散策スポット・北海道東北

散策スポット目次

HOME

前ページ

次ページ

下町情緒溢れる谷根千とアカデミックな東京を歩く (H26.11.14)


西日暮里駅前の道灌山通り



西日暮里駅

JR東日本の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」の「下町情緒溢れる谷根千とアカデミックな東京を歩く」に参加しました。

細部説明は「洗練されながらも懐かしさ残る街並みや、日本を代表する文教施設など、都会的なイメージとはひと味違った駅から俳句(ハイク)をお楽しみください。」です。


コースの概要は次のとおりです。

JR西日暮里駅(受付)富士見坂寛永寺国際子ども図書館上野恩賜公園旧岩崎邸庭園根津神社全正庵谷中銀座商店街よみせ通り商店街開成学園西日暮里駅(ゴール)

歩行距離約8km
歩行時間約2時間(施設での見学時間を除く)
所要時間約3時間(施設での見学時間を含む)

途中であちこち寄り道をしたこともあり、所要時間3時間30分 約16,000歩でした。


西日暮里駅傍の急な坂道



西日暮里公園



西日暮里公園

JR西日暮里駅で受付を済ませ、駅の左手(西側)を左折して、駅に沿った急坂を登ると右手が「西日暮里公園」です。

かつてこの地には、太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたという舟繁松があり、荒川(現隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山陰を望むことができる景勝地として、多くの人々が訪れました。花見寺の一つ青雲寺の境内の一部で、金比羅社なども祀られていました。


明治7年(1974年)、この一帯が旧加賀藩前田家に売却され、同家墓地となりました。

前田家12代当主の斉泰から4代にわたって神式の墓地として使われましたが、昭和47年(1972年)に国許の金沢に改葬され、翌年その跡地に西日暮里公園が開設しました。


西日暮里公園



諏方神社



諏方神社

「西日暮里公園」から100mほど進んだ左手に「諏方神社」があります。

「諏方神社」は信濃国上諏訪社と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀っています。元久2年(1205年)の造営で、江戸時代、3代将軍家光に社領5石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰を集めました。

拝殿の脇には、元禄12年(1699年)銘・元禄14年(1701年)銘の灯籠型の庚申塔が並んで建てられています。



浄光寺


「諏方神社」から100mほど進んだ左手に「浄光寺(雪見寺)」があります。

「浄光寺」は、真言宗豊山派の寺院で、江戸時代までは「諏方神社」の別当でした。

元文2年(1737年)、8代将軍吉宗が鷹狩りの際にお成りになり、元文5年以降御膳所となりました。境内に「将軍腰かけの石」があります。


浄光寺



浄光寺・六地蔵

眺望の優れた、諏訪台地の上にあり、特に雪景色が素晴らしいというので「雪見寺」とも呼ばれました。

「浄光寺」の山門を潜った左手に、高さ約3mの銅造地蔵菩薩があります。

元禄4年(1691年)、空無上人に勧化により江戸6カ所に六地蔵として開眼されたものです。


「浄光寺」の少し先に「富士見坂」の案内板があります。

都内各地に残る「富士見坂」の一つで、2013年6月頃までは富士山を望むことができましたが、現在では高い建物がたくさん建って、富士山は見えなくなっています。

坂下の墓地は「花見寺」と呼ばれた玅隆寺の跡で、「花見坂」「玅隆寺坂」とも呼ばれていました。


富士見坂の案内板



夕やけだんだん



朝倉彫塑館

「富士見坂」から300mほど進んだ右手が「夕やけだんだん」で、その先が「谷中銀座商店街」です。

「谷中銀座商店街」は今回のコースの後半に立ち寄ることになっており、「夕やけだんだん」を右手に見て100mほど進んだ左手が「朝倉彫塑館」です。

「朝倉彫塑館」は、朝倉文夫のアトリエと住居だった建物です。昭和42年(1967年)に故人の遺志により自宅を朝倉彫塑館として公開したものです。昭和61年(1986年)に台東区に移管されました。建物は国の有形文化財に登録されています。



