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思川桜と「開運のまちおやま」歴史散策コース (H26.4.9)


思川桜



思川桜



思川桜

JR東日本の「駅からハイキング」のイベント「思川と『開運のまちおやま』歴史散策コース」に参加しました。

細部説明は「市内中心部を流れる思川の堤に植えられた千本にも及ぶ思川桜と菜の花が織りなす景観と、徳川300年の礎となった「小山評定」に裏付けされる『開運のまちおやま』。自然、歴史、文化に彩られたまちをお楽しみください。」となっています。


コースの概要は次のとおりです。

小山駅→まちの駅思季彩館→須賀神社(参道)→妙建寺→長福城跡→西林寺→鷲神社(鷲城跡)→西堀酒造→川の一里塚→小山総合公園→小山政光・寒川尼像→城山公園(祇園城跡)→小山評定跡→まちの駅思季彩館(ゴール)→小山駅


思川桜



コースの歩行距離は約12km、歩行時間約3時間(施設での見学時間等を除く)、所要時間約4時間(施設での見学時間を含む)です。

桜を撮影しながらの散策でしたが、所要時間は4時間、約1万8千歩でした。
やはり12Kmは長いです。

思川桜は7分咲きでしたが、ソメイヨシノは散り始め、シダレザクラが満開といろいろな桜を楽しむことができました。

小山駅西口から前方に伸びている道を200mほど進んだ「駅前上町」の交差点を左折して30mほど進んだ左手が「まちの駅思季彩館」です。

「まちの駅思季彩館」は、小山ブランドを初めとした地域の特産品や、地元産の新鮮野菜や果物、生花の販売など、地域のアンテナショップとして中心市街地に設置されたものです。



須賀神社参道



須賀神社参道



須賀神社

「まちの駅思季彩館」で受付を済ませ、300mほど進んだ信号のある交差点を右折すると「須賀神社」の参道で、参道を300mほど進むと「須賀神社」です。

藤原秀郷が天慶の乱に際して、日夜素盞嗚命(スサノオノミコト)に戦勝を祈願し、これが成就したことにより、天慶3年(940年)4月、京都の八坂神社(祇園社)から、分霊を勧請して祀ったのが、須賀神社の始まりです。

当初は小山の字北山(現在の中久喜地内)にまつられましたが、小山城の築城に際し、城の鎮守とも仰がれ、平治年間(1159〜60年)に現社地に遷座しました。以来、小山六十六郷(小山市全域に野木町、国分寺町、下石橋、結城市小田林地区を含む)の総鎮守と仰がれています。



須賀神社


徳川家康は、慶長5年(1600年)7月、須賀神社境内にて小山評定(軍議)を開き、参籠して関が原の戦勝を祈願しました。

のち祈願成就したことにより、その報賽に51石余の社領を寄進し、うち15石が朱印地とされました。その寄進状は市指定の文化財で、社蔵されております。

また、徳川家康の崇拝神社なる故をもって、万治元年(1658年)に、日光東照宮を造営した職人によって、同宮の縮尺で奉製された朱神輿(アカミコシ)が、須賀神社に奉納されました。


須賀神社



妙建寺のシダレザクラ



妙建寺のシダレザクラ



妙建寺のシダレザクラ

須賀神社の右隣りに「妙建寺」があります。

「妙建寺」は日蓮宗の寺院で、建武元年(1334年)に、日蓮の弟子六老僧の一人伊予房日頂聖人の弟子の成就院日念聖人によって建立されました。

現在の本堂は、享保2年(1717年)から16年かけて再建されたものです。

格天井には百人一首が描かれていて、寺院建築では珍しいとのことです。


本堂は、享保年間に再建されて以来、一度も火災に見舞われていないとのことです。

本堂は、境内のシダレザクラとともに、小山の百景に登録されています。


妙建寺



長福城跡

「妙建寺」から須賀神社の方向に戻り、須賀神社から300mほど進んだ「小山市水道事業」の建物の先を右折して、細い路地を200mほど進んだ左手が「やはた公園」です。

この場所が「長福城跡」ですが、石碑は1本建っているのみでした。


「長福城跡」から案内板にしたがって900ほど進んだところが「西林寺」です。

西林寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。

西林寺は小字(こあざ)を「船場」という思川沿いにあり、中世から近世にかけて付近に船着場がありました。浄土真宗の寺院にはこのように交通の要衝に建てられている例が多く見られ、商人などから信仰を集めていました。

本堂北側に密集している中国産の四方竹は、この船着場を往来していた商人などによって植えられたものだと考えられている。


西林寺・長福城跡への案内板



西林寺



鷲神社(鷲城跡)入口

西林寺から200mほど進むと右手に「鷲神社」の案内板があります。案内板にしたがって進むと杉林が続いています。

杉林は鷲神社の参道で、長さ200m余りの参道に、片側80本前後、両側で約180本の杉が植えられています。

樹齢300年〜500年と推定される老木から、樹齢10年程度の若木まで入り交じっています。

参道の奥が「鷲神社(鷲城跡)」です。



鷲神社(鷲城跡)参道


鷲城の築城年代は不明です。

小山氏は、鎌倉時代以来下野国の守護に任じられ、中世を通じて下野国最大の豪族でした。鷲城は中久喜城、祇園城とならび、小山氏の主要な居城であるとともに、1380年から1383年にかけて起こった小山義政の乱において本城としての役割を果たしました。

