散策スポット・北海道東北

散策スポット目次

HOME

前ページ

次ページ

第55回東京龍馬会史跡探訪 (H26.10.25)


榎本武揚像



受付の準備をする幹事の方々

東京龍馬会の第55回史跡探訪に参加しました。

今回のテーマは、『榎本武揚と勝海舟の暮らした隅田川沿いを歩く』です。

今回の史跡探訪のコースは次のとおりです。

鐘ヶ淵駅西改札(受付)→梅若公園→木母寺→隅田川神社→セイコーミュージアム→白髭神社→はとの町→言問団子・長命寺・桜橋→牛島神社→墨田公園→墨田区役所(解散)


受付開始時刻の12時過ぎに鐘ヶ淵駅に到着し、受付で会費を支払うと名札と今回の史跡探訪の資料が渡されました。

史跡探訪の資料は、東京龍馬会の幹事の方によって作成されたものですが、市販の資料よりもずっと詳しいもので、このレポートでも配布された資料から一部抜粋させていただいております。


徐々に参加者が集合しています



梅若公園に向けて出発です



梅若公園に向けて出発です

東京龍馬会佐藤会長代行の挨拶の後、史跡探訪が開始になりました。

鐘ヶ淵駅から北西方向に200mほど進んだ「鐘ヶ淵陸橋」交差点を左折して100mほど進んだ右手が梅若公園です。

墨堤通りに面した小さな梅若公園には、榎本武揚の銅像があります。

ここは元来、木母寺や梅若塚のあった緑濃い一角だったのですが、東京都の防災拠点建設の改造事業により移転し、榎本武揚の銅像のみが取り残された形となりました。



榎本武揚像


榎本武揚の銅像は、大正2年(1913年)5月に木母寺の旧境内である現在地に建てられました。

高さ約7m(台座を含む)の銅像は、江原素六ら建設委員を中心に、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一など政財界の代表的な人物の協力のもとに建立されました。

原型作者は田中親光と藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎です。中でも藤田文蔵は洋風彫刻界の先覚者として位置づけられる人物で、代表作に陸奥宗光(外務省)や井伊直弼像(横浜掃部山公園)などがあります。


榎本武揚像



熱心に説明を聞く参加者



梅若塚

榎本武揚は江戸幕府瓦解の時、軍艦8隻を率いて北海道に逃れ、独自の共和国建設を夢見て官軍に抵抗し敗れました。後に許されて明治政府の逓信・文部・外務大臣を歴任し子爵に列せられました。

晩年は向島に在住し、墨堤で馬を走らせる姿が時々見かけられたということです。


向島に在住した関係から、牛嶋学校の扁額や墨堤植桜之碑の篆額などを揮毫しました。



東京都の防災拠点建設関連ビル


梅若公園からビルの裏手(墨堤通りの反対側)に出たところに、木母寺があります。

木母寺は中世の「梅若伝説」ゆかりの寺で開基は古く、平安時代の中頃とされています。

平安中期、吉田少将惟房の子「梅若丸」が人買いにかどわかされ、関東に下る途中病気になり、隅田川のほとりで
「たずね来て とわばこたえよ みやこどり すみだ河原の露と消えぬと」
の一首を残し、十二歳で世を去りました。


来あわせた天台宗の高僧忠円阿闍梨が梅若のために塚を築き柳の木を植えて供養したと伝えられています。

この悲話は 謡曲「隅田川」、浄瑠璃「隅田川」、長唄などにうたわれ、また、戯作や小説にもなって多く人の涙を誘いました。

境内には梅若塚をはじめ石碑も多く、浄瑠璃塚や歌曲「隅田川」の碑などがあります。


古くは梅若寺といい、墨田院とも称しました。天正18年(1590年)徳川家康によって、梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、慶長12年(1607年)には前関白近藤信伊が参詣の折、柳の枝を折って「梅」の字を分け「木母寺」として、以来寺号としたと伝えられています。

