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渡辺崋山の足跡を飾る (H26.11.23)


絹撚記念館



桐生駅南口

JR東日本の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」の「大悲劇の才人 渡辺崋山の足跡をたどる まちなかハイキング」に参加しました。

細部説明は「江戸時代後期の武士で、画家や文人として知られる渡辺崋山。その足跡をたどりながら、絹にまつわる施設や桐生織の商品や「ひもかわ」といった桐生ならではの商品や食べ物、古い建物が残る『重要伝統的建造物保存地区』など、桐生の見所を楽しむことができます。」です。


コースの概要は次のとおりです。

JR桐生駅桐生観光物産館わたらせ(受付)錦町十字路本町5丁目岩本茂登の墓岩本家跡有鄰館(チェックポイント)桐生天満宮美和神社雷電山(水道山)織石山桐生織物記念館桐生観光物産わたらせ(ゴール)桐生駅


歩行距離約9km

歩行時間約3時間(施設での見学時間を除く)

所要時間約4時間(施設での見学時間を含む)


絹撚記念館



絹撚記念館

歩行距離9Kmで、歩行時間3時間???・・・・雷電山(水道山)への登山がコースに組み込まれていました。

10月4日参加した「桐生絹遺産めぐり」と重複しているコースもあったことから、施設の見学をパスした箇所もあり、所要時間は3時間20分、1万6千歩でした。

コースの最後に山登りのあるのはきついです!



中央公園


桐生駅南口のロータリーの先の信号のある交差点を左折して、200mほど進んだ左手が「絹撚記念館」です。

「絹撚記念館」は、桐生撚糸工場の事務所として大正6年(1917年)に建設され、現在では桐生市文化財保護課の事務室として利用されています。

木骨石造で、外壁はセメント漆喰塗り、屋根は鉄板葺ですが、建築当初はスレート瓦でした。


中央公園



中央公園

桐生撚糸合資会社は、明治35年(1902年)に当時の殖産興業政策により模範工場として設立され、明治41年(1911年)に模範工場桐生撚糸株式会社、大正7年(1918年)に日本絹撚株式会社となりました。

広い敷地をもつ大工場で、敷地内にはノコギリ屋根工場が建ち並んでいましたが、現存しているのは事務所棟のみです。


平成6年に「旧模範工場桐生撚糸合資会社事務所棟」の名称で桐生市指定重要文化財となりました。



雷電神社


「絹撚記念館」から100mほど進んだ信号のある交差点を右折し、100mほど進んだ右手が「中央公園」です。

さらに100mほど進んだ左手に「十ヶ塚稲荷神社」があります。

さらに100mほど進んだ信号のある交差点を左折して300mほど進むと「錦町十字路」交差点です。


雷電神社



浄運寺



浄運寺

「錦町十字路」交差点を左折して、本町通りを200mほど進んだ左手が「雷電神社」です。

「雷電神社」は関東地方を中心に、日本全国に点在する神社で、一様に雷除けの神とされていますが、祭神や由緒は必ずしも一定でないようです。

桐生市の雷電神社は、関東地方に数多い「雷電さま」の総本宮とのことです。

桐生市の雷電神社は、歴史が古く、1400年以上さかのぼるとのことで、推古天皇の御代、聖徳太子が天の神の声を聞いて、伊奈良の沼に浮かぶ小島に祠を設け、天の神をお祀したのが最初とされています。


主な御祭神は、天地に轟き、火と水の大いなる働きをつかさどりたもう、火雷大神・大雷大神・別雷大神です。また、併せて、学問の神、管原道真公が祀られています。

雷電神社の本殿は、正面の真ん中に一本柱が立ち、その左右に扉が付くという、全国で七ヶ所しか見られない、神秘の造りです。大いなる雷電様のお力が外に出ないようにし、いかなる災厄をも祓い去って下さる大神様の偉大な御力を私たちのためにお恵み戴こうというものとのことです。


