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名胡桃城趾とガラス工場 (H26.8.2)


上毛高原駅駅前



上毛高原駅

JR東日本の「駅からハイキング」のイベント「みなかみ町 名胡桃(なぐるみ)城趾とガラス工場見学」に参加しました。

細部説明は「天下統一のきっかけとなった名胡桃城趾と、100年をこえる歴史を持つガラス工場があります!戦国時代に思いを馳せていざ散策!」となっています。


コースの概要は次のとおりです。

上毛高原駅→みなかみ町観光協会(スタート)→小川城趾→名胡桃城趾→茂左衛門地蔵尊奥の院→茂左衛門地蔵尊→月見野びーどろパーク→道の駅・矢瀬親水公園→みなかみ町観光協会(ゴール)→上毛高原駅


みなかみ町観光センター



この先を右折すると国道291号線

コースの歩行距離は約11km、歩行時間約3時間、所要時間約4時間(施設での見学時間を含む)です。

名胡桃城趾でボランティアガイドに説明していただいたこと、月夜野びーどろパークで美術館や工場を見学したこともあり、所要時間4時間15分、約17000歩でした。



小川城趾


今回の駅からハイキングは、スタートが上越新幹線上毛高原駅ということで、やむなく高崎〜上毛高原間は、新幹線を利用しました。

上毛高原駅をでた、左前方の新しい建物の中に「みなかみ町観光協会」があります。

「みなかみ町観光協会」で受付を済ませた後、上毛高原駅から前方に伸びる道路を100mほど進んだ信号のある交差点を右折し、国道291号線に沿って200mほど進んだ左手が「小川城趾」です。


小川城趾本丸跡



小川城趾

この地は古くから小川郷として、北は越後に抜ける重要な拠点でした。沼田城主沼田景久は、西への備えとして明應元年(1492年)ここに小川城を築城し、知行700貫(約3500石)で二男の二郎景秋に統治させました。

その後、1524年に4代目城主・小川景季が北条氏に攻められて戦死し、後継者が途絶えます。

そして、赤松捨五郎裕正が、上杉謙信の裁可を得て小川可遊斎と名乗り小川城主となります。



小川城趾から黒岩橋に向かう田園地帯


上杉謙信の死後は、小川可遊斎は真田昌幸に従い天正7年(1579年)には、海野輝幸と共に後北条氏をこの城において防ぎます。また、翌8年正月晦日海野輝幸と共に利根川を渡り明コ寺城を落とします。

3月には逆に北条勢に攻め寄せられ 名胡桃城と共に防ぎきりましたが、北条氏邦・長尾憲景が増援するに及んで可遊斎は降伏を望むものの、真田昌幸に認められず可遊斎は北国に浪人します。


小川城趾から黒岩橋に向かう田園地帯



国道291号線

その後は、北能登守が小川城主となりました。能登守は昌幸の元にあって沼田衆中の重鎮となり、真田信幸の時代には吾妻の奉行になりました。

天正17年(1589年)、豊臣秀吉の裁定により小川城は後北条のものになりましたが、小田原の役で後北条氏が没落した後、真田氏に返されました。



黒岩橋から黒岩渓谷を望む



橋の上は上越新幹線


小川城趾から国道291号線に沿って田園地帯を700mほど進むと道路は右カーブし、その先が緩やかな下り坂になっています。

下り坂を700mほど進んだ一番下部が黒岩橋で、橋の下が黒岩渓谷です。

黒岩渓谷は、赤谷川の渓流に、約1Kmにわたって広がる美しい渓谷です。


黒岩橋から黒岩渓谷を望む



上津大原交差点 ここを左折です

「扇岩」や「衣掛の松」など8つの景勝を持つことから、黒岩八景とも呼ばれています。

春の新緑から奇岩に砕ける水しぶきが涼味を誘う夏、色とりどりの美しさに染まる秋、そして雪化粧の冬と、四季折々に訪れる人の心を魅了するとのことです。



名胡桃橋


黒岩橋から今度は緩やかな上り坂を700mほど進んだ「上津大原」の交差点を左折すると、国道17号線「北国街道」です。

北国街道に沿って1.5Kmほど進むと名胡桃橋で、さらに100mほど進んだ左手が「名胡桃城趾」です。


名胡桃橋からの展望



名胡桃城趾



名胡桃城趾



名胡桃城趾

名胡桃城は、利根川と赤谷川の合流点近くの右岸の段丘上に築城された城で、三方が絶壁となっている天然の要害に造られた山城です。

天正7年(1579年)に利根に侵攻した真田昌幸によって、現在の城趾に築城されたとされています。

秀吉の小田原北条討伐のきっかけとなった城として、歴史上でも有名です。


東西を山に囲まれた利根・沼田周辺は、鎌倉時代から戦国時代にかけて沼田氏が支配していましたが、戦国時代の天文の頃、小田原の北条氏が利根に侵攻し利根沼田一帯は北条氏の支配となりました。

