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御殿前の池から錦江湾を望む
磯庭園は正式名称を仙巌園(せんがんえん)といい、万治元年(1658年)、19代島津光久が御仮屋を建てたのが始まりとされています。 島津藩ではすでに18代島津家久が城山に鶴丸城を建て、島津氏の居城としており、仙巌園に建てられた御殿は、島津家の別邸として代々の藩主に受け継がれました。 またこの一帯は第28代島津斉彬によって製鉄・造船・紡績などといった集成館事業が展開され、近代日本発祥の地としても全国からの注目を集めています。
中国龍虎山の仙巌に因んで「仙巌園」と名付けられています。 庭園のある地域が海のそばであることから「磯庭園」「磯公園」という愛称で親しまれてきました。 昭和24年鹿児島市の管理により磯公園として一般に公開されました。 昭和32年に島津家に返還され、以後現在に至るまで島津家が管理しています。 昭和33年に国の名勝に指定されています。
御殿前の池
仙巌園庭園
園内いたるところに薩摩の歴史を物語る史跡が残されております。 台場砲 文久3年(1863年)の薩英戦争の際、薩摩藩の砲台に据え付けてあった台場砲をかたどったものです。 砲身長4メートル56センチ、砲重量4.8トンに達する巨砲ですが、砲身の前部から火薬と弾丸を込める旧砲式で、射程も千メートル前後です。
イギリスの7隻の軍艦には、最新式のアームストロング砲が装備されておりました。 射程は4千メートルで、先が尖った弾丸で着発信管が装着され、モノに命中した瞬間に爆発しました。 7月2日から翌3日まで続いて戦闘で、アームストロング砲の威力により薩摩藩の砲台は次々と破壊されました。
台場砲
正門
正門 1895(明治28)年、9代忠義が鹿児島の大工、大重伊三次に命じて建てさせた門です。 磯の裏山の楠を使用し、島津家の家紋の丸十と五七の桐が彫りこまれています。
錫門 錫門は1848年の庭地拡張までの正門です。この門は、19代島津光久の代に建てられたと伝えられています。 現在では、庭園の中央に位置しているが、正門であったころは、この辺りまで錦江湾がせまっていたそうです。 屋根を錫で葺いていたことから錫門と呼ばれていたと伝えられていますが、当初から朱塗りの門であったかどうかは定かではありません。
錫門
御殿
御殿 磯の御殿は、島津家の別邸として使用されていましたが、明治4年の廃藩置県で島津家の居城であった鶴丸城が島津家の手を離れたため、島津家の鹿児島での生活の場は磯に移り29代忠義の時代には本邸として使用されました。 現在では、明治17年に改築された部屋を中心に、当時の約3分の1が残されています。 庭園に面した部分は、29代島津忠義が使用していた部屋で、寝室、居間、謁見の間など8部屋余りからなっています。
ヤクタネゴヨウ 御殿の前の松は、ヤクタネゴヨウといい、御殿の前で仙巌園の長い歴史を見つめてきた松です。 仙巌園のヤクタネゴヨウは樹高約28m、直径約1.5mの巨木で庭園のシンボル的な存在です。
御殿前の池から
ヤクタネゴヨウとは「屋久・種子・五葉」の意味であり,その名の通り屋久島と種子島のみに自生する五葉松の一種です。 分類学的には中国南部と台湾に分布するタカネゴヨウというマツの変種とされていますが,生育地の限られた貴重な樹種です。 屋久島では立ち枯れの被害が拡大し絶滅の危険にさらされているそうです。
獅子乗大石燈籠 畳八畳ほどの大きな笠石の上に、逆さの獅子が乗った大きな燈籠です。 29代島津忠義が明治17年(1884年)御庭方小田喜三次に造らせた燈籠で、大きく口を開けた獅子は飛び獅子といいます。 この石燈籠は火袋だけに加工した石を使い、笠石と台石は自然石で組んだ山燈籠と呼ばれるものです。 笠石は磯海岸の防波堤に使われていたものだそうです。
獅子乗大石燈籠
鶴燈籠
鶴燈籠 鶴が羽を伸ばしたように見えることからこう呼ばれています。 これは、28代斉彬の時代に、日本で初めてガス灯を点した燈籠の一つです。 斉彬は、蘭学者らにガス灯の用法を書いた蘭書を翻訳させ、安政4年(1857年)8月に磯御殿の浴室付近にガス室を設置し、園内の石灯籠に点火しました。
翌年に斉彬が急死してしまったため、城下にガス灯を普及するという夢は果たせず終わってしまいました。 もし、斉彬が長生きしていたならば、横浜・東京より早く鹿児島の街にガス灯がともったかもしれません。 ちなみに、横浜でガス灯が点火したのは明治5年(1872年)のことです。
望嶽楼
望嶽楼 望嶽楼は、19代島津光久の時代に琉球王国から献上された建物で、藩主が琉球使節と面接する際に使用されたといわれています。 異国情緒あふれるこの建物の最も特徴ある部分は床で、中国清朝初期に阿房宮の床瓦を模造したと伝えられる「せん」が273枚敷きつめられております。
千尋巌 御殿の裏山に巨大な岩石が露出しており、その岩には千尋巌の三文字が刻まれています。 この文字は3文字で11メ−トルもあり、文化11年(1814年)27代島津斉興の時代に、延べ3900人の人夫が3ヶ月かけて刻んだものです。 工事の際は磯山の杉や竹で足場を組んで作業を行ったといわれています。 このような岩に文字を刻む作庭方法は日本庭園では大変珍しく、中国文化の影響と思われます。
千尋巌
迫ン太郎
迫ン太郎 迫ン太郎とは、谷水の流れを利用した米つき機の一種で、精米機のなかった頃、もみや玄米を精米するために使用されていました。 30代島津忠重の頃には、小屋の中にこの迫ン太郎と交互に上下する杵や臼を並べ、ここで精米したお米を食べていたとされています。 迫とは小さな谷のことで、村中で一番の働き者であった太郎の名前と合わせて、水が流れる限り絶え間なく働くこの装置を迫ン太郎と呼んだと伝えられています。
尚古集成館 尚古集成館は、大正12年に開館した永い歴史をもつ博物館で、島津家伝来の史料を中心に文書や書画をはじめ歴代の当主らの鎧、薩摩切子や薩摩焼などの工芸品、機械類など約1万点を収蔵しています。 この尚古集成館一帯は、幕末島津斉彬の時代には集成館という工場地帯であり、昭和34年には国の史跡に指定され、慶応元年に建てられた機械工場の建物(現在の本館)は、建造物として昭和37年に国指定重要文化財に指定されています。
尚古集成館
鶴嶺神社
鶴嶺(つるがね)神社 島津家800年の歴代当主とその家族を祀っている神社です。 関連のホームページ 仙巌園 風来坊