その後安政の大獄を起こして、こうした決定に反対した尊王攘夷派・一橋派の諸侯・幕臣、志士らを弾圧します。



枡形で「桜田門の変」に関する説明を熱心に聞く参加者



安政の大獄で反対勢力を弾圧していた井伊直弼に対し、藩主の父である徳川斉昭の謹慎などで特に反発の強かった水戸藩では、高橋多一郎や金子孫二郎などの過激浪士が脱藩して薩摩藩の有村次左衛門などと連絡し、薩摩の義軍及び孝明天皇の勅書をもってのクーデター計画を企てていたが、薩摩藩内の情勢の変化などにより計画は頓挫しました。


皇居前広場からみた桜田門・渡櫓門



桜田門・高麗門から警視庁を望む

一方で、水戸藩士捕縛の危機も迫り、やむなく水戸の激派が独自に大老襲撃を断行することとし、薩摩からは有村が一人加わりました。

安政7年(1860年)3月3日、愛宕山に集まり、登城途中の井伊直弼を桜田門前で襲撃、有村が井伊を殺害しました。襲撃者は慙死、自刃、また斬罪に処せられました。

斬奸趣意書は井伊排除による幕政改革を唱えており、以後、公武合体や尊皇攘夷の競合が激化することとなりました。



桜田門内側から丸の内方面を望む



桜田門の渡櫓門から中に入ったところが皇居前広場(皇居外苑)で、緑の芝生が拡がっています。

桜田門から皇居前広場に入り、濠に沿って左手に進んだところに二重橋があります。


皇居前広場の芝生



正門石橋



正門


二重橋は、皇居正門から宮殿に向かう二重橋濠に架かっている正門鉄橋のことです。

皇居前広場から宮殿に向かう場合は、皇居前広場→西丸大手橋(手前の正門石橋)→正門→西丸下乗橋(奥の正門鉄橋)→宮殿という経路で進むことになります。



濠には手前の石橋と奥の鉄橋があり、正確には奥の鉄橋を「二重橋」といいます。


奥の鉄橋は、木造橋時代に、技術的な問題から橋の下に足場のための橋が架けられている二重構造になっていました。

こうしたことから「二重橋」と呼ばれるようになりました。


正門鉄橋



二重橋濠


手前の石橋と奥の鉄橋、2つ重なっている橋だから「二重橋」というのは正確な解釈ではないようですが、現在では宮内庁も「二重橋」はこの2つの橋の総称であると言っているようです。

2つの橋を同位置で見られる城は、全国的にもあまり例がないとのことです。

手前の石橋を「二重橋」というのは間違いだそうです。



二重橋から有楽町方面を望む



正門には皇宮警察の皇宮警衛官の儀仗隊がおり、さらに奥の鉄橋にも皇宮警衛官が常駐しています。

二重橋を普段は渡ることはできません。


皇宮一般参賀や外国要人来賓時のみに使用されます。

現在の橋は明治20年に架け替えられたものです。


二重橋から丸の内方面を望む



二重橋から丸の内方面を望む


二重橋から丸の内方向に真っ直ぐ進み、内堀通りを渡った右手に楠木正成の銅像が建っています。

銅像の近くが観光バスの駐車場になっており、観光客や修学旅行生で賑わっています。



楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての河内の武将で、鎌倉幕府からは悪党と呼ばれました。

建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに活躍した。

足利尊氏の反抗後は新政の軍事主体の主力の一方となり、最後まで勤王を貫きます。

湊川の戦いで足利尊氏軍敗れ、自害します。


内堀通り



楠木正成像


永禄2年(1559年)、正成の子孫と称した楠木正虎が献金により朝敵の罷免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて朝敵でなくなり、また、江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、忠臣として見直されます。

明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると大楠公と呼ばれ、また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義の為に逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられます。



東京龍馬会第43回史跡探訪が行われた5月25日は、雨上がりの曇天だったため、写真の大部分は後日撮影したものです。



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         風来坊


楠木正成像


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