散策スポット・北海道東北

散策スポット目次

HOME

前ページ

次ページ

福岡・佐賀の旅 その3  (H26.5.17〜5.19)


嬉野温泉の遊歩道



嬉野温泉の遊歩道



嬉野温泉の遊歩道

今回宿泊した大正屋「湯宿 清流」は、歴史ある嬉野温泉の中では新しい部類に入るとのことです。

しかしながら、系列の大正屋と椎葉山荘で長年にわたって築き、磨き上げてきたサービスを提供しているとのことで、「日本三大美肌の湯」として知られる嬉野温泉に浸りながらゆっくり宿泊することができました。

嬉野温泉では塩田川に沿って遊歩道が設けられており、3日目の出発前に散歩をしてみました。

新緑に囲まれた遊歩道は気分爽快でした。



轟の滝公園


3日目は嬉野温泉から3台のレンタカーに分乗して、佐賀から観光名所を巡りながら、福岡空港へ戻りました。

最初に訪ねたのが、嬉野温泉の「轟の滝公園」です。

轟の滝は、約2500万年前の畑津頁岩層という堆積岩が広がる台地の上に数百万年前頃から始まった火山活動によってできた滝です。


轟の滝公園



轟の滝公園



轟の滝公園



轟の滝公園

火山活動によって不動山の虚空蔵山を形成したり、堆積岩を貫いた岩石流により段差が生じたり、川の浸食により軟らかい堆積岩は削り取られたりして、現在のような滝の景観を作り出したものです。

滝の高さは11m、滝壺の面積は2500平方メートル、平坦部にできた珍しい滝で、滝を作る岩は溶岩が冷えたもので、その上流にも広く露出している。

滝下の川底には、削られた2500万年前の堆積岩が広く分布しています。



轟の滝公園



轟の滝公園


不動明王尊は、昭和19年に鎖国国家、平和、武運、災難厄除などを祈念し吉田大定寺住職平瀬泰応和尚ほか、町内有志数人の発起により建立されたものです。

老朽化や破損がひどくなったため、平成5年に修復されたものです。


轟の滝公園



轟の滝公園



轟の滝公園



轟の滝公園

現在では、家内安全をはじめ身体健全、病気平癒、交通安全など事故や厄除けのお不動さんとしてお参りされています。

修復再興を契機に毎年4月29日に不動まつり祈願法要が開催されています。

滝の周囲は「轟の滝公園」として整備され、滝の周囲を一周することができます。



一面の麦畑


嬉野温泉から高速道路・長崎道に乗り、快適なドライブの後「東背振IC」で高速道路を降りて「吉野ヶ里歴史公園」を訪ねました。

高速道路から見える麦畑は収穫間近で、黄色に輝いていました。


麦畑



吉野ヶ里遺跡



吉野ヶ里遺跡



吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里遺跡

紀元前3世紀から紀元後3世紀までの弥生時代は、日本で稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた日本の文化の原点ともいえる時代です。

弥生時代の遺跡の中でも吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の旧神埼町・旧三田川町・旧東脊振村の3つの町村にまたがった我が国最大の遺跡で、弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代600年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっています。



吉野ヶ里遺跡


これらは日本の様子を記した最古の記録である魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」の時代を彷彿とさせるもので国の特別史跡にも指定されています。

また、有柄銅剣やガラス製管玉等の出土品は国の重要文化財に指定されるなど、高い学術的価値を有するものです。

吉野ヶ里遺跡は、脊振山地南麓から平野部へ伸びた帯状の段丘に位置しています。


吉野ヶ里遺跡



吉野ヶ里遺跡入り口

吉野ヶ里歴史公園は、「弥生人の声が聞こえる」を基本テーマに、日本の優れた文化的資産である吉野ヶ里遺跡の保存と、当時の施設の復元や発掘物の展示などを通じて、弥生時代を体感できる場を創出し、日本はもとより世界への情報発信の拠点とすることを目的に作られました。



吉野ヶ里遺跡:北内部



吉野ヶ里遺跡:北内部


かつてこの地に佐賀県の工業団地を造る計画が持ち上がる中、遺跡の価値が改めて認識され、昭和61年(1986年)から本格的な文化財の発掘調査が行われました。

その結果、我が国弥生時代最大規模の環壕集落であることが確認され、また魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子を彷彿とさせる建物跡などが発見されたことにより、一躍全国の注目を集めました。日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっています。


吉野ヶ里遺跡:北内部



吉野ヶ里遺跡:北内部

平成4年(1992年)に国営吉野ヶ里歴史公園として整備することが閣議決定され、さらに国営公園区域の周辺に佐賀県の公園区域を設け、国と県が一体となった歴史公園として、平成13年4月からその一部が開園、平成26年4月1日現在では面積約86.7ヘクタール、(国営公園約51.3ヘクタール)、県立公園約35.4ヘクタール)が開園しています。