小山義政の乱における小山方の拠点として文献資料に記されているのは、鷲城のほかに、岩壺城(中久喜城)、新々城、祇園城、宿城があります。

今日、櫓台、土塁、堀の痕跡が残っており、本丸には鷲神社があります。
外城は宅地化され、小山総合公園が隣接しています。

鷲城跡は、中久喜城、祇園城とともに「小山氏城跡」として、国の史跡に指定されています。


鷲神社



鷲城跡

小山義政の乱

1380年5月16日、小山氏の家督を継いだ義政は、鎌倉公方足利氏満の静止を無視し、宇都宮茂原において宇都宮基綱と戦い、宇都宮基綱を攻め殺した。

これによって、鎌倉公方足利氏満の怒りを買うこととなり、鎌倉公方足利氏満は6月1日、関東八ヶ国の将士に参陣を命じて小山義政を討伐させるための軍を起こしたのである。


小山義政に対する討伐は、3回にわたって行われ、第三次討伐によって、名門小山氏は滅亡しました


小山義政の乱で、小山氏は滅亡しましたが、結城基光の二男下野守泰朝が小山氏を再興しました。

再興された重興小山氏は、以前の小山氏とは異なり、鎌倉府に忠実な家として再出発することになりました。


国道4号線



西堀酒造



西堀酒造



西堀酒造

鷲神社入口に戻り、南西方向に400mほど進むと丁字路です。右折すると小山総合公園ですが、今回は左折し200mほど進んだ信号のある交差点を右折すると国道4号線です。

ここ同4号線に沿って2Kmほど進んだ「栗宮南」交差点の右手前が「西堀酒造」です。

小山にはかつて滋賀からやってきた近江商人が次々と酒蔵を構えたことから、酒造りに適した土地だったようで、現在でも4社の酒蔵が稼働しています。


西堀酒造は明治5年(1872年)、西堀三左衛門が創業し、現在まで5代続く造り酒屋です。

西堀家は38代も続くという近江商人で、東近江市大塚町(旧蒲生町)に屋敷があり京都御所の北側で紡績業を営んでいました。

幕末に、西堀家の33代目となる西堀三左衛門が酒造業に参入すべく近江商人のネットワークを頼りにこの地に来ました。

売りに出ていた呉服問屋の屋敷を手に入れた西堀三左衛門は、明治5年に酒造業に参入し、現在が5代目です。

「若盛」「門外不出」という銘柄の酒を製造しています。


西堀酒造



思川堤防の思川桜



思川堤防の思川桜



思川堤防の思川桜

「栗宮南」交差点を右折し、道なりに600mほど進むと思川の川堤に出ます。

右折すると川堤には桜並木が続いています。

この思川の堤防沿いの桜は、桜の里親制度により小山氏の花「オモイガワザクラ」が植樹されたものです。

桜並木の根元には菜の花が植えられており、思川桜と菜の花のコラボレーションを楽しみながら散策することができます。


思川桜は、昭和29年(1954年)に小山市東島田の思川のほとりにある修道院の庭先で、春秋二度咲く「十月桜」の種子を東大理学部付属植物園元主任の久保田秀夫が採取し、種を蒔いて育てたところ花の様子が違っており、色が濃く花は小ぶりの突然変異でした。

