散策スポット目次
HOME
前ページ
次ページ
菖蒲城趾あやめ園
吉祥院
あやめ会館
JR東日本駅からハイキングのイベント「本多静六博士生誕の地 あやめ・ラベンダーの里を巡る」に参加しました。 サブタイトルは「本多静六記念館や伝統のある神社・仏閣を巡るとともに、あやめ・ラベンダーをお楽しみください」です。
コースの概要は次のとおりです。(約5.5km) 久喜駅→(路線バス)→菖蒲仲橋(バス停)→あやめ会館→吉祥院→菖蒲神社→菖蒲文化会館→見沼代用水・十六間堰・八間堰→菖蒲総合支所(本多静六記念館)→ラベンダー苑→菖蒲城趾あやめ園→西願寺→下新堀久伊豆神社→あやめ公園→菖蒲仲橋(バス停)→(路線バス)→久喜駅 菖蒲仲橋到着後からの所要時間2時間10分 約8500歩でした。 路線バスは約25分、380円です。
久喜駅から「菖蒲仲橋行き」のバスに乗り、終点の「菖蒲仲橋」で下車し、星川を渡ったところの「あやめ会館」で受付を済ませるとスタートです。 「あやめ会館」から約500mで、「吉祥院」です。 吉祥院は、奈良時代の高僧・行基の開山と伝えられる真言宗智山派の名刹です。 神亀年間(724〜729年)諸国巡錫中の行基が菖蒲の群生するこの地で投宿したところ、夢のなかに昆沙門天、吉祥天が現れ、「薬師の尊像を刻んで安置し、人々の病苦を救い、民生を安やすんじなさい」と告げられました。行基は自ら薬師を彫り、一堂を建てて像を祀ったと伝えられています。
のちの応永21年(1414年)には、醍醐寺の弘鑁が中興開山となりました。 天正18年(1590年)上杉氏の兵火にかかりましたが、慶安2年(1649年)第九世真祐が再興し、3代将軍家光から寺領20石9斗の御未印を受領しました。 明治16年(1883年)、成田山から不動明王を勧請し、不動堂に安置しました。特に火伏せの不動として信仰を集めています。
菖蒲神社
吉祥院から約200mで「菖蒲神社」です。 菖蒲神社は、古くは袋田社、袋田明神社とも呼ばれ、奇稲田姫命を祭神とする神社です。 現在の祭神は、袋田大明神、鷲宮大明神、久伊豆大明神の3神で、五穀豊穣、厄除、病気平癒に霊験あらたかといわれています。 毎年1月15日には、注連縄や古いお札を持ちより左義長が行われます。左義長は「どんどん焼き」ともいわれ、長い竹数本を立て、門松や書き初めなどを焼き、その火で焼いた餅を食べると1年間の病が除かれるというものです。
菖蒲神社から約1.5kmで「菖蒲文化会館(アミーゴ)」です。 「菖蒲文化会館(アミーゴ)」から300mほど進むと「見沼代用水・十六間堰・八間堰」です。 利根大堰上流の取水口より取水された用水は、見沼代用水路、埼玉用水路、武蔵水路等に分水されています。 見沼代用水路は、利根大堰より取水し約2.4km下流で一級河川上星川と合流し、八間堰・十六間堰に至る水路延長約19kmをいいます。
菖蒲文化会館(アミーゴ)
八間堰・十六間堰
十六間堰
八間堰・十六間堰の名称は、堰の幅がそれぞれ八間(約14.4m)、十六間(約28.8m)だったことに由来します。両方の堰とも、1728年に井沢弥惣兵衛によって作られたのが起源です。 両堰の役割は、次のとおりです。 〇 用水が必要な時には、八間堰を開けて十六間堰を閉じ、見沼代用水に送水する。 〇 用水が不要な時や洪水時には、八間堰を閉じ十六間堰を開けて、下星川に放流する。 つまり流量調節のための施設ですが、八間堰は取水用、十六間堰は排水用です。
見沼代用水は十六間堰の上流までは、星川の河道を用水路として利用していますが、洪水などの際には、両堰に対して排水の操作をおこなうことで星川は排水路に変わるのです。 したがって、両堰は利水だけでなく治水上も重要でした。 現在は両堰のゲート開閉はコンピュータによる遠隔操作で行なわれているが、それ以前は人力で行っており、流量の多い十六間堰の操作は大変だったとのことです。
八間堰
菖蒲総合支所
「八間堰・十六間堰」から約400mで菖蒲総合支所です。その5階に本多静六記念館があります。 日本最初の林学博士として、日本の造林学・造園学など、林学の基礎を築いた本多静六博士は、慶応2年(1866年)に菖蒲町の折原家に生まれました。 東京山林学校(現在の東京大学農学部)を卒業後、ドイツに留学し、帰国後母校の助教授、教授になります。 東京の日比谷公園や明治神宮をはじめ、北は北海道の大沼公園、南は福岡県の大濠公園など、日本各地を代表する公園の設計に当った人物です。
