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第58回東京龍馬会史跡探訪 (H28.7.4)


不忍通り



不忍通り

東京龍馬会の第58回史跡探訪のレポートです。

今回のテーマは、『激動の幕末〜明治:大国と対峙した幕臣と明治近代国家の礎を創った賢人を訪ねて』です。

今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。

東京メトロ根津駅(受付)→大正寺→東大赤門 三四郎池(加賀藩屋敷跡)→本郷「かねやす」→麟院(遠藤謹助の墓所、春日局墓所)→神田明神→湯島聖堂→小栗上野介誕生の地→ニコライ堂→御茶ノ水駅(解散)


今回は所要があって5月22日に開催された、第58回史跡探訪に参加することができず、東京龍馬会の史跡探訪の資料を基に、7月4日に散策したものです。

史跡探訪の資料は、東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも資料から一部抜粋させていただいております。


大正寺



川路聖謨

東京メトロ根津神社駅から不忍通りを上野方向に進み、「不忍小学校入口」の交差点を右折し100mほど進んだ丁字路を左折して100mほど進んだ左手が「大正寺」です。

大正寺は日蓮宗の寺院です。

大正寺は、円通院日亮が慶長9年(1604年)に草庵として創建、二世本立院日盛聖人代の寛永8(1631年)に盛林山大正寺として開山されました。

幕末の勘定奉行川路聖謨(としあきら)の墓所があることで知られています。


川路聖謨は、豊後国日田領代官の部下、内藤吉兵衛の子として生まれ、幕臣川路光房の養子となります。

文政元年(1818年)支配勧請出役に就任し、評定所留役、寺社奉行調役、勘定吟味役等を歴任、次いで佐渡、奈良、大阪町奉行を歴任後、嘉永5年(1852年)に勘定奉行兼海防掛に任じられました。

翌嘉永6年、米国史ペリーの浦賀、露使プチャーチンの長崎来航により、国防の急務を痛感し、品川沖に台場を築きます。特に露使とは、応接全権となって交渉に当たり、樺太の北緯50度以南、千島列島択捉島のわが国領有を主張しました。

井伊直弼の大老就任により左遷されるが、文久3年(1863年)外国奉行に起用されました。


東京大学



東京大学安田講堂



東大赤門



東大赤門

大正寺の先を右折し、300mほど進んだ左手が東京大学弥生門です。今回は赤門と三四郎池を訪ねました。

赤門は東京大学本郷キャンパスの通用門の一つで、一般に「赤門」として周知され、東大を象徴する門として今日まで親しまれています。正式には「旧加賀屋敷御守御門」です。

東京大学本郷キャンパスの敷地は、かつては加賀藩前田家などの上屋敷でした。


文政10年(1827年)、前田斉泰は徳川家11代将軍家斉の21女・溶姫を迎える際に赤門が造られました。

門を朱色に塗るのは、将軍家から夫人を迎える場合の慣習とされており、表門の黒門に対して、赤門と呼ばれていました。現存するのは赤門のみです。


この門は、形式は三間薬医門で、屋根は切妻造本瓦葺、左右に破風造りの番所を備えています。赤門の屋根瓦の大棟には「三つ葉葵」、軒丸瓦等には「梅林」、大棟の鬼瓦には「學」の紋様がみられ、徳川家の前田家の歴史的関係が垣間見られます。


東大赤門



東大三四郎池



東大三四郎池

三四郎池は、1638年に当主前田利常によって園池が築造されました。

利常の死後、綱紀がさらに補修して、当時は江戸諸侯邸の庭園の中で第一と称されたそうです。

池の形が「心」という字をかたどっており、正式名称は「育徳園心字池」です。

夏目漱石の名作「三四郎」は、ここを舞台としたため「三四郎池」の名で親しまれています。


東大赤門から本郷通りを南方向に300mほど進むと「本郷3丁目」交差点です。この交差点の南西側に「かねやす」があります。

「かねやす」を興したのは初代・兼安祐悦で、京都で口中医(歯医者)をしていました。徳川家康が江戸に入府した際に従って、江戸に移住し口中医をしていました。

元禄年間(1688〜1704年)に歯磨き粉である「乳香散」を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけにして小間物店「兼康」を開業します。