谷中霊園


朝倉彫塑館から200mほど進んだ長安寺の先を左折し、150mほど進むと谷中霊園です。

谷中霊園には徳川15代将軍・徳川慶喜の墓所があります。


谷中霊園の中の四叉路を右折し、桜並木の沿って進み、さらに500mほど進むと「上野桜木」の交差点です。


徳川慶喜墓所



谷中霊園の桜並木



カヤバ珈琲

交差点の右手前が「カヤバ珈琲」で、左手前が「旧吉田屋酒店」です。

「カヤバ珈琲」の建物は、大正5年(1916年)に建築された出桁造りの町家です。

昭和13年(1938年)、この建物で榧場伊之助が「カヤバ珈琲」を創業し、奥様のキミさんと、養女幸子さんが70年年近く店を切り盛りしてきました。

昭和の味と風情そのままの喫茶店は、谷中のシンボルとして、憩いの場、芸術談義の場として、長年親しまれてきましたが、平成18年幸子さんの逝去により閉店しました。

翌年にはキミさんも逝去しました。



旧吉田酒店


平成20年秋に、NPO法人たいとう歴史都市研究会とSCAI THE BATHHOUSEが協力して建物を借受け、平成21年9月に、カヤバ珈琲店を復活再生しました。

改修にあたって、大正町家の柱梁や外観、昭和喫茶の思い出ある看板、椅子、カウンター、食器等を残し、昔の雰囲気を現代的な文脈で読みかえる空間づくりをしています。また、ガラス天井の奧には、大正時代の梁と天井を見ることができます。


旧吉田酒店



旧吉田酒店

「旧吉田屋酒店」は、谷中6丁目で江戸時代から昭和61年(1986年)まで、代々酒屋を営んでいた「吉田屋」の建物を現在地に移築したものです。

明治43年(1910年)に建てられた建物は、腕木より軒桁が張り出している出桁造で、また正面入口には板戸と格子戸の上げ下げで開閉する揚戸が設けられています。

いずれも江戸中期から明治時代の商家建築の特徴を示すものです。


屋内には、秤・漏斗(じょうご)・枡・樽・徳利・宣伝用ポスターや看板など酒類の販売に用いる道具や商いに関する資料を展示しています。
下町風俗資料館付設展示場として一般公開されています。



寛永寺・根本中堂


「上野桜木」交差点を左折し、200mほど進んだ信号のある交差点を右折して100mほど進んだ左手が寛永寺です。

「寛永寺」は、寛永2年(1625年)、徳川幕府の安泰と万民の平和を祈願するため、江戸城の鬼門に当たる上野に慈眼大師天海大僧正によって建立されました。

最盛期には現在の上野公園を中心に広大な寺領を持っていましたが、上野戦争や明治政府の没収などにより、壊滅的な打撃を被りました。


寛永寺



寛永寺

明治12年(1879年)、ようやく寛永寺の復興が認められ、川越喜多院より本地堂を移築し、根本中堂として再建しました。

現在は根本中堂のある本寺をはじめ、開山堂、辯天堂、パゴダ、徳川霊廟、輪王殿などがあり、特に戊辰戦争で焼失を免れた清水観音堂、輪王寺門跡旧本坊表門、徳川将軍霊廟勅額門などの重要文化財は、往時を偲ばせています。


寛永寺の根本中堂から奥に進んだところに、5代将軍綱吉の霊廟勅額門があります。

寛永寺の御霊廟には6名の将軍(4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13家定が埋葬されています。

霊廟の構造は、天海大僧正の指導により天台宗の根本聖典である法華経の思想に基づいて造営されました。 しかし、霊廟は第2次世界大戦の際にほとんどが焼失してしまいました。

現在では勅額門と水盤舎が現存し、また宝塔は難を逃れ往時を偲ぶことができます。


5代将軍綱吉の霊廟勅額門



天璋院篤姫の墓所:掲示されている写真を撮影したもの

霊廟勅額門の奥にある、5代将軍綱吉の霊廟内の、家定の墓所の隣りに「天璋院篤姫の墓所」があります。

天璋院篤姫は、安政3年(1856年)に13代将軍家定の正室として輿入れしました。

入輿から2年後に家定が逝去し、翌年には養父の島津斉彬も逝去しました。

落胆の中、篤姫は14代将軍家茂の補佐をよく務め、また明治維新後は、僅か6歳で徳川家を継いだ6代家達の養育に余生を捧げるなど、明治16年(1883年)に逝去するまで、徳川家のためにその生涯を捧げました。



