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深谷散策:日本煉瓦と渋沢栄一翁ゆかりの史跡巡り (H26.12.13)


JR深谷駅



JR深谷駅



JR深谷駅

JR東日本の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」の「東京駅開業100周年記念・日本煉瓦と渋沢栄一翁ゆかりの史跡巡り」に参加しました。

細部説明は「開業100周年を迎える東京駅を模して造られた深谷駅や、渋沢栄一関連の施設が集まった『論語の里』など見どころ盛り沢山のコースです」となっています。


コースの概要は次のとおりです。

深谷駅市民サービスセンター(駅構内:受付)旧日本煉瓦専用線(遊歩道)旧深谷宿常夜灯福川鉄橋備前渠鉄橋煉瓦資料館:ホフマン輪窯尾高惇忠生家中の家(渋沢栄一生誕の地)渋沢栄一記念館鹿島神社誠之堂・清風亭市民サービスセンター(ゴール)深谷駅


JR深谷駅



JR深谷駅から延びる遊歩道



深谷駅前の公園

所要時間約5時間、(施設での見学時間を含む)、歩行距離約15Kmです。

歩行距離約15Kmということで、極力寄り道をしないように努めた結果、所要時間5時間10分、約2万5千歩でした。


スタートポイントの深谷駅は、関東の駅100選に選ばれています。

深谷にありました日本煉瓦製造所で製造された煉瓦で東京駅が造られたことから、それに因んで東京駅をイメージした橋上駅に、平成8年(1996年)に改築されました。

深谷駅北口を右方向に出て、100mほど進むと遊歩道になりますが、この遊歩道は日本煉瓦製造専用線の廃線跡です。


日本煉瓦製造専用線廃線跡の遊歩道



日本煉瓦製造専用線廃線跡の遊歩道

日本煉瓦製造上敷免工場は深谷市北部の利根川に程近い場所にあり、かつては利根川を使った利根川舟運で東京を経て全国へ向けてレンガを輸送していました。

しかし舟運ではスピードや輸送力に欠けるため、明治17年(1884年)に上野から高崎まで開通した日本鉄道(現在のJR高崎線)を利用した鉄道輸送へ切り替えることとなり、明治28年(1895年)に工場から日本鉄道の深谷駅まで国内初の民間専用線を引き、鉄道による輸送を開始しました。



日本煉瓦製造専用線廃線跡の遊歩道


この工場で製造されたレンガはこの専用線を使って全国各地へ運ばれ、迎賓館や東京駅、碓氷峠の第三アーチ橋など、現在でも有名な建造物に多く使用されています。

しかし、昭和後半からはトラック輸送がメインとなり、これにより昭和50年(1975年)3月に専用線は廃止となりました。

その後、日本煉瓦製造自体も、近年の煉瓦需要減と原油高で業績が悪化し、平成18年(2006年)に120年の長い歴史にピリオドを打つことになりました。


日本煉瓦製造専用線廃線跡の遊歩道



日本煉瓦製造専用線廃線跡の遊歩道

日本煉瓦製造による煉瓦製造により、深谷市は一躍「レンガとネギの町」となり、深谷駅をはじめ、現在の市内の多くの建造物がレンガをイメージした建物になっています。

また、日本煉瓦製造専用線廃線跡が遊歩道として整備されています。

廃線跡は1番線ホームの裏手から遊歩道として始まり、上野方向へ向かって薬300mの間高崎線と併走します。

この遊歩道は約4km先の日本煉瓦製造工場跡まで続いています。また、途中までは、中央に分離帯があり自転車道と歩行者道とに区分されています。



旧深谷宿常夜燈


深谷駅から遊歩道を1kmほど進んだ右手に「旧深谷宿常夜燈」があります。

「旧深谷宿常夜燈」は深谷宿の発展を祈願して明治初頭に、宿の東端に建てられた、高さ4mの中山道最大の常夜燈です。

天保11年(1840年)に、宿の西端に建立された常夜灯も現存しています。


旧深谷宿常夜燈



福川鉄橋



福川鉄橋



福川鉄橋

「旧深谷宿常夜燈」から遊歩道を1.3kmほど進むと「福川鉄橋」です。

明治28年(1895年)、日本煉瓦製造株式会社は日本で最初の専用鉄道を、深谷駅から上敷免工場まで敷設しました。その際堀川に架けられた鉄橋で、イギリス人ボーナルが考案した鋼板桁橋です。