明治維新の廃仏毀釈により廃寺となり梅若神社となっていましたが、明治21年(1888年)光円僧正の努力により仏寺として再興されました。

かつては墨堤通りに面していましたが、東京都の防災拠点建設工事により昭和51年(1976年)梅若塚・碑林ともども隅田川寄りに160mほどの現在地に移転しました。


天下之糸兵の碑



三遊塚

境内にある「天下之糸平の碑」は高さ5m、幅3mを超す都内一の巨碑です。

明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸兵)の石碑です。

また、「三遊塚」は三遊亭円朝が先師初代円生追福のため明治22年(1889年)に建てた碑です。「幕末の三舟」と言われた山岡鉄舟の揮毫、高橋泥舟の筆になる碑です。



隅田川神社



隅田川神社


「木母寺」から隅田川に沿って下流(南西方向)に200mほど進と「隅田川神社」です。

治承4年(1180年)石橋山の初戦に大敗し、房総半島に落ちていた源頼朝は、兵を整え3万の大軍を結集して、下総の国府(市川市国府台)まで攻め上がってきました。

しかし、隅田川西岸を治める江戸重長が武蔵入国を拒んでいました。

頼朝は、太井川(現江戸川)、隅田川を渡って重長が支配する墨田宿に入りました。


隅田川神社



左右は狛犬ではなく石亀です 小さく写っています



狛犬ではなく石亀です


狛犬ではなく石亀です



隅田川神社



隅田川神社の説明をする代表幹事

頼朝はその時、船を並べて浮き橋を架け隅田川を渡りました。

その折、隅田川の水神の霊に感謝し、社殿を造営した、あるいは大亀に乗った水神を目撃しその霊感に感じて建立したなどの諸説があります。

隅田川神社は、隅田川流域の総鎮守となり、水神宮と呼ばれていました。

祭神は、速秋津比古神(はやあきつひこのかみ)です。

水の神様らしく境内には、狛犬の代わりに石亀が置かれ、船の錨など、水や川、船に関するものが多く祀られています。



機械時計



塔時計


隅田川神社から東白髭公園に沿って500mほど進と明治通りにぶつかります。

左折して50mほど進んだ「白髭橋東詰」を右折して、墨堤通りに沿って50mほど進んだ左手が「セイコーミュージアム」です。

「セイコーミュージアム(旧セイコー時計資料館)」は、時と時計の研究資料の収集・保存を主たる目的として1981年に設立されました。

その後2012年4月に、より幅広い方々への情報発信を行うことを目的として大幅拡充して、現在に至っています。


赤道型(こま型)日時計 中国清時代



垂直型日時計


日時計 朝鮮



香盤時計 江戸時代



線香時計 江戸時代

1階フロアーでは「時と時計の進化」について展示されています。

古代の日時計から始まり水、火、砂、機械式時計そしてクオーツ時計と発展してきた時を計る道具の進化が展示されています。

また、「スポーツ計時体験コーナー」では、国内海外の大会で活躍した機材が展示されています。水泳用タッチ板を実際に動かして計時体験することもできます。



和時計コレクション


2階フロアーでは、セイコー創業の精神と創業者の生涯をパネルや映像で紹介しています。

また、セイコーの歴史と各時代を代表するウォッチ・クロック主要製品を展示するとともに、一般公開していなかった日本で有数の和時計コレクションも展示されています。


和時計コレクション



和時計コレクション 藩主の使用していた貴重品

日本で有数の和時計コレクションは、専用の空調ルームで展示されています。

和時計は、16世紀にヨーロッパから渡来した定時法の機械式時計をもとに独自の機構を組み合わせることで、不定時法に対応した珍しい時計です。

また、同時に錦絵も展示されています。



和時計コレクション



福沢諭吉の著書


3階では、時と時計に関する約7000点の文献資料を見ることができます。

また、ミュージアムショップでは、セイコーウォッチ・クロックの最新ラインアップのほか、絵はがきや砂時計・携帯用日時計などのオリジナルアイテムが販売されています。

今回の目玉は、福沢諭吉の著書でした。


福沢諭吉の著書



白髭神社



白髭神社

「セイコーミュージアム」から墨堤通りを南方向に200mほど進と「白髭神社」です。

白鬚神社は天歴5年(951年)創建された、向島では最も古い由緒ある神社の一つです。社伝に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の分霊をここに祭ったと記録されています。

現在の社殿は元治元年(1864年)の造営です。


江戸時代の町人文化が全盛の時期、百花園に集まって風流を楽しんでいた文人たちが、隅田川の東岸で初春の七福神詣を始めようとしたとき、どうしても近隣の神社に寿老人が見つからない。

そこで機智を働かせて、往時の寺島村の鎮守の白鬚大明神は、白いお鬚の御老体であろうから、まさに寿老神としてたたえるのにふさわしいということになり、めでたく七福神が誕生しました。