国際子ども図書館


「寛永寺」から100mほど進んだ三叉路を右折し、100mほど進むと「国際子ども図書館」です。

「国際子ども図書館」は、国立国会図書館の児童書専門図書館です。

児童書や関連書籍の閲覧、複写などのほか、おもてなし会や子供向けイベントも開催しています。

建物は明治39年(1906年)に帝国図書館として建てられた明治期ルネサンス様式の建物を再生・利用しています。


黒田記念館



旧東京音楽学校奏楽堂

「国際子ども図書館」の隣が「黒田記念館」です。

「黒田記念館」は、洋画家黒田清輝(1866~1924年)の遺言により、その遺産によって建てられ、昭和3年(1928年)に竣工し、昭和5年に帝国美術院附属美術研究所として開所しました。

「黒田記念館」では、黒田清輝の油彩画約130点、デッサン約170点、写生帖などを所蔵し、特別室と黒田記念室で展示しています。



上野恩賜公園


「黒田記念館」の傍の交差点を左折すると「上野恩賜公園」です。

「上野恩賜公園」は、明治6年(1873年)の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山とともに日本で初めて指定された公園の一つです。

江戸時代には寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年(1924年)に宮内省を経て東京市に下賜されたため「恩賜」の名称がついています。


上野動物園



上野大仏

公園内には様々な神社仏閣や、日本を代表する美術館、博物館、劇場などの文化施設、動物園、野球場やボート場などがあり見所の多い公園です。

今回は、旧東京音楽学校奏楽堂、大噴水、清水観音堂を経て、不忍池へと進みました。



清水観音堂


清水観音堂は、京都東山の清水寺を模した舞台造りのお堂で、寛永8年(1631年)に天海大僧正により建立されました。

また、御本尊も清水寺より恵心僧都作の千手観音像を迎え秘仏としてお祀りしています。


清水観音堂



不忍池辯天堂



不忍池辯天堂



不忍池辯天堂

清水観音堂の傍の階段を降りると不忍池で、真っ直ぐ進むと不忍池辯天堂です。

不忍池辯天堂は、天海大僧正が琵琶湖竹生島になぞらえて、寛永年間に不忍池に中之島を築き、その地に建立しました。現在のお堂は昭和33年(1953年)に再建したものです。

御本尊の八臂大辯財天も、竹生島の宝厳寺から勧請したものです。



不忍池桜並木


辯天堂から不忍池の中道を通り、「不忍池西」交差点を横切り50mほど進んだ四叉路を左折して100mほど進んだ右手が「旧岩崎邸庭園」です。


不忍池



旧岩崎邸洋館



旧岩崎邸洋館

旧岩崎邸は明治29年(1800年)に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられました。英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたもので、現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。



旧岩崎邸洋館


木造2階建・地下室付きの洋館は、本格的なヨーロッパ式邸宅で近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。

館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせています。


旧岩崎邸洋館



旧岩崎邸撞球室

別棟として建つコンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りの木造建築で、洋館から地下道でつながっています。


洋館と結合された和館は書院造りを基調にされていて、広間には、橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる日本画などが残っています。

現存する広間を中心に巧緻を極めた当時の純和風建築を垣間見ることができます。


大名庭園を一部踏襲する広大な庭は、建築様式と同時に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しています。


旧岩崎邸和館



根津神社



根津神社

「旧岩崎邸庭園」から「不忍池西」交差点に戻り、左折して不忍通りに沿って1.3Kmほど進んだ「根津神社入口」の交差点を左折して100mほど進んだ右手が「根津神社」です。