ポーナル型プレートガーダー橋と言われ、同タイプの鉄橋では国内最古のものであり、現在では深谷市指定文化財になっています。

堀川の拡幅に伴い隣に移設され、周辺をブリッジパークとして開放されています。


「福川鉄橋」から2kmほど進むと「備前渠鉄橋」があります。

備前渠鉄橋は福川鉄橋同様ポーナル型プレートガーダー橋で、専用線内最長の長さ(15.7m)を誇るものとして、また、隣接する煉瓦アーチ橋はわずか2mの長さながらも完全な煉瓦構造の橋と推定される貴重文化遺産として、国指定重要文化財に指定されています。


備前渠鉄橋



日本煉瓦製造株式会社跡



日本煉瓦製造株式会社跡



日本煉瓦製造株式会社跡

「備前渠鉄橋」を渡るとすぐ右手が日本煉瓦製造株式会社跡です。

日本煉瓦製造株式会社は、近代的な官庁街や鉄道等の整備を強く推進していた明治政府の意向を受け、明治21年(1888年)に操業を開始しました。

当地で製造された煉瓦は、東京駅や東宮御所(現赤坂迎賓館)などに使用されており、日本の近代化に大きく寄与しました。


しかし、時代とともに煉瓦需要が減少したこと、安価な外国産煉瓦の市場拡大を原因として平成18年(2006年)、約120年の歴史に幕を下ろしました。

工場の一部として、「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電室」が残っており、国指定の重要文化財となっています。

それらの建物は、日本煉瓦製造株式会社の事業清算の際に、深谷市に寄贈されることとなり、現在は深谷市が施設を管理しています。


日本煉瓦製造株式会社跡



日本煉瓦製造株式会社跡

「煉瓦史料館」は、「旧事務所」で木造平屋建て、外壁板張り、煉瓦基礎で、裏側にベランダがあります。

現在は、史料館として写真や文書などの貴重な資料を展示しています。

開館日は土曜日・日曜日のみで、開館時間は午前9時から午後4時です。



ホフマン輪窯6号窯(掲示されている写真を撮影したものです)


煉瓦史料館から200m程度の場所に「ホフマン輪窯6号窯」があります。
ドイツ人煉瓦技師ホフマンが考案した連続焼成の可能な輪窯です。

明治40年(1907年)に造られた6号窯は、長さ56.5m、幅20m、高さ3.3mの規模を有する煉瓦建造物です。

ここで焼かれた煉瓦は、赤坂離宮や東京駅など多くの近代建築に使用されています。

ホフマン輪窯6号窯は、事前予約で公開されており、10人以上の団体が対象となっています。事前予約は深谷市文化振興課で、予約による見学可能日は、煉瓦史料館の開館日の開館時間内です。


ホフマン輪窯6号窯のある建物



小山川沿いの散策路



小山川沿いの散策路

「煉瓦史料館(旧事務所)」から北西方向に200mほど進むと小山川に架かる「小川橋」です。

「小川橋」の手前を左折し、駅からハイキングの案内図にしたがって、小山川の土手に沿って進み、2つ目の「入川橋」を渡って右折し、100mほど進んだ下り坂をUターンして、案内図にしたがって田園地帯の細い道を700mほど進んだ変則四叉路を左折して800mほど進むと「下手計」交差点です。

「入川橋」を渡らずに土手をさらに300mほど進んだ「共栄橋」を渡って800mほど進むと「下手計」交差点ですが、復路と重なるため、裏道が散策コースとなっています。


尾高惇忠生家


「下手計」交差点から100mほど進んだ右手が「尾高惇忠生家」です。

尾高惇忠は渋沢栄一の10歳年上の従兄弟で、渋沢栄一に論語を教えたことで知られています。明治維新後は、富岡製糸場の初代工場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを勤めました。

妹の千代は渋沢栄一の妻となります。

尾高惇忠生家は、江戸時代後期に惇忠の祖父が建てたものといわれ、惇忠や栄一らが高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋が2階にあります。


尾高惇忠生家



旧渋沢亭(中の家)



旧渋沢亭(中の家)



旧渋沢亭(中の家)

「尾高惇忠生家」から道なりに1.5kmほど進むと「生家入口」のバス停があり、さらに100mほど進んだ右手が「旧渋沢亭(中の家)」です。

渋沢栄一の生まれた家は「中の家」と呼ばれています。養蚕や藍玉作りとその販売のほか、雑貨屋・質屋も兼ねて大変裕福でした。


多忙の身であった渋沢栄一ですが、時間を作って年に数回はこの家に帰郷しました。

本建物は栄一妹夫妻によって明治28年(1895年)に建てられたもので、渋沢家の住宅として使われていましたが、昭和58年(1983年)より「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学びました。


