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新春・富士の面影を感じる町ナカ散歩 (H26.1.26)


池袋駅東口



池袋駅西口(受付)

JR東日本の「駅からハイキング」のイベント「新春・富士の面影を感じる町ナカ散歩」に参加しました。

細部説明は「『音羽の富士』の護国寺、『駒込の富士』の富士神社、富士見坂など『富士』にゆかりのある場所を巡るコースです」となっています。


コースの概要は次のとおりです。

JR池袋駅(受付)→雑司ヶ谷鬼子母神堂→雑司ヶ谷案内処→護国寺→富士見坂→空蝉橋→高岩寺‘とげぬき地蔵尊)→駒込富士神社→六義園→JR駒込駅南口(ゴール)


えんちゃんファミリー



南池袋東通り商店会

コースの歩行距離は約9.8km、歩行時間約2時間30分(施設での見学時間等を除く)、所要時間約3時間30分(施設での見学時間を含む)です。

散策スポットはこれまで訪ねたことのある場所だったため、散策スポットでの所要時間が短く、所要時間2時間40分、約14,000歩でした。


「池袋駅東口」交差点から明治通りに沿って南方向に300mほど進んだ「南池袋1丁目」の信号を左折すると「南池袋東通り商店会」です。

200mほど進んだ商店街の切れ目を右折し、細い路地を右に左に500mほど進んだところが「雑司ヶ谷鬼子母神堂」です。


左側が墓地の細い路地を進みます



雑司ヶ谷鬼子母神堂



雑司ヶ谷鬼子母神

鬼子母神堂は、安産、子育てにご利益のある鬼子母神をお祀りするお堂です。

もともとは多くの子供を持つインドの神様ですが、近所の幼児を捕って食べるため、見かねたお釈迦様が一番末の子供を隠したところ嘆き悲しんで、今までの過ちを悔い、安産・子育ての神様になったといういわれがあります。

鬼子母神堂は、安産・子育(こやす)の神様である鬼子母神をお祀りするお堂です。

鬼子母神は安産・子育の神様として広く信仰の対象となっていますが、もともとの来歴には深いいわれがあります。


現在のお堂は、本殿が寛文4年(1664年)に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。

昭和35年に東京都有形文化財の指定を受け、昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われました。


雑司ヶ谷鬼子母神・武芳稲荷



雑司ヶ谷案内処

「雑司ヶ谷鬼子母神堂」から反対方向にでて、イチョウ並木を進むと左手に「雑司ヶ谷案内処」があります。

地元の観光情報を提供するほか、郷土玩具の「すすきみみずく」なども展示販売しています。2回は地域ゆかりの絵画や写真を展示するギャラリーになっています。

案内処の裏手ある「並木ハウス」は手塚治虫が住んでいた家です。ギャラリーには手塚治虫が描いた「並木ハウス2階のわが住まい」の漫画も展示されています。


「雑司ヶ谷案内処」から都電荒川線「鬼子母神前」停留所の傍で都電荒川線を横切り、道なりに200mほど進んだ「高田1丁目」の交差点を左折すると「目白通り」です。

「目白通り」に沿って300mほど進んだ「目白台2丁目」の交差点を左折すると「不忍通り」です。

「不忍通り」に沿って700mほど進んだ左手が「護国寺」です。


都電荒川線・鬼子母神前停留所



護国寺



護国寺

天和元年(1681年)5代将軍徳川綱吉が、生母桂昌院の願いにより創建した祈願寺で、

本尊は如意輪観音です。

後には将軍家の武運長久を祈る祈願寺となりました。

元禄時代の本堂、昭和3年に移築された月光殿は、ともに国の重要文化財に指定されています。



護国寺


護国寺は幕府の祈願寺で、檀家を持たなかったため、明治維新後は後ろ盾を失い、経済的な苦境に陥りました。境内地5万坪のうち、東側の2万5千坪は宮家の墓所(豊島岡墓地)が造られました。これは明治6年(1873年)の明治天皇の第一皇子稚瑞照彦尊の薨去(死産)を機に、護国寺境内の東半分が皇族墓地とされたものです。

また、西側の5千坪は陸軍用墓地となり、境内は2万坪ほどに縮小しました。

明治期以降徳川家との関係が絶たれたことから、一般人の墓所を造成し、三条実美、山県有朋、田中光顕、大隈重信などが眠っています。


護国寺



護国寺


護国寺



富士見坂



富士見坂

護国寺から「大塚3丁目交差点」までの不忍通りは緩やかな上り坂になっており、「大塚3丁目交差点」は標高28.9mで、文京区内の幹線道路では最高地点です。

見晴らしの良い高台からはかつて富士山がよく眺められたため「富士見坂」と呼ばれています。

現在でも、晴れた日にはビルの合間から富士山を眺めることができるとのことですが、この日の富士山は生憎雲の中でした。


「大塚3丁目交差点」を左折し「春日通り」に沿って400mほど進んだ「大塚5丁目」の交差点を「春日通り」に沿って斜め左方向に進みます。

400mほど進んだ「向原交差点」を右折して300mほど進むと「空蝉橋」です。


大塚5丁目交差点 斜め左方向へ



向原交差点 都電を横切って右折です

大塚駅の旧貨物駅近くには出世稲荷があり、見事な松が生えていました。神社を訪れた絵描きや歌詠みに、いつからか「空蝉の松」と呼ばれるようになったとのことです。

明治36年(1903年)秋、鉄道敷設に伴う切り通し開削の際に、松は枯れてしまいましたが、そこにかけられた橋を「空蝉橋」と名付けられました。「空蝉橋」は東京スカイツリーを眺めることができるスポットです。