根津神社は今から1900年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社です。

宝永3年(1706年)に建てられた社殿は、本殿、幣殿、拝殿を一体とする権現造りの傑作とされ、国の重要文化財に指定されています。



根津神社


境内にある約2000坪のつつじ苑には、約100種3000株のツツジが咲き競い、甘酒茶屋、植木市、露店等もたくさん並びます。

見頃は4月中旬から下旬です。

種類が非常に多く、開花時期が異なるため、早咲きから遅咲きへと花が移り変わり、長い期間様々なツツジを楽しむことができます。


根津神社



全正庵



山岡鉄舟墓所

根津神社の裏手に出て、「根津神社北口」の信号を右折し、100mほど進んだ「千駄木2丁目」の交差点を左折すると不忍通りに戻ります。

不忍通りにそって400mほど進んだ「団子坂下」の交差点を右折して、300mほど進んだ左手が「全正庵」です。



山岡鉄舟居士之賛


三遊亭圓朝翁碑


「全正庵」は明治の政治家・思想家である山岡鉄舟が、明治16年(1883年)に明治維新で殉じた人々を弔うために建立しました。

落語家の三遊亭圓朝の墓所があり、毎年8月の谷中圓朝まつりでは住職による法要の後に、落語が奉納され、また圓朝が怪談創作の参考に収集した幽霊画30~40種が一般に公開されます。

童謡「しかられて」で知られる、作曲家・弘田龍太郎の墓所もあります。


三遊亭圓朝の墓所



弘田龍太郎墓所


しかられて曲碑



岡倉天心記念公園



岡倉天心記念公園

「全正庵」から100m程度戻り、右折して谷中小学校とは反対方向に300mほど進むと右手に「岡倉天心記念公園」があります。

「岡倉天心記念公園」は、横山大観らと日本美術院を創設し、日本の伝統美術の復興に努力した岡倉天心の邸宅兼日本美術院跡に台東区が作った公園で、昭和42年(1967年)に開園しました。

約700平方メートルの小さな公園です。園内には岡倉天心を記念した六角堂が建ち、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されています。



夕やけだんだん



谷中銀座商店街


「岡倉天心記念公園」から道なりに200mほど進むと左側が「谷中銀座商店街」です。

「谷中銀座商店街」は、夕やけだんだんからよみせ通りの間の商店街です。商店街には昔ながらの個人商店を中心に、様々な業種の約70店舗が全長170mほどの短い通りの両側に密度濃く建ち並びます。


谷中銀座商店街



谷中銀座商店街

お店とお客様のコミュニケーションには、谷中界隈で今でも続く昔ながらの近所つきあいを根底とした心地良さがあるとのことです。飾らない接客でお客様との距離が近い下町情緒溢れる商店街です。

このため、ドラマやバラエティー番組などでよく取り上げられており、日本全国はもとより世界各地からの観光に来られる方が多いとのことです。

平日に訪ねたため比較的空いていましたが、土・日は大変な混雑とのことです。



よみせ通り商店街


夕やけだんだんから谷中銀座商店街を通り抜けた左右の通りが「よみせ通り商店街」です。

駒込染井から不忍池まで流れていた藍染川が、大正9年(1920年)に暗渠化され、商店街となりました。

道幅8mの立派な通りで、時代の流れとともに住人も多くなると、色々なお店が調い、朝市が立ち、生活必需品が全て揃った便利な活気溢れる買い物通りとなりました。特に午後からは両側500mにわたり、露店が軒を並べて客を呼び、夕暮れ頃から大道芸人の口上に人垣ができるなど大変な賑わいを見せたことから「夜店通り」との名前がつきました。

車の通行量が多くなり、渋滞が激しいことから、通行人の安全を確保するため露店は禁止になりました。


よみせ通り商店街



開成学園

「谷中銀座商店街」を出て右折し、「よみせ通り商店街」を300mほど進んだ信号のある交差点を右折して200mほど進んだ左手が「開成学園」です。

「開成学園」は、中学・高校がある私立の男子校です。

明治4年(1871年)、幕末の進歩的な知識人であった佐野鼎が「共立学校」として創立し、初代校長には高橋是清が就任しました。



道灌山通り 右手が開成学園


明治23年(1890年)に「東京開成中学校」に改名、校名は中国の古典「易経」に出てくる「開物成務」に由来し、「人間性を開拓、啓発し、人としての務めをなす」という意味です。また、校章は「ベンケン」の愛称で親しまれ、「ペンは剣よりも強し」を図案化した物です。

東京大学入学者数全国一を誇る名門校で、今回の駅からハイキングのプロデュースをしました。


            風来坊


道灌山通りの西日暮里駅


目次  TOP  HOME