永禄3年(1560年)越後の上杉謙信が三国峠を越えて進攻し、山城や砦を攻略し、北条氏の城となっていた沼田城を手中にしました。


天正6年(1578年)上杉謙信が春日山城内で急死すると、北条氏が沼田に進攻し、再び北条氏の支配となりました。


名胡桃城趾



名胡桃城趾から沼田市を望む



北国街道

謙信が没した翌天正7年〜8年にかけて、武田勝頼の命により真田昌幸が吾妻の岩櫃城、利根に入って名胡桃城を始め山城や砦を攻略し天正8年(1580年)に沼田城を攻略しました。

その後、沼田領をめぐって真田氏と北条氏の間で攻防が続きますが、天正17年(1589年)、関白豊臣秀吉の調停で東と赤谷川の左岸を北条領、西(名胡桃城)を真田領とする裁定が下されました。


しかしながら、北条氏の沼田城代となった猪俣邦憲が調略により名胡桃城を不法に攻略してしまい、城将の真田昌幸家臣・鈴木主水は割腹ました。


この名胡桃事件に激怒した秀吉は、大名間の私闘を禁じた惣無事令に反したとして、天正17年11月北条氏に対して戦いを宣し、全国の大名に命じて小田原攻めを開始し、天正18年小田原の役が勃発しました。

小田原城開城後は沼田・名胡桃領は真田氏に与えられた。沼田領の安泰とともに名胡桃城はその役割を終え廃城となりました。

発掘により、名胡桃城址の般若郭に古い居館の址が明らかになり、掘っ建て柱による建物20ケ所が確認され、名胡桃氏(沼田景久の子・景冬が名胡桃氏を称した)の居館であったと推定されています。


名胡桃城趾観光案内所



茂左衛門地蔵尊奥の院



茂左衛門地蔵尊奥の院



茂左衛門地蔵尊奥の院

名胡桃城趾から北国街道を「上津大原」交差点まで戻り、右折して200mほど進んだ「上津」交差点を斜め右方向に300mほど進んだ右手の坂の上が「茂左衛門地蔵尊奥の院」です。

沼田領主の悪政で苦しむ領民を救うために、命を捧げた月夜野の百姓・杉木茂左衛門を祀ってあります。

天正元年(1681年)正月、沼田領主真田伊賀守の非行、惨状をしたためた訴状を懐に密かに江戸に上り、上野輪王寺宮から将軍家へ巧妙な方法で直訴に成功しました。時の将軍、4代家綱は取り調べの結果、罪状明確なので伊賀守は改易、沼田城は破却の運命となりました。


天正元年(1681年)正月、沼田領主真田伊賀守の非行、惨状をしたためた訴状を懐に密かに江戸に上り、上野輪王寺宮から将軍家へ巧妙な方法で直訴に成功しました。

時の将軍、4代家綱は取り調べの結果、罪状明確なので伊賀守は改易、沼田城は破却の運命となりました。

茂左衛門は本望を遂げたのを見届けたので、密かに郷里に帰り妻に別れを告げ自首を決意して江戸に向かうところを小袖坂で幕史に捕らえられ、江戸送りとなり取り調べの上、所成敗となり月夜野の河原で磔刑に処せられました。