「乳香散」が爆発的に売れたため、当時の当主は弟にのれん分けをし、芝にもう一つの「兼康」を開店しました。同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で元祖争いが起こり、裁判となります。


東大三四郎池



かねやす



かねやす

これを裁いたのは大岡忠相でした。大岡は芝の店を「兼康」、本郷の店を「かねやす」とせよ、という処分を下しました。本郷の店がひらがななのはそのためです。その後、芝の店は廃業した。

享保15年(1730年)、大火事が起こり、復興するに際して、大岡忠相は本郷の「かねやす」があったあたりから南側の建物には塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許した。このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれました。


なお、文政元年(1818年)に江戸の範囲を示す朱引が定められたが、これはかねやすよりはるか北側に引かれました。

東京(江戸)という都市部において、度重なる大火や地震、戦災を経ながら、同一店舗が400年にわたって存在するのは珍しい事例とのことです。

現在は7階建てのビルになっています。


かねやす



麟院



麟院

本郷3丁目の交差点を左折し、春日通りに沿って東方向に300mほど進んだ左手が「麟院」です。

麟院は、寛永元年(1624年)に春日局の隠棲所として創建され、天沢寺と称していました。春日局の没後に法号から天沢寺麟院と改めました。

周辺にからたちの垣を巡らせていたことから「からたち寺」の別名があります。

明治20年(1887年)には井上円了が、この寺の一棟を借りて東洋大学の前身である「哲学館」を創立しました。そのため「東洋大学発祥之地」でもあり、碑も建てられています。



麟院


麟院には春日局の墓所、遠藤謹助の墓所があります。

安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母です。名前は齋藤福で、春日局は朝廷から賜った称号です。

徳川家光の将軍後継に尽力しました。


麟院



春日局墓所



春日局墓所

江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられました。

大奥を統率し内外に勢力を振るいました。また朝廷との交渉の前面に立つ等、近代初期における女性政治家として随一の人物であり、徳川政権の安定化に寄与しました。

法号は「麟院」です。



麟院


遠藤謹助は、明治時代の官僚で、天保7年(1836年)萩に生まれました。

長州ファイブ(井上馨、伊藤博文、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助)の一人です。

文久3年(1868年)、長州ファイブのメンバーで密かに英国に留学し、慶応2年(1866年)に帰国後は、外交官として活躍します。

明治元年(1668年)、明治政府に出仕し、近代的な病院建設に尽力しました。さらに、大阪造幣局の建設にかかわり、明治14年(1881年)造幣局長となり、明治22年(1889年)に日本人による様式新貨幣の鋳造に成功しました。

明治16年(1883年)から造幣局内の桜並木を一般公開し、「桜の通り抜け」として現在も大阪の風物詩として継承されています。


麟院



湯島天神



湯島天神

麟院から春日通りを東方向に200mほど進んだ右手が湯島天神です。

湯島天神は、古来より江戸・東京における代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れますが、普段からも学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せています。

また境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った「湯島の白梅」は大ヒットしました。


湯島天神から南方向に500mほど進むと「清水坂下」の交差点で、交差点を横切って坂道を100mほど登って左折すると「神田明神」です。

神田明神は、江戸東京に鎮座して1300年近くの歴史をもつ神社で、江戸時代は「江戸総鎮守府」として、現在は神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内など108の町々の総氏神様として、都心を守っています。

祭神は一之宮に大己貴命、
二之宮に少彦名命
三之宮に平将門命

の三柱を祀っています。

神田明神


神田明神



神田明神



神田明神

神田明神は、天平2年(730年)に大己貴命の子孫・真神田臣により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町)に創建されました。

その後、天慶の乱で活躍した平将門を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く供養し、延慶2年(1309年)に祀りました。

戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。


慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、徳川家康公が合戦に臨む際、神田明神に戦勝の祈祷を行ないました。9月15日の神田祭の日に、戦いに勝利し見事に勝利し天下統一を果たさしました。

江戸幕府が開かれると、幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616年)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。