寿老神は、人々の安全と健康とを守る長寿の神として崇敬されています。


白髭神社



岩瀬鴎所の墓碑

境内には多くの石碑があり、社殿のすぐ左手には加藤千蔭筆の白鬚神社縁起碑、参道脇にまとめられた碑には、墨多三絶の碑などがあります。

また、幕末の幕臣で、外国奉行だった岩瀬鴎所の供養碑もあります。

日米通商条約等で活躍した人ですが、将軍の跡継ぎ問題のため安政の大獄で退けられ、向島で晩年を過しました。

永井荷風の母方の祖父で、明治の顕官として活控した鷲津毅堂の碑もあります。


「白髭神社」から墨堤通りを500mほど進んだ「向島高速道路入口」交差点を左折し、30mほど進んだ変則四叉路を右折すると「鳩の町通り商店街」です。

鳩の街通り商店街は、昭和3年に設立された寺島商栄会から続く、約80年の歴史を持つ古い商店街です。

東京大空襲をまぬがれたために、通りの道幅は戦前のままです。


喫茶店こぐま



榎本武揚旧居跡



説明者は榎本武揚玄孫です

昭和初期の木造建築物が残っていますが、商店街は歯の抜けたところもありやや寂しいですが、歴史ある街を見直そうという動きも活発のようです。

古い商店を再生した喫茶店こぐまもその一つです。

昭和2年築の木造長屋のカフェで、戦前から薬局だった造りをそのまま活かしたノスタルジックな空間が特徴です。

店内には昔からの薬棚を活用した棚ギャラリーやブックコーナーがあり、喫茶を楽しみながらのんびりとくつろぐことができるとのことです。


喫茶店こぐまから150mほど進んだ四叉路を右折し、細い路地を150mほど進と右手にライオンズマンションがあります。

ここが榎本武揚旧居跡です。
榎本武揚は、戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄されました。

この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓しに出仕しました。明治7年(1874年)に中露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約締結しました。その後、海軍卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大臣などを歴任しました。

明治38年(1905年)から、73歳で没する明治41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたといわれています。


榎本さんから紹介された本



隅田公園少年野球場



言問団子

ライオンズマンションから路地を道なりに100mほど進むと墨堤通りです。

左折して墨堤通りを200mほど進むと「墨田区少年野球場前」交差点です。交差点の右手前が「隅田公園少年野球場」です。

この少年野球場は、昭和24年(1949年)戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子供達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。

以来数多くの少年球児がこの休場から巣立っていきましたが、日本が誇る世界のホームラン王、王貞治選手もこの球場で育った一人です。

入口の門柱には一本足打法の王選手のレリーフが飾られています。



東京スカイツリーと十月桜


隅田少年野球場の隣りに、江戸時代から続く老舗の「言問団子」の店があります。

厳選した最高級の素材を丁寧に豆から煮上げ、すべて手作りの味は150年以上変わらぬ味だそうです。

新粉餅を小倉餡でくるんだ茶、白餡でくるんだ白、味噌餡を求肥でくるんだ黄の3食の団子です。

銘菓や橋の名にもなっている言問は、平安の歌人、在原業平の「名にしおはば いざ言問はむ 都鳥 我が思う人は ありやなしやと」からとっているとのことです。


十月



墨堤植桜之碑

言問団子の店の墨堤通りの反対側に小さな公園があり、「墨堤植桜之碑」が建っています。

江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の東白鬚公園傍の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。