浄運寺



本町通り



本町通り

「雷電神社」から本町通りに沿って200mほど進んだ左手が「浄運寺」です。

さらに本町通りを300mほど進んだ「本町5丁目」の交差点を右折すると末広通りです。

末広通りを300mほど進むと左手に東小学校があり、その先の信号のある交差点の左右の通りが中通りです。

中通りを横切って300mほど進んだ信号のある交差点を左折し、200mほど進むと信号のある交差点に到着します。


この交差点の左前方に広い空き地があり、「日限地蔵尊 観音院」の大きな石柱が建っています。

この空き地の奥の方に「岩本茂登の墓」があります。


渡辺崋山の妹・岩本茂登の墓所



岩本茂登の墓

渡辺崋山の妹、茂登が桐生の岩本家に嫁いだことから桐生と火山の関係は始まります。

渡辺崋山はその生涯で三度(一説には二度)桐生を訪れ、多くの記録を残しています。


信号のある交差点を左折し、600mほど進むと「本町4丁目」の交差点です。

交差点を右折して400ほど進んだ右手が「有鄰館」です。

「有鄰館」は、かつては酒・味噌・醤油を醸造し、保管するために使用されていた江戸時代から昭和時代にかけての11棟の蔵群が、舞台や展示、演劇、コンサートなど様々な用途に使用されています。


本町通り



有鄰館



有鄰館

多くの人が訪れ、プロアマを問わず、それぞれの目的によって自ら会場を作り上げて行く独特の活用方法で「文化を発信する場」として、また、周辺に残る歴史的建造物や近代化遺産などと一体となったまちなみ保存の拠点にもなっています。

「有鄰」とは、孔子の「徳孤ならず必ず鄰あり」という故事 から引用した言葉です



路地の右側が渡辺崋山が逗留した岩本茂兵衛宅跡です


「有鄰館」について、渡辺崋山はその規模や種々の生業について詳しく述べています。

「有鄰館」の傍にある矢野園から小道(近江辻子)を挟んだ向かいが、渡辺崋山が逗留した岩本茂兵衛宅跡です。

1831年10月12日から12月6日まで、渡辺崋山はこの場所を足がかりに周辺地域に多くの足跡を残します。

その際の記録が「毛武游記(もうぶゆうき)」です。

その詳細な記録により、当時の風俗を知る貴重な資料となっています。
旧岩本家跡には、岩本家とは関連のない方が住んでおり、公開されていません。


桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区



桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区



桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区



桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区

「有鄰館」から桐生天満宮までの本町通りは「桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている、伝統的な街並みです。

天正19年(1591年)に桐生新町が形成されて以来、この地区は織物の中心地として桐生の経済発展を支えてきました。



桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区


桐生の織物業は大正期から昭和初期に最盛期を迎え、当時の桐生新町の町並みには買継商や糸商、呉服商、染物業など織物業の店舗などが建ち並びました。

現在でも、当時の面影を伝える数多くの建造物が残されています。


桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区



桐生天満宮



桐生天満宮



桐生天満宮

「有鄰館」から500mほど進んだ左手が「桐生天満宮」です。

「桐生天満宮」は、景行天皇の時代(71年〜130年)に天穂日命を祀る神社として創建されたと伝えられています。

当初は礒部明神と称されていました。南北朝時代初期に当地を支配した桐生家が代々の守護神として崇拝しました。

観応年間(1350年頃)に、現在地に移し、菅原道真を合祀して天満宮となりました。


江戸時代には徳川家の祈願所となりました。

現在の社殿は、1789年に建造されたものです。

現在の桐生市街は、桐生天満宮を基点として成立しており、天満宮鳥居前が本町一丁目となっています。桐生市は多くの高校が存在するため、受験シーズンには多くの参拝者が訪れます。

天満宮に参拝した渡辺崋山は、境内の風情を褒め、特に社殿については「都でもなかなか見れないものだ」と感嘆の言葉を残しています。


桐生天満宮



群馬大学工学部同窓記念会館



桐生天満宮

桐生天満宮の北東側に群馬大学工学部が、西側に桐生工業高等学校があります。

織都桐生に繊維関係の高等教育機関をという願いがかない、大正5年(1916年)に染織と紡織の二科を専門とする桐生高等染織学校が設置されました。

その後、桐生工業専門学校の時代を経て、昭和24年(1949年)に群馬大学工学部となり現在に至っています。


大正5年(1916年)の創立時に建てられた本館玄関の一部と講堂が、「群馬大学工学部同窓記念会館」として残されています。

創立時は敷地の中央に建っていましたが、昭和47年(1972年)の校舎新築時に現在の場所に移築復元されました。


この建物は、西洋木造建築の技法とデザインの習得がようやく完成した時期のもので、特に、講堂内はハンマービームと呼ばれる独特な屋根構造をもち、教会堂のように厳粛でありながら華やいだ空間を創りだしています。