本多静六記念館には、本多静六博士に関するゆかりの品や業績を展示してあります。 自筆の教科書、ノート、手紙などの展示のほか、設計に携わった日比谷公園の模型や愛用の品々なども展示されています。 また、生誕地である菖蒲町河原井の旧国道122号の、「道のオアシス」の中に、本多静六博士生誕地記念園があります。
本多静六記念館
ラベンダー苑
また、平成20年に開始された「本多静六博士の森づくり」は、博士が明治神宮の森を造成したときの、自然の力を生かした森づくりの考え方を取り入れて県内各地への森の整備を行うものです。 その第1号に旧菖蒲村が選ばれ、平成21年に植栽が行われました。
菖蒲総合支所の前が、ラベンダー苑(ブルーフェスティバル会場)です。
平成28年のあやめ・ラベンダーフルーフェスティバルは、6月5日〜6月26日の間、開催されました。 花菖蒲の見頃は、6月上旬〜中旬、ラベンダーの見頃は6月中旬〜下旬ということです。
ラベンダーは、ラベンダー苑、ラベンダー花壇、しらさぎ公園ラベンダー山の3個所に植栽されており、ラベンダー苑には2600株のラベンダーが植えられています。 訪ねた6月14日の開花情報は「色づきが濃くなりました。週末は見頃になりそうです。辺り一面、ラベンダーのやさしい香りが漂っています。」ということで、見頃には少し早かったようです。
ラベンダー苑から田園地帯の農道を1kmほど進むと菖蒲城趾あやめ園です。 菖蒲城は、康正2年(1456年)に古河公方足利利成が金田式部則綱に命じて築城した城です。 城の竣工が5月5日の菖蒲の節句であったため菖蒲城と命名されました。
菖蒲城趾
天正18年(1590年)小田原征伐の後廃城となり、以後は徳川家康に仕えた内藤正成が栢間陣屋(現在の久喜市菖蒲町下栢間)を構えて5700石を知行し、上級旗本として14代、幕末まで同地を治めました。 明治政府により陣屋は破却されたが、裏門は領内の名主だった三須家に引き取られていましたが、平成10年(1998年)に菖蒲苑の入口に移築されています。
菖蒲城趾あやめ園には、50品種、3万5千株の花菖蒲が植えられています。 今年は花の開花が早く、菖蒲城趾あやめ園の花菖蒲は6月10日頃が見頃だったようで、見頃を少し過ぎていました。 あやめ園の片隅にある大きな合歓木は見頃でした。
合歓木
菖蒲城趾あやめ園にから約800mで、「西願寺」です。 西願寺は、浄土宗の寺院で、鴻巣市の勝願寺の末寺です。 創立は文安年中(1444〜1448年)と伝えられており、本尊は阿弥陀如来です。 この如来形立像は、江戸時代前期の遊行僧である円空上人により作られたいわゆる「円空仏」と呼ばれるものです。
清河寺から100mで「下新堀久伊豆神社」です。 下新堀久伊豆神社本殿は、間口・奥行が2尺8寸の一間社流造という形式で造られています。前面には軒唐破風・千鳥破風を備え、屋根が柿葺で建てられた立派なものです。 彫刻の図柄は、右側が松に尾長鶏、左側が牡丹に唐獅子、背面が竹に虎となっています。脇障子の図柄は、高砂の尉と姥の彫刻で、特に、姥は箒をかつぎ、左褄をとった類例のない奇抜な構図となっています。
西願寺
下新堀久伊豆神社
向拝柱は一木から巻竜を彫り出し、昇降の竜としてそれぞれ左右に配しています。体部によって見え隠れする柱部分は几帳面取りされ、手の込んだ仕上げになっています。 その他の特徴としては、彫刻が羽目板と一体となり柱に小穴で入れる、妻飾りが力士の彫刻で棟木を受け三斗を支える、浜縁が中央に平三斗、左右に三斗組の変形を受けるなど珍しいものがあります。
宝永6年(1709年)の造立を示す棟札の裏書きに「江戸神田かうや町 宮大工清右衛門」の墨書があります。もう一枚の棟札は、文化10年(1813年)に彩色と補修が施されたことをあらわしています。 この本殿は、建造年代が明らかで、埼玉圏内最古の壁面彫刻と向拝柱の巻竜をもつ建物として貴重です。 本殿は建物の中で見ることができませんでした。
あやめ公園
「下新堀久伊豆神社」から400mで「あやめ公園」で、すぐ傍がゴールの「菖蒲仲橋(バス停)」です。 風来坊