北向観世音



茂左衛門地蔵尊奥の院からの展望



茂左衛門地蔵尊奥の院からの展望



黒岩渓谷

領民はその死を悼み、刑場跡に地蔵尊を建て供養を続けてきましたが、大正11年(1922年)各地の篤志家からの浄財によって、茂左衛門を祀る千日堂が建立されました。

現在は、春と秋の彼岸に茂左衛門地蔵尊縁日、元旦にはだるま市販売、2月3日には節分まめまきが行われ、多くの参拝客で賑わっています。



黒岩渓谷


「茂左衛門地蔵尊奥の院」から、下り坂を道なりに300mほど進んだ丁字路の交差点が「黒岩」交差点で、左右の道路が「奥利根ゆけむり街道」です。

「黒岩」交差点の手前の橋の下を流れるのが、赤谷川でこの付近が「黒岩渓谷」の一番下流エリアです。

「黒岩」交差点のそばに展望台がありました。


黒岩渓谷 一番上は常設新幹線



奥利根ゆけむり街道の街並み



奥利根ゆけむり街道の街並み



奥利根ゆけむり街道の街並み

「黒岩」交差点を右折し、「奥利根ゆけむり街道」に沿って進むと、ノスタルジックな街並みが続いています。



茂左衛門地蔵尊



茂左衛門地蔵尊千日堂


ノスタルジックな街並みを眺めながら、1Kmほど進んだ右手が「茂左衛門地蔵尊」です。

この場所に、茂左衛門を祀っている千日堂があります。


茂左衛門地蔵尊



橋を渡って左折です 下は利根川

「茂左衛門地蔵尊」から100mほど進むと、大きな橋があり、下を流れているのが利根川です。

橋を渡った「後閑」交差点を左折して、500mほど進んだ右手が「月夜野びーどろパーク」です。



月夜野びーどろパーク グラスアート美術館


「月夜野びーどろパーク」は、上越クリスタル硝子が運営するガラスのテーマパークです。

「月夜野 びーどろパーク」は、ガラス工場見学(無料)、グラスアート美術館、ガラス体験工房、 ガラスショップ、地ビールレストランなどいろいろな施設からなっています。


月夜野びーどろパーク



月夜野びーどろパーク ガラス工場



ガラス工場

特にガラス工場では、現代の名工たちの製作風景を見学することができます。

また、ガラス体験工房では、本格的な吹きガラスや絵付けを体験することができます。

グラスアート美術館では、素晴らしい作品が展示されていましたが、撮影禁止のため、残念ながら紹介することができません。


「月夜野びーどろパーク」から、1.7Kmほど水上温泉の方向(北方向)に進んだ「下牧」交差点を左折し、300mほど進んだ左手が「道の駅 矢瀬親水公園」です。

「矢瀬親水公園」縄文時代の集落跡である史跡「矢瀬遺跡」を含む、総面積3.5ヘクタールの公園です。園内には芝生広場をはじめ多彩な親水エリア、児童遊具、バーベキュー棟などが整備されています。また、農産物加工・直売所もあります。


ガラス工場



ガラス工場


ガラス工場



矢瀬親水公園

月夜野町には、平安の昔、京の歌人源順が東国巡行の途中でこの地を通った際に、おりしも東の三峰山より昇る月を見て「おおよき月よのかな」と深く感銘し歌を詠んだという伝説があります。

これが「月夜野」の地名の起こりといわれています。ゆるやかな丘陵地に広がる豊かな自然と歴史を感じることのエリアです。


「矢瀬遺跡」は、縄文時代の住居と祭祀遺構、水場などが発見された遺跡です。

比較的狭い範囲にこれらの施設がそろって発見されたことで縄文時代の集落構造がよくわかる遺跡とのことです。

矢瀬遺跡から発見された土器や石器、耳飾りが展示されている資料館もすぐ近くにあり縄文時代の生活を学ぶことができるとのことですが、道の駅のみと勘違いして遺跡を訪ねることができませんでした。


矢瀬親水公園



月夜野郷土資料館

「矢瀬親水公園」から上り坂を500mほど登ると「上毛高原駅」と「みなかみ町観光協会(ゴール)」です。

上り坂の途中に「月夜野郷土資料館」と「梨の木平敷石住居跡」があります。

「月夜野郷土資料館」には、月夜野に伝わる考古・民俗・歴史資料など、貴重な品々を展示しているとのことですが、残念ながら休館日でした。


「梨の木平敷石住居跡」は、縄文時代中期のもので、住居内には5本の主柱穴と2本の支柱穴があり、河原石を組んだ炉の跡や、埋められた甕も発見されています。

敷石住居跡の構造や構築の過程までが捉えられる貴重な資料となっています。




          風来坊



梨の木平敷石住居跡


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