群馬大学から美和神社に向かう道



美和神社



美和神社



美和神社

「群馬大学工学部同窓記念会館」前の交差点を左折し、200mほど進んだ最初の交差点を左折すると山手通りで、左側の建物が群馬工業高等学校です。

山手通りを道なりに800mほど進んだ右手が「美和神社」です。

「美和神社」は崇神天皇の代に大和国の三輪山から勧請したと伝えられています。

「日本後記」に延暦15年(796年)に賀茂神社とともに官社に列したと記されています。

渡辺崋山は、織石山に向かう道中、美和神社についても細かに記述を残しています。付近の山の風情についても、感動したようです。



大川美術館



水道山公園


「美和神社」から山手通りを300mほど進んだ「小曽根町」の交差点を右折し、「大川美術館」方面の案内板にしたがって300mほど進むと「大川美術館」で、「水道山公園」への登山道の入口です。


大川美術館



水道山公園



水道山公園



水道山公園

「水道山公園」は桐生市街地の北西部に位置する雷電山(水道山)一帯を、公園として整備したものです。

市街地との標高差が100mあるため、園内の展望台からは桐生市内を一望でき、夜景のスポットとしても人気があります。

風致に富んだ公園のため野鳥も多く、山の斜面に咲く約400本の桜が満開になる春や紅葉の季節である秋が特にお勧めとのことです。

また、隣接する吾妻公園と水道山公園を結ぶ散策コースや、天気が良いときは富士山が見える吾妻山の登山口もあることから、多くのハイカーにも親しまれています。


山頂には、古来より雷電神社が鎮座していましたが、明治の神社整理によって堤町の白髭神社に合祀されました。

神社の跡地である広場には忠霊塔が建立されています。

渡辺崋山は、織石山から山を巻いて登道を「さざえ道」と形容しています。雷電山からの展望は素晴らしく、また、麓から聞こえる水車や機織りの音と相まって大いに気分を良くしたと記しています。


水道山公園



水道山記念館



水道山記念館

水道山から下りてくると「大川美術館」のすぐ近くに「水道山記念館」があります。

「水道山記念館」は、昭和7年(1932年)に「配水場事務所」として建設された、モダンな建物です。

昭和47年(1972年)、40年に及んだ配水場事務所としての役割を終了しました。

昭和61年に改修工事を行い、名称を「桐生市水道山記念館」と改め、現在では市民の会議や研修会に利用されています。


「桐生市水道山記念館」から「大川美術館」とは反対方向に道なりに坂道を下ると丁字路があります。この付近が「織石山」です。

1831年10月15日に渡辺崋山は桐生新町を眺めるために織石山に登ります。

しかしながら松に覆われて展望が悪く、より高い雷電山(水道山)を目指して登ったとのことです。


織石山



西桐生駅



西桐生駅

丁字路を左折して300mほど坂道を下った交差点を左折し、50mほど進んだ信号のある交差点を右折して100mほど進むと右手が上毛電鉄鉄道の西桐生駅です。

昭和3年(1928年)に建設された昭和初期のモダンな洋風建築で、創建当時の姿が良好な状態で残っている貴重な建物です。

映画「君に届け」や「少年H」など、多くの映画やドラマの撮影に使用されています。



桐生織物記念館


西桐生駅前を左折し200mほど進んだ右手が「桐生織物記念館」です。

「桐生織物会館旧館」は、昭和9年(1934年)に桐生織物向上のため設立された桐生織物同業組合の事務所として建てられました。

外壁はスクラッチタイル張、屋根は青緑色の日本洋葺、2階窓にはステンドグラスを用いて洋風の外観となっています。


桐生織物記念館



桐生織物記念館



桐生織物記念館



桐生織物記念館

桐生の織物業の隆盛を今に伝える建築物として、国の有形文化財に登録されています。

現在は「桐生織物記念館」として一般公開されており、主に1階は桐生織物販売場として、2階を織物資料展示室として利用されています。



桐生織物記念館



桐生織物記念館


織物資料展示室には、数多くの絹織物が展示されています。

「桐生織物記念館」から南方向に200mほど進んだ「末広町」交差点を右折し、300mほど進んだ「桐生駅前交差点」を左折すると「桐生駅(ゴール)」です。



          風来坊



桐生織物記念館


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