旧渋沢亭(中の家)



青淵公園



青淵公園

旧渋沢亭の裏手に「青淵公園」があります。

「青淵公園」は、東西に広がる面積9万8千平方メートルの広い公園です。

園内には小高い丘の傾斜を利用して設置されたグリッサンド型のローラー滑り台やロープウェイ、ウォールクライミング遊具などが設置されています。

公園内の遊歩層を進むと「渋沢栄一記念館」の裏手に出ます。

「渋沢栄一記念館」は、平成7年11月11日、渋沢栄一の命日に合わせて開館しました。

館内の資料室には、渋沢栄一の遺墨や写真など多くの資料が展示されています。また、館外には、論語を持った渋沢栄一の銅像が赤城山を望んでいます。



渋沢栄一記念館


近代日本経済の父といわれる渋沢栄一は、幼い頃から家業である藍玉の製造・販売・養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受けました。7歳になるといとこの尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習いに通いました。

20代で倒幕思想を抱き、惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取りを計画しましたが、長七郎は京都での見聞からこれに反対し計画は中止されます。その後、喜作とともに京都へ向かい、一橋(徳川)慶喜に仕官しました。


渋沢栄一記念館



鹿島神社

 一橋家で実力を発揮した栄一は27歳の時、慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情に触れることができました。

明治維新となって帰国すると日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府の大蔵省に仕官します。栄一は富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わりました。

大蔵省を辞めた後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ、約500の企業の設立に関わったといわれています。また約600の教育機関・社会公共事業の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。


「渋沢栄一記念館」の傍に鹿島神社があります。

鹿島神社は旧下手計村の鎮守であり、境内には渋沢栄一らによって建てられた尾高惇忠の人となりや業績を伝える藍香尾高翁頌徳碑が建っています。

碑は徳川慶喜篆額、三島毅撰、日下部東作書によるもので、市指定有形文化財に指定されています。


鹿島神社



誠之堂・清風亭



誠之堂



誠之堂

「鹿島神社」の前の道路は、尾高惇忠生家から旧渋沢亭(中の家)に向かった道路です。

鹿島神社前を左折し、500mほど進んだ「下手社」交差点を右折し、800mほど進むと「共栄橋」です。「共栄橋」を渡った左手が「誠之堂・清風亭」です。


誠之堂は大正5年(1916年)に渋沢栄一の喜寿を祝って建築されました。

 
渋沢栄一は、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、日本の近代経済社会の基礎を築きました。その拠点としたのが第一国立銀行でしたが、明治29年(1896年)、同行は第一銀行となり、栄一は、その初代頭取を務めました。

 
栄一は、喜寿を迎えるのを機に、第一銀行頭取を辞任しましたが、同行の行員たちが出資を募って誠之堂を建築されたものです。


誠之堂



誠之堂

煉瓦造平屋建、建築面積112平方メートル。外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を取り入れるなど、様々な要素が盛り込まれ、それらがバランスよくまとめられています。

その後、取り壊しの危機に瀕しましたが、平成11年(1999年)に東京都世田谷区から移築されました。

平成15年(2003年)国の重要文化財に指定されました。



誠之堂


誠之堂



清風亭



清風亭


清風亭は、大正15年(1926年)に、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希を記念して、清和園内に誠之堂と並べて建てられました。

建築資金は、誠之堂と同じくすべて第一銀行行員たちの出資によるものでした。

栄一が「謙徳に富んだかた」と評した佐々木は、当初、自身の古希を記念する建物の建設を辞退しようとしたそうです。目立つことを好まない質実な性格をしのばせる逸話です。


清風亭



清風亭



清風亭

建築面積168平方メートルで、鉄筋コンクリート造平屋建。
 

外壁は、人造石掻落し仕上げの白壁で、対称的に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦がアクセントをつけています。

平成16年(2004年)に、埼玉県指定有形文化財に指定されました。



深谷市役所


「誠之堂・清風亭」から案内図にしたがって3kmほどでJR深谷駅(ゴール)です。


関連のホームページ

 深谷市ホームページ(観光・歴史・特産)

 深谷市観光協会


      風来坊


深谷駅前の渋沢栄一像


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