吉野ヶ里歴史公園は広いですから、バスで一番北のエリアまで移動し、以後逐次南に下がりながら復元された建物を見学しました。


北内部〜まつりごとの場所〜

吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な場所であったと考えられています。

田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所と考えられています。

また当時は、重要な物事が話し合いでは決まらない時には最高司祭者(祖先・神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人)に祖先の声を聞いてもらい、その声に従って決定していったと考えられています。


吉野ヶ里遺跡:北内部



吉野ヶ里遺跡:北内部


吉野ヶ里遺跡:北内部



北墳丘墓〜歴代の王の墓〜



北墳丘墓〜歴代の王の墓〜



北墳丘墓〜歴代の王の墓〜

北墳丘墓〜歴代の王の墓〜

吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています。

このお墓は人工的に造られた丘で、違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっています。中からは14基の甕棺が見つかり、ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもありました。

このお墓は弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、その後はお墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切にされていたようです。


甕棺墓列〜一般の人々の墓地〜

甕棺(かめかん)とは北部九州に特有の棺のことです。大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める埋葬方法で、弥生時代中頃のおよそ200年の間、盛んに使われていたようです。

吉野ヶ里では丘のいろいろな場所にまとまって埋葬されており、想定では15,000基を超える数が埋められていると考えられます。


北墳丘墓〜歴代の王の墓〜



甕棺墓列〜一般の人々の墓地〜

中でも、墳丘墓の北側には、真ん中に道(お参りするための道であるとも、左右に埋められている人々の身分の違いを表すための区別の線とも考えられている)が設けられていて、その両側に全部で2000基を超す甕棺が長さ600mにわたって整然と並べられています。

亡くなった人に対する当時の人々の想いを偲ぶことができます。



中のムラ〜祭り・政治・儀礼などの道具を作る場所〜



中のムラ〜祭り・政治・儀礼などの道具を作る場所〜


中のムラ〜祭り・政治・儀礼などの道具を作る場所〜

吉野ヶ里の最も重要な場所である北内郭で行われる祭りや儀式、政事に使ういろいろなものを神に仕える司祭者たちが作っていた場所と考えられています。


中のムラ



中のムラ


中のムラ



中のムラ

神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、絹の織物を作ったり、さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられています。

なお、現地にはありませんが、こうした作業に携わる司祭者たちが住んでいた住居もこの近くにあったものと考えられます。



中のムラ


中のムラ



南内部〜王や支配者層が住んでいた場所〜



南内部〜王や支配者層が住んでいた場所〜


南内部〜王や支配者層が住んでいた場所〜

吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています。

周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっていること、人々が住む竪穴住居が中心であること、当時としては極めて貴重な一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見つかっていることなどから、このように考えられます。


南内部〜王や支配者層が住んでいた場所〜



南内部〜王や支配者層が住んでいた場所〜

倉と市〜倉庫群、市も開かれていた〜

海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり、盛大な市が開かれたり、市で取引される品々が保管されていたと考えられる倉庫群などが集まった、吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています。

レンガなどに描かれた古代中国の市の様子とよく似た構造をしており、また当時の交易の重要な交通手段と考えられている「舟」が利用できる大きな川がすぐ近くを流れていたこと、さらにはこの地域全体が大きな壕で厳重に囲まれていることなどが、こうした考え方の基になっています。


西方倉庫群は平成11年度の調査で大きく四郡に分かれるさらに多くの高床倉庫群や竪穴建物が発見され、その配置などから、現在のところ具体的な遺構は指摘できませんが、「クニ」の倉、「廷閣」としての機能の他に『魏志』倭人伝にみえる「市」的な施設空間が存在した可能性があります。


柵の左側 倉と市〜倉庫群、市も開かれていた〜



太宰府天満宮



太宰府天満宮



太宰府天満宮

「吉野ヶ里歴史公園」から再び高速道路を利用して移動し「太宰府天満宮」を訪ねました。

太宰府天満宮は、菅原道真の墓所の上に社殿を造営し、その御神霊を永久にお祭りしている神社です。

「学問・至誠・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世の崇敬を集め、年間に約700万人の参拝者が訪れています。



太宰府天満宮



太宰府天満宮


菅原道真は、承和12年(845年)に京都で生まれ、幼少の頃から学問の才能を発揮し、努力を重ねて、一流の学者・政治家・文人として活躍しました。

しかしながら、政略により京都から太宰府に流され、延喜3年(903年)に太宰府政庁の南館において生涯を終えました。


太宰府天満宮



太宰府天満宮



太宰府天満宮



太宰府天満宮

門弟であった味酒安行が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることになりました。

延喜5年(905年)、墓所の上に祀廟が創建され、延喜19年(919年)には勅命により立派な社殿が建立されました。

その後、菅原道真の無実が証明され、「天満大目在天神」という神様の御位を贈られ、「天神様」と崇められるようになりました。

太宰府天満宮は、全国約1万2千社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と称えられ、多くの参拝者が訪れています。



太宰府天満宮



太宰府天満宮


太宰府天満宮から福岡空港に移動し、今回の福岡・佐賀の旅が無事終了しました。



 福岡・佐賀の旅その1へ


 福岡・佐賀の旅その2へ



        風来坊


太宰府天満宮


  目次  TOP