この新種の桜に、修道院のそばを流れているきれいな川のイメージにぴったりとのことから「思川桜」と命名し、学会に発表されたものであり、小山市原産の名桜です。


思川堤防の思川桜



思川桜



思川桜



思川桜

花弁は10片ほどの半八重咲きで、春にだけ花を咲かせます。

ソメイヨシノと八重桜の中間の時期に淡い紅色の可憐な花が咲き、その枝ぶりもやわやわと優しいのが魅力とのことです。



思川桜


思川桜


思川を上流に向かって2Kmほど進むと右手に「川の一里塚」があります。

「川の一里塚」は国土交通省と地元自治体が主な河川の堤防上に設置しているミニ公園です。

その役割として、災害時の水防活動の拠点、自然とふれあい拠点、レクレーションの拠点、川のランドマークが挙げられています。

平成元年に初めて小貝川に設置され、その後鬼怒川を初めとして全国に広がっています。

「川の一里塚」は、江戸時代の一里塚のように一里ごとに設置されているのではなく、不等間隔です。


川の一里塚



小山総合公園の思川桜



小山総合公園の思川桜



小山総合公園

「川の一里塚」の100mほど先の右手が「小山総合公園」です。

「小山総合公園」は小山市のほぼ中央に位置する、思川に隣接している公園です。

広い芝生公園では、走ったりスポーツをしたり、いろいろ楽しむことができます。また、その周囲を変り種自転車などを借りてサイクリングをすることもできます。

さらに、大型遊具なども多く、家族連れや友達同士で思う存分遊んだり、ピクニックしたりと開放的に楽しめ公園です。


また、近代的な設備を誇る県南体育館や温水プール館などのスポーツ施設も、色々整備されており、本格的にスポーツを楽しむこともできます。

その他、バーベキュー広場ではバーベキューができますし、「ほたるの館」の水路では6月初旬の夜に地元ボランティアの方が育てたほたるが鑑賞することができます。

「小山総合公園」にも数多くの思川桜が植えられており、川堤のみでなく、公園内部でも桜を楽しむことができました。


思川の遊歩道



思川の遊歩道



思川の遊歩道



思川の対岸の桜

「小山総合公園」の傍で川堤に植えられている桜並木は終了し、「小山総合公園」から上流は河川敷の傍に設けられた散策路を歩くことになります。

2Kmほど上流に向かって進むと、再度思川の土手の上の道に出ます。

ここから上流も土手の上に思川桜が植えられています。

この付近の思川桜の木は下流よりは大きな感じです。



思川堤防の桜並木


対岸の大学の傍にも思川桜の桜並木がありました。

土手の上の桜並木を300mほど進んだ右手に「小山政光・寒川尼像」の碑が建っています。

小山氏は、平安時代に武蔵野の国に本領を有し、藤原秀郷の後裔と称した太田氏を出自とする地方豪族です。

1150年頃、太田政光が下野国小山に移住して小山氏を名乗りました。

政光は、八田宗綱の女を後妻に迎えましたが、その妻が後に源頼朝の乳母である寒河尼となったことから、頼朝の信頼厚く、鎌倉幕府において重用されることとなり、小山氏隆盛の礎を築きました。


思川堤防の桜並木



小山政光・寒川尼像

小山氏の三男・朝光は寒河尼との間に生まれた子供です。

平安時代末期の治承4年(1180年)の源頼朝による反平家の挙兵に、大番役の小山政光の三男朝光が馳せ参じています。朝光は頼朝の乳母子に当たることから、特に頼朝の信頼は厚かったといわれています。

その後、長男朝政、次男宗政も頼朝陣営に参陣しています。


その後も、小山氏兄弟は、頼朝の叔父の反乱を野木宮合戦で鎮圧し、平氏追討戦の奥州合戦でも参陣して武功を挙げました。

小山政光の跡は長男朝政が継ぎ、次男宗政が長沼氏、三男朝光が結城氏を名乗るなど、小山3兄弟はそれぞれ独立した勢力となります。

小山氏は嫡流で、結城家、長沼家は庶流として下野南部地区の一大勢力となりました。小山政光は小山氏の祖といえる人物です。


思川桜



城山公園(祇園城跡)



城山公園(祇園城跡)



城山公園(祇園城跡)

「小山政光・寒川尼像」から200mほど上流の高台が「城山公園(祇園城跡)」です。

祇園城は久安4年(1148年)に小山政光によって築かれたという伝承があります。

祇園城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城でした。当初は鷲城の支城でしたが、南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となりました。

小山氏は義政の乱で鎌倉府により追討され断絶しましたが、同族の結城家から養子を迎えて再興しました。


その後は、代々小山氏の居城でしたが、天正4年(1576年)に小山秀綱が北条氏に降伏して開城し、北条氏の手によって改修され、北関東攻略の拠点となりました。

小田原征伐ののち、慶長12年(1602年)頃、本多正純が相模国玉縄より入封しましたが、正純は元和5年(1619年)に宇都宮へ移封となり、祇園城(小山城)は廃城となりました。

祇園城跡が整備された城山公園は、思川を望む高台にあり、春には思川桜やソメイヨシノを楽しむことができます。


城山公園(祇園城跡)



城山公園からの展望



城山公園からの展望

城山公園から南の方向に200mほど進んだ右手が「小山市役所」です。

「小山市役所」の敷地内に「小山評定跡」の石碑があり、石碑には次のように書かれています。

「慶長5年(1600年)7月24日、徳川家康は、会津の上杉景勝を討つべく小山に到着しました。このとき、石田三成が家康打倒の兵をあげたことを知り、翌25日この地において軍議が開かれました。これが「小山評定」といわれるものです。
軍議は、3間4方の仮御殿を急造し、家康と秀忠を中心に、本田忠勝、本多正信、井伊直政や福島正則、山内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らの諸将が参集しました。福島正則が協力を誓い、これをきっかけに軍議は家康の期待どおりに決まりました。
同年9月25日、関ヶ原の戦いがおこなわれ、東軍(徳川方)の勝利にむすびついた歴史上重要な所です。」


小山評定跡



小山評定跡

「小山市役所」から、元の道路に戻り、南東方向に300mほど進むと「小山駅西口」です。

その手前の「駅前上町」交差点を右に50mほど進むと「まちの駅思季彩館(ゴール)」です。


            風来坊


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