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名古屋城 (H19.10.6)


名古屋城



大天守閣

名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609年)東海道の要所として、また、大坂方への備えとして、清須(現清須市)から名古屋への遷府を決定し、加藤清正、福島正則、前田利光など、北国・西国の諸大名20名に普請を命じて築城したものです。

慶長17年(1612年)には天守閣や諸櫓が完成し、続いて、慶長20年(1615年)には本丸御殿が完成しました。


その後、明治維新を迎えるまで名古屋城は、御三家の筆頭尾張徳川家の居城として栄えました。

昭和20年5月の名古屋空襲の際、大・小天守閣、本丸御殿をはじめ建物の殆どが焼失しましたが、幸いにも焼失を免れた3つの櫓、3つの門は重要文化財として現在に伝えられています。

天守閣は昭和34年(1959年)に外観復元されましたが、本丸御殿は礎石のみを残して今日に至っています。


小天守閣



大天守閣の金鯱

名古屋城は、伊勢音頭に「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われたほどの名城です。

天守の屋根の上には徳川家の威光を表すためのものとして、金鯱(金のしゃちほこ)が載せられています。

金の鯱は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっており、金鯱城、金城と呼ばれることもあります。


金の鯱

名古屋城にあって最も名高いのは金鯱です。

城の大棟に鯱を掲げることは室町時代の前期、城郭形態の完成した頃から始まったと言われています。

当時は火除けの呪いであったものが後には城主の権威の象徴として大棟に飾られました。


北側の雄鯱



南側の雌鯱

名古屋城の金鯱は雄(北側)と雌(南側)に分かれており、大きさや形が異なっています。

名古屋城の金鯱は頭部が異常に大きく、近くで見るとバランスがおかしいようにも思えますが、これは遠くから眺めたときに均整がとれ立派に見えるように配慮されているためです。

当時の名工が、棟上に飾る彫刻物として、望遠からの姿を配慮して作ったと考えられています。



右側の鯱は、屋根の鯱と同じ大きさの雌鯱の模型で石膏の上に金粉を塗ったものです。

大天守閣の地下に陳列されています。


雌鯱の模型



大天守閣



小天守と大天守を連結する橋台

天守は本丸の北西隅に位置しています。

江戸時代初期の城郭の代表的なもののひとつで、大天守と小天守を土橋によって連結した形(連結式)になっています。

大天守は層塔型で五層五階、地下一階、その高さは55.6m(石垣が19.5m、本体が36.1m)で、18階建ての高層建築に相当します。



西側土塀

高さは江戸城や大坂城には及びませんが、延べ床面積はこの二つの天守を凌駕しているとのことです。

小天守は二層二階、地下一階で大天守への関門の役割がありました。

平面は長方形で外見は千鳥破風一つという控えめな造りとなっていますが、規模的には他の城の三層天守よりも大きいとのことです。


東側土塀



剣塀(つるぎべい)