以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府のみでなく江戸庶民にも崇敬されました。


神田明神



銭形平次の日

明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。

大正12年(1923年)の関東大震災により江戸後期を代表する社殿は焼失しましたが、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。

第二次世界大戦の東京大空襲で境内の建造物はほとんど焼失しましたが、社殿は戦火に耐え抜きました。

野村胡堂の代表作「銭形平次 捕物控」の主人公・銭形平次が当時神田明神下の長屋に住居を構えていたという設定から、境内の本堂右手横に「銭形平次の碑」があります。



湯島聖堂


神田明神の少し御茶ノ水駅よりに「湯島聖堂」があります。

徳川家康が孔子を始祖とする儒学、とりわけ朱子学を政治の中に取り入れていこうという考え方だったことから、寛永7年(1630年)に3代将軍家光は幕府儒官の林羅山に上野の忍ヶ丘に学舎と書庫を建てさせました。

さらに寛永9年(1632年)に尾張の徳川義直が孔子、顔子、曾氏、思子、孟子を祀る孔子廟を寄進しました。この頃から林家の私塾的性格から幕府直轄の漢学の拠点に性格が変わりつつありました。


湯島聖堂



湯島聖堂



湯島聖堂



湯島聖堂

5代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690年)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。

その後、およそ100年を経た寛政9年(1797年)、「聖堂」と総括的に呼んでいたものを、孔子廟関係(聖堂)と教育関係機関を分離して経営を考えるようになり、幕府直轄学校として「昌平坂学問所」を開設しました。


昌平坂学問所は主に旗本・御家人の子弟のための学舎として拡充整備され、聖堂は学校内の施設となりました。


幕末になると幕府は、昌平坂学問所に諸藩の藩士や浪人の入学を許すようになります。その数は弦化3年(1846年)から慶応3年(1867年)までで505人を記録します。

諸国から集まってきた若者達は、ここで封建制度の中における縦の人間関係ではなく、横の人間関係を築きます。後に倒幕のために戦った高杉晋作も、安政6年(1858年)11月から1年間ここで学んでいます。


ここには多くの人材が集まりましたが、維新政府に引き継がれた後、明治4年(1871年)に閉鎖されました。


湯島聖堂



湯島聖堂;孔子像

大正11年(1922年)に湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923年)に関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失しました。

現在の湯島聖堂は、昭和10年(1935年)に鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。

湯島聖堂構内に飾られている世界最大の孔子像は、昭和50年に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたものです。


湯島聖堂から御茶ノ水駅の傍を通過して更に200mほど進むと右手にニコライ堂があります。

ニコライ堂は日本で初めてのまた最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築で、高さは35mあります。ニコライ堂は1891年の竣工で、正式名称は東京復活大聖堂で、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭聖ニコライにちなんでいます。

日本ハリスト正教会(日本正教会)の正教徒で、日本人初の司祭である沢辺琢磨は坂本龍馬の事実上の従兄弟です。

天保6年(1835年)、土佐郡潮江村(現在の高知市)に土佐藩郷士の山本代七の長男として生まれます。代七の弟の八平は坂本家に婿養子として入り、坂本直足と改名、次男に坂本龍馬をもうけており龍馬とは血縁及び実質上の従兄弟同士である。また琢磨の母は武知半平太の妻である富子の叔母である。

沢辺琢磨は武術に優れ江戸に出て三大道場の一つといわれた鏡心明智流の桃井道場でその腕を師範代を務めるまでになりました。


ところがある晩、酒を飲んでの帰り道に拾った金時計を酔った勢いで一緒にいた友人と共謀し時計屋に売ってしまい、直ちにそれが不法なものであることが発覚して窮地に追い込まれる。

訴追を逃れるために龍馬や半平太の助けを得て江戸を脱出、東北各地を流れ廻った末、新潟に辿り着いたところで出会った前島密に箱館(現在の函館市)に行くことを進められ箱館へ。


