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知覧散策  (H16.9.16)



武家屋敷群本馬場通り

知覧麓の武家屋敷群

江戸時代、薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に麓と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせました。

知覧もその外城の一つです。


江戸時代の知覧は当初、島津家の分家である佐多氏が地頭として治めていました。佐多氏には優れた当主が多く出て、薩摩藩の中でも重要な役目を果たし、その功績によって佐多氏16代久達の時代に、知覧の私領地化と島津姓の使用が許されました。


「知覧麓の武家屋敷群は、薩摩の麓の典型的な作例の一つで、地区内は石垣で屋敷が区切られ、折れ曲がった本馬場通りに沿って連なる石垣と生垣からなる景観は見事なものがあります。

また、それぞれの屋敷入口には屋敷内が見えないようにする屏風岩があります。

昭和56年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。


本馬場通りと母ヶ岳


屏風岩のある屋敷入り口(佐多直忠氏庭園)


また、同時に地区内の7つの庭園が「優れた意匠で構成されており、またその手法は琉球庭園と相通じるものがあり、庭園文化の伝播を知る上でも貴重な存在である」として国の名勝に指定されています。


指定された7つの庭園では森氏庭園のみが池泉式で、他はすべて枯山水式となっています。

佐多民子氏庭園

巨石奇岩を積み重ねて深山幽谷の景を写し出しています。

小船に乗って石橋の下を潜って行くと、仙人が岩の上から手招きしているように見えるそうです。

麓川の上流から運んだ庭石は、凝灰岩質のもので、巨岩のため石目に沿って割り、牛馬で運びやすくしたそうです。


佐多民子氏庭園



佐多忠直氏庭園

佐多直忠氏庭園

佐多直忠氏の門をくぐると屏風岩戸呼ばれている、切石の目隠しがあります。

これは屋敷内を見えないようにする防衛を兼ねた造りで、江戸時代中期の武家屋敷の風格を備えております。


母ヶ岳を望む庭の一隅に築山を設けて、その中心に3.5mの立石がそびえ、下部には多数の石組みを配して枯滝としております。何か大陸的で一幅の水墨画をそのままに現した名園です。

森重堅氏庭園

森家は、亀甲城の西麓にあり、領主に重臣として仕えた家柄で、住居や土蔵は1741年に建てられたものです。

玄関は身分によって上がり口が異なっています。家の者はもちろん裏口から入ります。


森重堅氏庭園


森重堅氏庭園


曲線に富んだ池には、奇岩怪石を用いて近景の山や半島を現し、対岸には洞窟を表現した穴石を用いて水の流動を象徴しています。

庭園入口の右側にある石は、庭園の要をなし、雲の上の遠山を現しているそうです。


母ヶ岳の優美な姿を借景として、260余年もの歳月を経て、歴史の息吹を今に伝える薩摩の小京都もなかなか素敵です。

知覧特攻平和会館

武家屋敷群から2Km程のところに、特攻平和会館があります。

特攻平和会館は太平洋戦争の末期、沖縄決戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆弾搭載の飛行機もろとも肉弾となり、一機一艦の突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料を展示しています。

この特攻平和会館は、知覧町が次の趣旨によりまちづくり特別対策事業として昭和60年から2カ年事業で、知覧特攻遺品館を知覧平和会館と改称して新築したものです。


『特攻隊員たちが帰らざる征途に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。この地が特攻隊の出撃基地であったことにかんがみ、雄々しく大空に散華された隊員の慰霊に努め、当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに平和会館を建立した次第であります。』


特攻平和会館

慰霊の灯篭


特攻平和観音堂

特攻平和観音堂


知覧町では、これら特攻勇士が身を以て示された崇高至純の殉国精神を顕彰、ご英霊をお慰め申し上げ世界の恒久平和を祈念するため、関係将士ならびに念願を同じくする有志一同の浄財をもって、知覧町旧飛行場後に特攻平和観音堂を昭和30年9月28日に建立し観音像を安置している。


また、浄財によって昭和49年、平和の守護神として大空にそびえ立つ特攻銅像「とこしえに」が建立されました。

昭和61年には「とこしえに母と共にやすらかに」の願いを込めて、同じ広場に母の像「やすらかに」が建立されています。


特攻銅像「とこしえに」


母の像「やすらかに」


朝鮮出身の特攻隊員慰霊の碑



三角兵舎

三角兵舎

三角兵舎は特攻隊員の宿舎でした。敵の目を欺くため、松林の中に半地下壕を作り、屋根には杉の幼木をかぶせ偽装してあります。

各地から集まった隊員は2〜3日後には雲の彼方沖縄の空に散華されました。

出撃の前夜は、この三角兵舎で壮行会が催され、酒を酌み交わしながら隊歌をうたい、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また別れの手紙などをしたためて、出撃して征ったのです。


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             風来坊


三角兵舎内部

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