大天守閣と小天守閣を連絡する橋台は、石垣を築き左右両側に土塀を設けて通路の防衛とし、さらに外部に面する西面には外敵に備えるため剣塀が設けられました。

剣塀は軒桁に30cm余りの槍の穂先を並べて、忍返し(しのびがえし)として使われたものです。


橋台土塀の西面



天守閣と石垣



天守閣の石垣

石垣の勾配

名古屋城天守閣の石垣積みは、上部で外側にそりだした「扇勾配」の技法が取り入れられています。

これは加藤清正が担当して築いたので、特に「清正流三日月石垣」といわれています。

この技法は、石垣を内面に湾曲させて石の重みと内側の土圧による力を分散させることにより、はらみを避けたのだそうです。

江戸時代に素晴らしい技法があったと感心させられます。


石垣の刻銘

石垣の築造は、丁場割に基づき加藤清正をはじめ20の諸大名に分担させたものである。

天守閣の石垣は、清正一手の築造であり、その4箇所の隅石に銘石を使用し、担当した家臣の名を刻んでいます。

東北隅北面石には「加藤肥後守内小代下総」と刻名されているそうですが、確認できませんでした。


天守閣の石垣



清正石曳きの像

清正の石曳き

加藤清正は徳川家康に願い出て、大小の天守閣の石垣工事を施工しました。

清正は巨石を修羅に乗せて運ぶとき、石の上に乗り、気勢を上げたと伝えられ、世に「清正の石曳き」といわれている。


清正石

名古屋城の門は、櫓門(2階建て)と高麗門(平屋建て)を枡形に配置し、石垣には防備を誇示するために大きな石を組み入れています。

この石は加藤清正が運んできたといわれていますが、この石塁の施工大名は黒田長政でしたので、「清正石」というのは、単なる説話のようです。


清正石



西南隅櫓と天守閣



表二之門と東南隅櫓

西南隅櫓

未申櫓(ひつじさるやぐら)ともいわれ、屋根は二層、内部3階の櫓です。

外部に面した西・南両面には軍事用の「桶狭間」(石落とし)を張り出して屋根は千鳥破風にしています。

この櫓は、濃尾大地震で石垣と共に崩壊したが、大正12年(1923年)宮内省によって修理復旧され、鬼瓦などに菊花紋が見られます。


東南隅櫓

辰巳櫓ともいわれ、その規模、構造は西南隅櫓と同じですが「落狭間」の屋根の破風の形を異にしています。

この櫓は創建当時の姿を伝えるもので、鬼瓦などに葵の紋が見られます。


東南隅櫓



正門

正門

明治43年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されましたが、第2次世界大戦により焼失したため、昭和34年天守閣と共に再建されました。


表二之門

古くは南二之門といわれ、門柱・冠水とも鉄板張りとし、用材は木割りが太く堅固に造られています。

袖堀は土塀で鉄砲狭間を開いて要害としての堅固さを示しています。


表二之門



不明門

不明門

多門塀の下をくぐる埋門(うずみもん)で、本丸御殿の大奥へ通ずる秘門であり、常に鍵が厳重に施され、別名を「開かずの門」といわれました。

塀は外側の軒桁を忍返しにした「剣塀」です。

昭和20年5月の空襲で天守閣などと共に焼失、昭和53年3月、原型のとおり再建されました。


榧(かや)の木

高さ16メートル、幹周り8メートルで、築城以前から自生し、樹齢600年以上といわれています。

名古屋市内で唯一の国指定の天然記念物です。

空襲によって被災しましたが、幸いにして樹勢を取り戻しました。

初代藩主・徳川義直が大坂へ出陣の時、この実を膳に盛り、のち正月の祝膳にも盛ったといわれています。


榧の木



鵜の首

鵜の首

西之丸・御深井丸など郭の接するところに防衛上から入り込んだ掘りが設けられています。

これを「鵜の首」といいます。

本丸を巡って「鵜の首」と呼ばれる箇所は5箇所残っています。



二の丸茶亭


名勝二之丸庭園

元和年間(1615〜1623年)二之丸御殿の造営に伴って同御殿の北側に聖堂(金声玉振閣)を中心として設けられましたが、享保年間(1716〜1736年)以降改修されて枯山水回遊庭園に改められたとのことです。


二之丸庭園



金の茶釜

二の丸茶亭

二の丸茶亭は、由緒ある二之丸庭園にふさわしい風格をもち、現代様式の中に古典美を生かした建物です。

素材も木曽の桧が用いられ、点茶のための座敷及び水屋などが造られています。

金の茶釜が展示されていました。


二之丸東庭園

明治の初めに兵営建築のため、二之丸庭園の多くが壊されました。

名古屋市蓮左文庫所蔵の「御城御庭絵図」に基づいた発掘調査であらわれた北池、南池、茶席「霜傑」建物跡、暗渠の4遺構を中心に整備し、昭和53年4月に二之丸東庭園として開園しました。


二之丸東庭園



那古野城址の碑

那古野城址

大永(1521年〜28年)の初め、今川氏親が名古屋台地北西端に築いたもので、一名「柳の丸」といわれました。

氏親は、一族の氏豊を城主として守らせていましたが、天文元年(1532年)織田信秀によって城を奪われました。

その後信秀が居城し、天文3年信長はここで生まれたといわれています。


その後、廃城になりましたが、名古屋城築城の際、二の丸の一部となったそうです。


南蛮たたき鉄砲狭間

二之丸御殿北御庭の北端の石垣の上に東西に長く伸びた練塀の遺構です。

この練塀は「南蛮たたき」で固められた非常に堅固なものであり、円形の鉄砲狭間が見られます。


名古屋城の遺跡としては、非常に珍しいもので貴重な文化財だそうです。


南蛮たたき鉄砲狭間



理御門之跡

理門跡(うずみもんあと)

理門とは、城郭の石垣または土塀の下をくぐる門をいいます。

理門の跡は二之丸庭園の西北の位置にあり、城が危急の場合、城主はここから脱出することが決められていました。


この門をくぐれば垂直の石段があり、これを降り、壕を渡って対岸の御深井丸の庭から土居下を通り、大曽根勝川、定光寺を経て、木曽路に落ち行くことが極秘の脱出路とされていたそうです。



天守閣からの光景


アクセス

JR名古屋駅から地下鉄桜通線に乗車、「久屋大通」で地下鉄名城線に乗り換えて「市役所」下車 徒歩5分で東門


駐車場

正門前、東門前に有料駐車場あり


天守閣から西南隅櫓・正門方向の展望



天守閣から名古屋駅方面の展望

観覧料

500円

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     風来坊


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