箱館では持ち前の剣術の腕が功をなし、それがきっかけとなって道場を開くと町の名士たちとも親交を持つようになる。そんな中で知り合った箱館神明宮(現・山上大神宮)宮司の沢辺悌之助に請われて娘の婿養子となり、以後、沢辺姓を名乗る。箱館時代の琢磨について、新島七五三太(新島襄)が米国へ密航するときの手助けをしたというエピソードが伝わっています。

当時、既に開港していた箱館にはロシア帝国の領事館があり附属聖堂の管轄司祭として来日していたロシア正教会のニコライ神父は日本宣教の機会を窺いつつ日本の古典文学や歴史を研究していた。領事館員の中に子弟に日本の武術を学ばせたいという者がいてその指南役となり領事館に出入りするようになった琢磨もニコライを知ることとなりました。

その後ニコライ神父はハリスト正教会の教えを琢磨に説き、その教えに信服、まだキリスト教禁制の下慶応4年(1868年)秘密裏に洗礼を受け、日本ハリスト正教会の最初の信者となりました。

明治17年(1884年)ニコライ堂起工、尖塔が皇居を見下ろし不適であるとして建設を妨害しようとする右翼に対し、その容貌から琢磨が建設現場に現れると右翼の姿がなくなったとも伝えられています。

琢磨がもし坂本龍馬の助けがなく、函館に行かなかったならば、ニコライ堂は現存しなかったかもしれません。


「ニコライ堂」から西の方に進み、明治大学リバティータワー傍の信号のある交差点の北東側の「東京YWCA会館」付近が「小栗上野介」の生誕の地です。

小栗上野介は、文政10年(1827年)禄高2500石の旗本・小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷に生まれます。

天保14年(1840年)17歳になり登城します。文武の才を注目されて若くして両御番となります。

嘉永6年(1853年)アメリカの黒船が浦賀に来航。小栗は来航する異国船に対処する詰警備役となります。この頃から外国との積極的通商を主張し造船所を造るという発想を持ったといわれています。


度重なる異国船の来航の中で攘夷論が幕府内の風潮になる中、彼は一貫して海外との貿易を求め、開国思想を推進していました。このことが井伊直弼の目に留まり、アメリカへ修好通商条約交換のために派遣された。その帰路、小栗は日本人で初めて世界一周を果たします。

36歳で幕府の財政を一手に担う勘定奉行に昇進。海外文化を積極的に取り入れ、横須賀製鉄所(造船所)の建設、仏語学校の建設、陸軍伝習所を開くなど、日本の近代化のために着々と偉業を成し遂げました。

慶応4年(1868年)倒幕の意思を明らかにした薩摩、長州藩に対し幕府内で終始主戦論を唱えていたが、受け入れられず領地の上州権田村に隠遁し村を守りながら学校建設計画などをしていました。

しかし、彼の実力と思想に不安を抱く倒幕郡の追悼令により、捕らえられて処刑されました。


明治大学リバティタワー


勝海舟と小栗上野介

修好通商条約締結のためのアメリカからの帰国後、小栗は製鉄所建設など近代化政策を打ち出していきます。この時使節団の護衛船として、もう一つの船、咸臨丸がアメリカに渡っていました。その船長は勝海舟です。

勝は小栗と異なり工業力よりも人材力を重視していました。
勝は海軍学校の建設を夢に描き、小栗は造船所の建設を考え、時を同じくしてアメリカを見た二人、しかしその意見は対立していました。

小栗は軍艦奉行に就任、念願の造船所建設へと動き出します。一方勝は小栗の造船所建設に反対し、海軍学校の重要性を直接幕府官僚に訴えていました。
ようやく勝の要望が受け入れられ神戸海軍操練所が設立、海軍操練所と勝の私塾には全国から多くの塾生が集まり、その中には坂本龍馬の姿もありました。

勝は若者達を「海軍」の名のもとにまとめようとし、一方小栗の説得が実を結び時の将軍家茂が造船所尾建設を正式に認可、造船所は横須賀に建設されました。
司馬遼太郎は小栗のことを「彼こそ明治国家の父である」と呼んでいます。


小栗上野介の生誕の地から、北方向に300mほど進むとJR御茶ノ水駅(ゴール)です。


関連のホームページ


 東京龍馬会


        風来坊


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