空蝉橋からの展望 左下は大塚駅


「空蝉橋」を渡り400mほど進んだ「空蝉橋下」の交差点で、幅の広い道路を横切って細い路地を50mほど進むと都電荒川線の巣鴨新田停留所です。

荒川線を横切って「文京高校」沿いの路地を進み、信号のある四叉路から100mほど進んだ信号のない四叉路を左折して200mほど進むと左側に大塚ろう学校があります。

そのまま道なりに100mほど進むと「巣鴨地蔵通り商店街」です。


都電荒川線巣鴨新田停留所



細い路地を進みます


細い路地を進みます



巣鴨地蔵通り商店街



巣鴨地蔵通り商店街

「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる巣鴨地蔵通りは、旧中山道であり、江戸の中期から現在にいたるまで、商業や信仰の場として栄えてきました。

巣鴨地蔵通りは江戸時代、中山道の出発地点日本橋から出発して最初の休憩所、江戸六地蔵尊の眞性寺から巣鴨庚申塚の間に点在し、町並みが作られました。

そして、明治24年(1891年)には、とげぬき地蔵尊の高岩寺が上野から巣鴨へ移転し、現在の巣鴨地蔵通りは「とげぬき地蔵尊」と「江戸六地蔵尊」の2つのお地蔵様と巣鴨庚申塚に守られて、商業の街・信仰の街としてお年寄りを中心に若い方々にも親しまれています。



高岩寺(とげぬき地蔵尊)


巣鴨地蔵通りは全長780mあり、約200店舗が建ち並んでいます。

丁字路を右折して「巣鴨地蔵通り商店街」を200mほど進んだ左手が「高岩寺(とげぬき地蔵尊)」です。

曹洞宗萬頂山高岩寺は「とげぬき地蔵尊」の名前で親しまれています。

高岩寺は、慶長元年(1596年)に湯島に開かれ、約60年後に下谷屏風坂に移り、巣鴨には明治24年(1891年)に移転してきました。


高岩寺(とげぬき地蔵尊)



高岩寺(とげぬき地蔵尊)

ご本尊は「とげぬき地蔵」として霊験あらたかな延命地蔵菩薩です。

高岩寺の地蔵菩薩は秘仏ですので残念ながら拝見することはできませんが、そのお姿を元に作られた御影に祈願してもご利益があるとされています。

とげぬき地蔵尊御影は、縦4センチ横15センチの和紙の中央に尊像が描かれています。

痛いところに張ったり、喉に骨が刺さった時に飲んだりすると治るといわれ、高岩寺本堂で授与しています。



眞性寺


「巣鴨地蔵通り商店街」の一番巣鴨駅よりに、江戸六地蔵の一つとして知られる「眞性寺」があります。

「眞性寺」は真言宗豊山派に属しており、奈良県の桜井市初瀬の総本山長谷寺の末寺です。開基は不明分ですが、聖武天皇(在位724年〜749年)勅願で、行基菩薩が開いたと伝えられています。

境内の左手に、高さ2m68cm、蓮花台を含めると3m45cmの大きなお地蔵様が、蓮座に趺座しています。

このお地蔵様が、江戸6街道の出入口に置かれ、旅の安全を見守る「江戸六地蔵尊」の一つで、中山道を見守っています。眞性寺の地蔵尊は4番目に造られ、完成したのは正徳4年(1714年)です。


六地蔵



駒込富士神社



駒込富士神社

「眞性寺」から白山通りに沿って800mほど進んだ「千石1丁目」の交差点を左折し、不忍通りに沿って500ほど進んだ「上富士前」の交差点を右折して本郷通りを300mほど進むと「富士神社入口」の交差点です。

この交差点を左折すると左手に「駒込富士神社」があります。


「駒込富士神社」は、本郷村の名主が天正元年(1573年)、現在の東京大学の敷地に駿河の富士浅間神社を勧請したのが始まりです。

寛永5年(1628年)に加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、富士浅間神社は現在地に移されました。

拝殿は富士山に見立てた山の上にあり、江戸期の富士信仰の拠点の一つとなりました。

一説には、この塚は前方後円の古墳といわれています。


駒込富士神社



駒込富士神社

初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があったこと、駒込茄子が名産物であったことに由来しています。

「駒込は一富士二鷹三茄子」と当時の縁起物として川柳に詠まれました。

6月末から7月はじめの山開きには、夜店が出て賑わいを見せます。



六義園


「駒込富士神社」から本郷通りに戻り、右折して先ほど来た道を戻り、「富士神社入口」の交差点の次の露地を左折して100mほど進むと、右手が「六義園」です。

「六義園」は、元禄8年(1695年)、5代将軍徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が下屋敷に自ら設計し、7年かけて築いた回遊式築山泉水庭園です。小石川後楽園とともに江戸の2大庭園と呼ばれています。

明治時代に三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の所有地となり、昭和13年(1938年)に東京市に寄付され、一般公開されました。

国の特別名勝に指定されています。


六義園



六義園

六義園から本郷通りに戻り、左折して300mほど進んだ右手がJR駒込駅(ゴール)です。



       風来坊


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