しかし、1800年代から地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸していきました。


墨堤の桜が長命寺、三囲神社へと徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年頃といわれています。

この間は、地元有志の植桜だけでなく、有志が発起人となった「勧進桜」と呼ばれる寄付が行われていました。

墨堤植桜之碑にはこうした状況が刻まれています。

墨堤植桜之碑の篆額は榎本武揚の揮毫です。



長命寺桜もち



正岡子規仮寓の地

公園の先に「長命寺桜もち」の店があります。

「長命寺の桜もち」は、亨保2年(1717年)に初代が桜の葉の塩漬けを使った桜もちを考案し、長命寺の前で商ったのが始まりです。

正岡子規も愛したという桜もちは、桜葉を1枚ではなく、2〜3枚巻いてあるのが特徴で、食べずにその香りを楽しむのが「通」とのことです。

「長命寺の桜もち」の店の傍の階段を下りたところが長命寺ですが、この日は閉門していました。


「長命寺の桜もち」の傍に「正岡子規仮寓の地」の案内板があります。

向島周辺の景色を好んだ正岡子規は、大学予備門の学生だった時代に、長命寺桜もちの2階を3ヶ月ほど借りて滞在したとのことです。

「長命寺の桜もち」から墨堤通りに沿って200mほど進み、階段を登って墨堤通りを横切ると「桜橋」です。


桜橋



桜橋からの展望



桜橋からの展望



隅田川の桜並木

桜橋は、1985年に完成した隅田川唯一の歩行者専用の橋です。

桜橋は隅田川両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持っています。

形状は平面のX字型の特異な形をしている美しい橋で、周辺との景観を考慮して色彩や素材に工夫が図られています。

花見のシーズンには両岸の桜を楽しむために多くの人がこの橋を渡ります。

この橋の上から眺める隅田川の桜は絶景ですが、今日では東京スカイツリーを身近に眺めることのできるスポットでもあります。

桜橋から隅田川沿いの桜並木に沿って進み、言問橋の下を通過した先を左折すると「隅田公園」です。

隅田公園は隅田川沿いにある公園で、右岸の台東区浅草、花川戸、左岸の墨田区向島にまたがる公園です。


隅田川の桜並木



隅田川の桜並木

関東大震災の避難場所が少なく、被害を大きくしたという反省から、東京市内に数ヶ所の火除地を設置する計画が進められ、その一環として名勝史跡の墨堤を復興整備して隅田公園が設置されました。

大正14年6月着工、昭和6年3月完成という6年近くをかけた大工事で、美しい日本庭園をもつ旧水戸藩下屋敷を含み、桜並木も整然とした近代的な公園です。

隅田公園の「言問橋東交差点」の近くに牛島神社があります。



牛嶋神社



牛嶋神社


牛嶋神社は、本殿前に狛犬の代わりに狛牛があるのが特長です。

神社の名前は、両国・向島の本所一帯が天武天皇の時代(701年〜764年)に国営牧場が設けられ牛嶋といわれていたことに由来しています。

創建は、貞観年間(859年〜877年)に慈覚大師が須佐之男命を郷土の守護神として迎えたのが始まりといわれています。

その後平安末期に、源頼朝が房州千葉から挙兵して隅田川を渡ろうとしましたが、豪雨直後で水位が高く渡ることができなかったときに、千葉胤常が近くにあった牛島神社に祈願したところ、無事渡ることができたという。


撫で牛



撫で牛

この時の功徳に感謝して、頼朝は神社に多くの土地を寄進したといわれています。

その後も北条氏や江戸時代には江戸城の鬼門守護の社として幕府から寄進を受け、本所地区の総鎮守にもなっていました。


牛島神社は「牛御前社」とも呼ばれていますが、これは天文年間(1532年〜52年)からです。

境内には「撫で牛」があり、体の悪い部分を撫で、次に牛の同じ部分を撫でると、病気が治るといわれています。

体だけでなく、心の病にも効き目があり、また子供が産まれた時は「撫で牛」に涎かけを奉納し、その涎かけを子供にかけると健康に育つともいわれています。


隅田公園水戸邸跡由来記



隅田公園からの東京スカイツリー

昭和7年,関東大震災後の隅田公園の建設により,桜橋近くの隅田川東岸(墨堤常夜燈のある場所)にあったのを公園の北側に移されました。

昭和20年の東京大空襲により神楽殿は焼けましたが,本堂はじめその他の建物は一部被害を受けたものの無事で,昭和7年に移転して以来のものです。

正面の鳥居は珍しい三輪鳥居です。


隅田公園には、水戸藩邸跡、明治天皇碑、藤田東湖碑、東郷平八郎碑などがあります。

隅田公園を西方向に進み、「枕橋」を渡って右折すると墨田区役所があり、その傍に「勝海舟の銅像」があります。


藤田東湖碑



勝海舟象



アサヒビール本社ビルと東京スカイツリー

勝海舟は文政6年(1823年)江戸本所滝沢町で生まれ、明治32年(1899年)赤坂の氷川邸で逝去しました。

勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的活動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。

西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城を取り決めた勝海舟は、江戸を戦禍から救いました。

この勝海舟の銅像は、勝海舟生誕180年を記念して「勝海舟の銅像を建てる会」が募金活動を経て2003年7月に建立し、7月21日の海の日に墨田区に寄贈されたものです。

また、すぐ隣にある墨田区役所内1階には、勝海舟関連の展示コーナーがあり、その功績を詳しく知ることができます。

勝海舟銅像前で、今回の史跡探訪は終了し、引き続き希望者で懇親会が開催されました。



関連のホームページ

 東京龍馬会




           風来坊


最後の挨拶をする佐藤会長代行


目次  TOP  HOME